3週間ぶりに受講した第4回楽知六講座で、今回は「なぜ庄内に即身仏がうまれたか?」。
是非聴きたかった講座である。「その原因の一つに、別当天宥が羽黒山を真言宗から天台宗に改宗することによって起こった、真言宗4ヶ寺との諍いがあったことは見逃せない」と、初回の講義で春山先生が指摘したことを覚えている。
今日の午前中の『羽黒山歴史探訪』に続き、ここでも別当天宥が出てきた。これは面白い‼
庄内地方に即身仏が生まれた要因として、①庶民救済と信仰、②羽黒と湯殿との抗争、③縄文時代からの死生観 が考えられるという。
その中で、荒廃した羽黒を再興するため、寛永寺の末寺として天台宗に改宗してまで権力と財力を求めた羽黒山別当天宥。それに対抗する真言4ヶ寺(大日寺・本道寺・注連寺・大日坊)は、弘法大師信仰への傾斜を強め、鉄門海上人のように加茂坂を改修したり、万人の病苦を救わんとするなど信仰の高揚につとめた。その傾向の中で弘法大師の精神である即身成仏を実践するものとして意義づけられたのだという。
この庄内の、ほんの150年から400年ほど前の話である。
羽黒山歴史探訪「天宥別当ゆかりの道を辿る」〜天宥堰・破尺堂・荒澤寺・田村坊(昼食)〜 に参加した。
今年度の第一回目(10/13)は台風19号による悪天候予想で中止となったため、今回の開催をとても楽しみにしていたが、生憎の冷たい雨模様だ。それでも25名ほどの参加者(募集人数20名)で受付(いでは文化記念館)は賑わっていた。そして佐藤前社長と偶然一緒となった。う〜む素晴らしい…ワクワク。

◯天宥堰巡り:いでは文化記念館→バイパス→月山牧場手前手向ため池→天宥堰を歩く→射撃場の道より執行坂→バイパス→林木育種場→いでは文化記念館
◯破尺堂別当所墓地(向山林道):いでは文化記念館→有料道路→第三駐車場→破尺堂
◯荒澤寺(野口・女人道):破尺堂→荒澤寺→宿坊
◯宿坊(昼食):田村坊で素晴らしい精進料理‼

出羽三山歴史博物館学芸員の渡部先生と斎先生。

◯手向ため池
「(須賀の)滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。(出羽三山神社HPより)」と記されているにも関わらず知らなかった…、須賀の滝(不動滝)が人工の滝だったとは。歴史探訪で実際に見るって大切だな!


◯天宥堰 この水が須賀の滝を流れ落ちる。

◯調整池(林木育種場内)
以前はこの池で、昼は滝水として、夜は田畑への農業用水へと振り分けていたという。昼は須賀の滝(不動の滝)として羽黒山参詣のイメージUPに、夜は羽黒山領農地開墾の為と、天宥の羽黒山再興作戦に目を瞠る。


◯いでは文化記念館向かい駐車場側
現在はここで滝水を調整しているという。この林のちょっと先が懸崖(須賀の滝)の上なんだねぇ…。

◯破尺堂別当所墓地・向山林道
天宥は宥俊から引き継ぎ、羽黒山領と庄内藩領との境界に杉や松を植え、そして領内寺院の墓を移したのだという。境界争いの多かった時代での天宥の作戦がここにもあった。




修験道御瀧神社口とある。う〜む…

◯荒澤寺
【由来・歴史】:今から1400年前、出羽三山の開祖・能除大師(蜂子天皇)は月山、湯殿山へ赴く際に荒沢で別火修行し、湯殿山御宝前鎮火大権現と呼ばれた。荒沢は、神仏分離以前、羽黒山の奥の院にあたり、女人禁制の聖域で羽黒山十大伽藍随一であった。弘法大師、慈覚大師、心淨坊勝尊らもここを訪れ修行を積んだという。
【御利益】:除災招福、諸願成就
【おすすめポイント】:出羽三山1400有余年の歴史を継承する寺院。出羽三山開祖の能除太子(蜂子の皇子)が修行された霊験あらたかな聖域。羽黒山奥之院(羽黒山で重要な寺)と呼ばれ、山伏が修行する道場である。唯一無二「首番=最上の番」という意味を持つ札所。庄内三十三観音霊場を定めた大恵東水和尚が住した寺。日本遺産「生まれかわりの旅」では、現世菩薩の修行(観音巡礼など)する者は、過去世極楽の世界にいくことができる羽黒山の観音信仰と月山の阿弥陀信仰がある。羽黒山の終着寺と月山への出発寺を兼ね備える信仰上重要な寺である。
【御本尊】:聖観世音菩薩






◯荒澤臂切大聖不動明王 常火堂
「御本尊、荒澤臂切大聖不動明王は特別な御姿を示しておられる。縁起によると、出羽三山開祖 能除大師が荒澤にて修行した際、開祖に榮燈護摩の法を授けた不動明王が、右手に携えた剣で左臂を斬り松明とし、したたり落ちる血を護摩木に濯ぎ玉うところ、その血はたちまち猛火となり燃え上がった。これが羽黒修験の根本の「常火」で有り、そのお姿を写したのが荒澤臂切大聖不動明王である。
くらき世を あきらけくこそ照らすらし
のりのきり火の たゆることなく
と詠まれて、その常火を永くこの御堂にとどめた。」と記されているらしいが、雪囲いで隠れている。



山頂へと続く古道

◯宿坊・田村坊

知らないことだらけから、ちょっと理解する面白さと大きな満足感。大変お世話になりました。とてもいい時間を過ごすことができた。感謝。
次回も参加しようと決めている。

美味〜い! 実に美味い。大満足。
先日の『温故の会』の例会で「地域の治水事業から、その歴史を知ることができる」ということが話題になった。そして「新川」は赤川だけでなく日向川にも有ることを知った。
ちょうど今読んでいる「金井国之助日記」の安政4年9月17日付の日記が川北新川堀割取り調べの件を記している。

(安政4年9月)17日、五ツ(AM8:00)過出宅 川北新川掘割取調出郷ス 井上も一趣二出ヅ 八ツ(PM2:00)頃宮曽根村肝煎新吉所ニ昼休致し暮前酒田代屋へ着ス
18日、五ツ(AM8:00)過酒田出立 昼頃宮ノ内新田八蔵と申者之家へ着ス 随分善き宿也 先ヅ堀割筋一遍通り見分致し 分間[ブンゲン]障相成候柎木伐払申付 右済候而 是迄之川巾新川江移り口 間数3ケ所改メル 暮前宿へ帰ル
19日、五ツ(AM8:00)前ゟ出掛 堀割筋分間いたす 十三番迄出来ル 遊佐二而設置候休場ニ而昼弁当給[た]べる 七ツ半(PM5:00)過宿へ帰ル
20日、朝之内見合セ候所 雨は格別降不申候様相見候ニ付 五ツ半時(AM9:00)頃出掛 昨日之見分跡見候 … … … … … … … … …

◯功績追憶碑 日向川は源を鳥海山に発し、日本海に注ぎ込む雄河ですが、吹き送られる風砂で絶えず埋没し、遊佐郷や荒瀬郷の人びとは洪水等に悩まされました。安政4年(1857)庄内藩の許可を得て砂丘を切り開く新川の掘削に着手しました。以来文久2年(1862)に至るまで6年の歳月と延べ20万人の労力を費やし、幅200m、長さ2500mにわたる現在の日向川が開削されました。そして、水害は佐藤藤蔵翁や堀善蔵翁等による植林とあいまって著しく減少し、百数十町歩の土地が開拓されました。
今、碑の立っているところは旧日向川の堤防跡です。昭和12年に建立されました。 平成5年3月 酒田市教育委員会
一、矢沢川※1の末 今言[いう]陣屋川 此河筋のみ古今大に変革せり
寛文の古絵図をみる仁[に] 本町の西裏を通り 本町
の末より寺町の前を通り堰形今に阿[あ]り正法寺能[の]北椙尾
の山岸に入こみ 高徳寺※2宮の下之[の]間を通 下川を歴て
大川に入今能[の]堤落しの川筋なり往古の堤落水門は都澤… さ禮盤[されば]こそ今 下川道
宮之下と一里塚と能[の]間に古への河筋なりとて僅なる沼有
其故は此辺能[の]河筋元大[おおい]に屈曲せしを此に新河を堀
古河を田地に埋立し時宮下九郎右衛門といふも能[の]村役人にて
… … … … …
※1:八沢川(=大山川) ※2:興徳寺

最上川電子大事典より
本日の『温故の会』は、阿部氏による「大山郷政録」からの読みと解説が行われた。その中、大山地区を流れる八沢川と大戸川での小舟を使っての米の運搬や川の改修などが解読され、農業用水路の開削の歴史は、庄内の歴史と深く繋がっていることが非常に面白く興味深く聴くことができた。
水量の少なかった八沢川に上流の五十川から水を送ろうとした歴史も話題に上がった。以前、天保堰の開削を調べているときに知った「菅野代制水門」の映像を思い出し、改めて観てみる…。
まだまだ知らないことばかり、興味は尽きないね。
むかし武州豊島郡[ぶしゅうとしまごおり]宝田に佐久間某[なにがし]といふ豪家に召仕ふ竹女といへるは常に仏名[ぶつみょう]を称して慈悲の心ふかく柔和にして正直なり 假初[かりそめ]にも五穀のすたることをいとひて臺所[くりや]の水盤[ながし]の水落しに布の袋を絞[くく]りおいて洗ひ ながしに雑菜の止るを食し 我が日々の粮[かて]となす分を道路に餓たる乞食に施し おのれをせめて人をいたわること斯くのごとし ついに大日如来と化現し給ふ 案ずるにこれみな仏陀の方便にして凡俗[ぼんぞく]の婢女[ひじょ]と化生し 無智の悪人を善道にみちびき給ふなるべし
一勇齋國芳 画 (歌川国芳 寛政9(1797).11.15-文久1(1861).3.5)

於竹大日昇天図
(右上)奉献 御宝殿
(絵馬中揮毫)一勇齋國芳
(左中)嘉永二巳酉年四月吉祥日
(左下)東都書肆 大傅馬町貳丁目 丁子屋平兵衛 敬白 同職人中
(右下) 細工人 神田碁盤師 房吉
今年も棟梁から生涯学習講座である春山進先生の『楽知六[らくちん]講座』が始まるからとご案内をいただき、ワクワクと出席させてもらった。今夜は「庄内美人」について。サブタイトルは「何を持って庄内美人というか?」。おぉ…これは初っ端から面白そうではないか!?
庄内美人考として、1.風土性(地域性)、2.神秘性、3.宣伝性、4.人間性(内面性)の4つの面から庄内の美人を、肌が白くきめ細かく、節婦で陰日向のない働き者と解説された。う〜む、素晴らしい‼
そして講義は、古四王神社が北西を向いているのはなぜか。小野小町は小野良実の娘であるとの文献から出羽国(庄内)出身説。そしてお竹大日信仰と、あっという間の90分でした。大変勉強になりました。
実は、今月10月13日に『羽黒山歴史探訪 天宥別当ゆかりの道を辿る①』の後で「於竹大日如来を知る講座」が開催される予定だったが台風19号の影響で中止になり、とても残念に思っていたところに今回の講座があり、興味深く聴くことができた。感謝。

お竹大日堂の絵馬

武州豊嶋郡江戸庄図(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)
寛永9年(1632)に書かれたとされる、初期の江戸図を代表する絵図です。現在知られている限りで、最も古く、内容が正確だと言われている江戸図です。初期の江戸の町を知ることができます。(東京都立図書館HPより)
藍綬褒章受賞おめでとうございます。
島田さんの受賞祝賀会が、上田コミュニティー防災センターで開催され、温故の会のメンバーとして出席させていただいた。
温故の会での出席者は、秋保先生が急遽欠席され、小池氏、阿部氏、鈴木氏と私の4名。祝いの詩吟を披露する小池氏のリハ等の準備があり、1時間ほど早く会場入りした。

親族、地区役員、保護司会の皆さん方が、受付から会場準備、司会進行まで手分けして行っている温かい手作りの祝賀会は、島田さんの人柄にピッタリの催しだなと感じた。
上田小学校跡の改修された体育館壁面には、児童の卒業制作での木彫りの校歌がそのまま残っており、広い窓から差し込む秋の明るい日差しで温かく輝いていた。




祝賀会は盛大に盛り上がりました。みなさんに笑顔で、気さくで、呑兵衛で…、とても楽しい時間を過ごすことができました。
ありがとうございました。

これからも厚いご指導とご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

ワッパ騒動義民之碑建立10周年記念シンポジウム『今、ワッパ騒動を考える』が、鶴岡共同の家こぴあ二階ホールで開催された。
明治7年に庄内で起こったワッパ騒動から自由民権運動、そして新政府に与えたであろう影響や、『ワッパ騒動義民顕彰会』の活動により「愚民」から「義民」へと認知されてきた成果、そして「ワッパ騒動」という名称の是非が論じられた。碑建立10周年の節目としてとても興味深いシンポジウムだったと感じた。
とてもイイ時間を過ごすことができました。感謝。


錦心流琵琶全国一水会 市川石水氏



星野正紘氏 三原容子氏 佐藤昌明氏


◯Deference and Defiance[敬意と反抗]
◯「荘内」荘内ワッパ事件の一資料號
琵琶歌「農の魂に生きし富樫勘助」(山崎誠助作)
出羽[いでは]の国の荘内は古[いにしえ]遠き昔より、
その名も高き米の郷[さと]、
美田果てなき豊かさよ。
されど恵みの国原[くにはら]は、
自然の姿の儘[まま]ならず、
湿地調え荒涼の、荒地を起し水を引き、
鋤鍬のみを頼りにして、
生命[いのち]を振[ふる]う腕と汗、幾百年の営みに、
百万石の米所、誉れの耕地拓きたる、
幾千万の人々の、農魂[のうこん]こそは尊けれ。
時しも明治七の年、田川の郡[こおり]下山添村、
富樫勘助その人は、農家の暮し左右する、
貢米[こうまい]、石代納[こくだいのう]の、争い起りしその折に、
時の支配に疎まれて、
思いも掛けず捕えられ、
理非も分かたず牢獄に、
投ぜられしぞ無念なる。
厳しき調その日より、殴打[おうだ]拷問繰返し、
地獄の責苦幾十日、惣身[そうみ]の疲労甚だし、
命危うくなりければ、
早これ迄と決心の、折をうかがい脱走し、
首都東京に逃れ行き、
中央政府に自訴の上、
正しき裁断得んものと、
遂に故郷を抜け出でぬ。
固き覚悟の旅なれば、
昼は野山に隠れ臥[ふ]し、
夜は旅路を辿[たど]りつつ、
乞食姿になり果てて、
憂寝[うきね]の夢ぞ哀れなる。
かく富樫勘助が、捨身の訴願実を結び、
中央政府の裁定は、
農の勝とぞなりにけり。
農を愛[いと]しみ、農に生き、
農に生命を捧げたる、
農民富樫勘助の、
農魂[のうこん]今に称[たた]えあれ。
『三の坂の麓で右へ伸びる道が延びています。400mほど進んだところに、「おくのほそ道」の旅で芭蕉が泊まった別院紫苑寺の跡、通称「南谷」があります。俳聖もこの地を詠んで一句、「ありがたや雪をかほらす南谷」。心の字の形をした「心字池」は夏も涼しげな風を運び、南谷を時間のとまったような苔むす場所にしています。かつて涸れていたこの池に320年ぶりに水が湛えられたのは2000年のことでした。羽黒の若者たちによるNPO法人蜂鼓山社中が中心となったボランティア活動が、羽黒山の聖地を整備してきました。今は羽黒山の隠れた名所となっています』(NETより)

祓川と須賀の滝
晴天の朝、羽黒山石段ウォーキングへとカミさんと出掛けた。
先月、長男と歩いた、石段→南谷→大渡道→古道→山頂のコースで、南谷から大渡道に少し入ったところにある歴代別当の墓や供養塔が気になっていたのである。





羽黒山50代執行別当 寶前院天宥法印供養寶塔
昭和52年(1977)6月24日建立

執行 天宥


權僧正 官田
(霊鷲山院官田[在職:文久1.10−明治3])


◯◯◯◯◯◯
安政3(1856)丙辰年7月立之


夢知宥師出本来覺示尊像於後来(?)
權僧正 澄海
(海竜王院澄海[在職:弘化4−文久1.10])
当山別当職執行者50世也
豆州大嶋而 延宝2(1674)甲寅10月24日 81歳示寂
文政6(1823)癸未10月 權僧正 覺諄建之


深達院權僧正覺諄 塔
(大荘厳院覚諄[在職:文化10.6−文政8.11])
墓碑銘には有徳が刻まれ、
弘化4年(1847)丁未8月11日示寂 大僧都 澄海 記
とある。


慈念院権僧正山海 塔
(楞伽院山海[在職:文政8.11−天保7.10])
嘉永7(1854)甲寅後(閏)7月5日 於信州善光寺示寂


攝念院法印大僧都覺音
(光明院覚音[在職:天保7.10−天保13])
天保13(1842)寅年9月8日入寂




旧八幡町日向地区まで所用で足を運んだ。
朝夕は随分と涼しくなり(今朝は県内すべて10℃台だ)、陽も短くなった。車の窓から心地よい風が入ってくる…そんな一日。
下黒川から綱取隧道(トンネル)を潜り、杉沢(遊佐町蕨岡地区)へと抜ける道を何年かぶりで走ってみた。

今、「金井国之助日記(巻7)」の安政4年(1857)4月の記述を読んでいる。
ちょうど下黒川村で起こった山論で、郡奉行の国之助さんが見分(検分)しに出掛けたときの日記だが、道中の経路、休憩時の接待や食事内容など詳細に記されている。鶴岡を出て酒田の代屋(宿泊施設)に一泊して蕨岡の上寺に到着した国之助さん、お疲れモードなのにいっぱい接待を受けるはめに…。次の朝、遊佐郷代官の林筑太夫らと杉沢村脇を通り、下黒川へと現地検分を行っている。
上蕨岡付近から見た庄内平野。
陰暦の4月中頃といえば、現在の5月下旬から6月上旬か? 桜は散り、若葉がピカピカ輝いてる季節だねぇ。162年前の国之助さんも、きっとこの辺から鶴ヶ岡と亀ヶ崎を眺めたに違いない。
一筆申し進[ススメ]まいらせ候 遠以ヽヽ(追々)
寒冷のせつニ相なり候
得とも いよヽヽおん左王[ワ]
り(お障り)なくおんくらし(お暮らし)被レ成
うれしく存[ゾンジ] まいらせ候 子共(供)も
いづれも達者のよし
あん
ど(安堵)以[イ]多[タ]し まいらせ候 扨又[サテマタ]
王[ワ]れら(我等)
事 先日庄蔵殿江委細
口上ニ而申[モウシ]進[ススメ]候通り 不斗[フト]
さ以なん(災難)ニ … … … … …
このたび藍綬褒章を受章された島田さんの家に伺った。
ご夫妻で皇居に行かれ、新天皇に謁してきたばかりという。額に納まった褒章を拝見させてもらった。素晴らしいことです。
昔、この地域の大組頭であった島田家の広大な屋敷と庭には、いつも感心させられる。「自分で出来るものは何でも自分でする」と、蔵まで建ててしまう島田さん、DIYの域を遥かに超えている。これも素晴らしい。
奥さんが「あれいいでしょう?」と庭を指差して言う。「褒章」のことよりも、主人が作ったばかりの屋敷周りの塀を褒めるのである。いやいや素晴らしすぎる!!

『《保護司として更生に力注ぐ》農業の傍ら、1995年から保護司として保護観察対象者らの更生に力を注ぐ。「相手の気持ちに寄り添って話を聞くことを何よりも大切にしてきた」。県保護司会連合会副会長や酒田飽海地区会長を務めた。「任期を終えるまで研鑽に励む」と語る。2014年に法務大臣表彰。』(山形新聞2019.5.20より)
◯列藩同盟旗 [Photo:Wikiより]
郷土史講座の最終日として、東北大学大学院文学研究科学術研究員の栗原伸一郎氏による『奥羽越列藩同盟と庄内藩』の講演が行われた。
「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)とは、戊辰戦争に際して奥羽北越の諸藩によって形成された勢力。仙台藩や米沢藩を中心とする奥羽(北越)諸藩は会津藩や庄内藩の救済を求めて嘆願運動を進め、同盟を結成。新政府内の薩長両藩(特に薩摩藩)への批判を強め、新政府軍と交戦するが敗北・崩壊した。」
「諸藩のさまざまな連携・連合の動きから、列藩同盟の成立・展開の過程と庄内藩の動向をみる。」
昨年、仙台市博物館で開催された「戊辰戦争150年」には惹かれたが、行けず仕舞いだったのが悔やまれていたので、今回の栗原氏の講演が楽しみであった。
庄内藩から見た戊辰戦争ではなく、周り(同盟藩)から見た戊辰戦争にとても興味が惹かれたからである。
講演は、今後私が戊辰戦争を学んでゆく上で非常に参考になった。感謝。
何気にネットで「奥羽越列藩同盟」を検索してると興味深いサイトがあった。
戊辰戦争(1868-69)当時期の人口比較をしたものである。(以下抜粋)
【昔の国と現代の県との関係】
[陸奥国]:福島県・宮城県・岩手県・青森県、[出羽国]:山形県・秋田県、[越後国]:新潟県
【1884年の人口】
[陸奥国]青森県範囲:49.3万人、岩手県範囲:61.5万人、宮城県範囲:64.4万人、福島県範囲:85.7万人、《陸奥国計:260.9万人》
[出羽国]秋田県範囲:64.0万人、山形県範囲:70.5万人、《出羽国計:134.5万人》
[越後国]新潟県範囲:159万人(佐渡国含む)
新潟県1県で4県分の陸奥国の人口の6割もあり、出羽国より人口で25万人多い。面白いのは日本海側出羽国と越後国を足すと3県の人口は293.5万人で、太平洋側の陸奥国4県260.9万人より多かったのである。日本海側の江戸・明治の豊かさがわかる。
【人口順 ( )内は2015年現在】
福島県:85.7万人(1,925,605)、山形県:70.5万人(1,119,547)、宮城県:64.4万人(2,324,683)、秋田県:64.0万人(1,023,413)、岩手県:61.5万人(1,272,891)、青森県:49.3万人(1,306,971)、新潟県:159万人(2,295,664)
ということであり、東北6県では福島県が盟主であり、山形県は宮城県より上、秋田県は宮城県と同等であったが、その後の明治政府等の政策により人口の集中が図られ、宮城県仙台中心の東北になった。
ウム…、面白い。