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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

玄々堂とは

2020-10-25 17:52:39 | 古文書、郷土史他
一、町諸事小控

先週の「諸事小扣帳」の続き
頭の雨宮某[ナニガシ]が、元治元年(1864)から明治2年(1872)まで記した小控え帳を、玄々堂主人が昭和4年(1929)10月に書き写したもの。主人65歳の時の筆のようです。


1.町諸事小控、町は現在の鳥居町内川寄り辺りらしい。
2.川原村戊辰戦争日記、川原村とは現大東町で昔船入町(船渡町)と呼ばれたところ。


【齋藤治兵衛翁略歴】

齋藤治兵衛翁、玄々堂又は玄々堂主人と稱し、蘆汀は別號なり。先代治兵衛氏未だ一家をなさずして本家齋藤安右衛門宅に在りし時、其長男として生る。時に元治元年八月十五日なり。嚴父は大山町の碩學名醫として有名なる栗本道察先生の三男にして、齋藤安右衛門家に迎へられ、其の妹と婚し、名を治兵衛と改め、同町一日市町現住地に分家し、獨立して太物商を營む。母方即ち齋藤安右衛門家も又代々風雅の道に志ざし、特に俳諧に天才の士を出し、其の藏書の如き實に數千卷を以て算せしと云ふ。翁已に此の如き碩學の血統を享く。幼にして聡明、夙に學究風雅の志あり。……(略)……。(玄々堂蘆汀編 荘内文雅人名録より)

仙右衛門様御筆記の明治戊辰戦争従軍記

2020-10-18 16:35:01 | 古文書、郷土史他
 
今月の『温故の会』はY野さんで「諸事小扣帳」の中から「仙右衛門様御筆記の明治戊辰戦争従軍記」の解読でした。この「諸事小扣帳」には、1.町諸事小控、2.川原村戊辰戦争日記、3.川原村留控の3つが記されており、はしがきには「此一冊は町頭 雨宮某之諸事届書願書等の留控なり 元治元年八月より明治二年迄之分なり 思うに八月二十三日の控より前幾分落丁ありしならん 本書は私様之筆跡にて拙からぬも誤字疑書[あてがき]多く 中々読み難き節多かれ共 新徴組舎牢死之件 大山との区域争いなど中々参考史料として価値あるものなり」と書かれ、昭和四年十月に玄々堂主人が書き写したものだ。それをY野氏が各項目を毎年ひとつ、3年にわたり解読している。


町とはのと呼ばれた人たちが暮す町であり、頭(この身分にも役付けがあった)が記している。なにより誤字疑書はあるものの文字が書けてたことに驚く。識字率が高かったんだね。
そして「仙右衛門様御筆記の明治戊辰戦争従軍記」。
仙右衛門様とは頭(この身分にも役付けがあった)で、戊辰戦争時に土工兵として従軍した記録である。
そしてもっとびっくりしたのは、「右者(先右エ門) 去年中弐番隊出張之節付添罷出 苅和野ニ而抜群働付 平人之身分取立 三人御扶持方為取候処 今度内意の趣無□儀相聞候付故相返し別段之沙汰を以右 御扶持方ハ其儘居置 今度別町人格申付候」と、功績があったので平人に取り立ててもらったのに、やっぱり町人格でいいやと断ったこと。自由人(?)にはそれなりの気儘さがあったのかな。
面白いなぁ、それにしても鶴岡のは関西のそれとは、暮らしぶりも認められ方も違ったようです。そんなことを秋保先生もおっしゃっていた。

大山郷政録 房二 五、大山町惣肝煎ゟ色々願出候ニ付夫々ニ申付候事

2020-09-27 15:27:27 | 古文書、郷土史他
 
「温故の会」の例会、今までどおり2時間fullで行われた。コロナ禍の状況で市立図書館の休館による休講、その後に時間短縮で再開し、そして今回から通常時間に戻った。しかしまだ流しは使えず、お茶はペット茶500mlが配られている。

今回は阿Bさんの講義で、大山郷政録から「大山町惣肝煎色々願出候付 夫々申付候事」の解読が行われた。これは文化5年辰(1748)8月に、大山の惣肝煎(14名)の様々な願い事に、3人の村役人の返答の記録でした。

その中で、
一、町内之者男女限ら須(ず) 病気病身又年寄
  如何躰も渡世難相成もの有之候節
  人近支親類を糺 町内一統合力 其上行届と不
  申上御役前願渇命不及様御取計
  を以一村之助力を奉願上候
    文面之通宜可有之と存候

と、現在の福祉事業的なことも行われていたことを知った。

遊佐町史資料(第4号) 遊佐町史編纂委員会

2020-07-23 20:53:33 | 古文書、郷土史他

8月の古文書サークルの発表は私の番だ。コロナ禍で、今月は4ヶ月ぶりにサークルが開かれたが、大都市圏での感染拡大から地方への拡散が懸念される状況だから、またまた図書館閉鎖…ってこともあり得る。そんなことを考えても、準備だけはしっかりしないとね。


発表は、金井国之助日記(巻七)の安政4年(1857)9月16日から10月6日までの川北新川堀割(日向川新川掘割工事)取調の部分の解釈と説明を予定している。
当時、どのように測量や土木工事をしていたのか、日記(古文書)を読みながら疑問や意味不明な点が出てきた。ネットで印旛沼掘割普請を参考に調べたりしていると、『遊佐町史資料(第4号) 印旛沼古堀筋御普請御手伝紀・日向川新川堀割御普請紀』(編集:遊佐町史編纂委員会)があることを知った。早速、遊佐町立図書館に電話してみれば、「あります」とのことで、久々に遊佐までドライブしてきた。

安政5年のコレラの流行と安丹神楽

2020-07-19 21:40:32 | 古文書、郷土史他
 
コロナ禍で4月・5月・6月の3ヶ月間図書館2Fが利用できず、古文書サークルの活動は休止状態でしたが本日、条件付きだけれど図書館2Fで例会が行われた。皆さんお久しぶりでした。
今回は秋保先生の講義で、「安政5年のコレラの流行と安丹神楽」。様々な郷土資料から当時の伝染病罹患の様子を抜き出したものでした。

それによれば、コレラは安政5年(1858)以降に外国からもたらされた伝染病で、「当八月上旬より江戸暴瀉[ボウシャ]病(=コレラ)流行して人死する事甚しく、凡そ十二万人余人死すと。又諸国浦々までも死するものかぞえがたし。同月下旬頃より当酒田を始め宮野浦辺大流行。治療及ばずして死するもの数百人、在々又斯くのごとし。世俗此病を名づけてコロリ病と言ふ。 (以下略) 」(大山・松山醐盞「安政五年防疫薬方処方書付」より)と、東京で流行したコレラが約半月程で庄内にも及んでいて、伝染病だと知らず、どんどん広がり、治療や対処もワクチンの無い時代だから民間療法的な処方が記されている。

『酒井主水より千安村天満宮への獅子頭寄進状』
    覚
 天満宮一宇   千安村
於当家年来信仰之所 当年諸国一同
暴瀉[ボウシャ]病流行 多くの人を損じ 諸人 途を失ひ 諸山
霊場等祈念祈祷之外 無他折柄 一村信心之者
申合 何卒此疫癘[エキレイ]退散為致度志願より 藁にて
獅子頭を拵 筵を幕にし 天満宮之獅子頭也とて 一村中
舞歩行候後 疫癘のため損じ候者 老人も無之 近村
までも得請待 炳然ある事 是全 天満宮之感応
に寄所にて … … … … … …

そっかぁ、安丹神楽には、「安政6年(1589)にコレラが流行した際、村人が藁を出し合って獅子頭を作り神楽を舞ったところ、その後は1人の死者も出なかったということから、地区の天満宮に奉納する形で受け継がれてきた。(荘内日報1998.3.19)」という歴史があったのかぁ、全然知らなかった。

令和元年度 温故の会 総会

2020-03-29 14:00:00 | 古文書、郷土史他

古文書サークル『温故の会』の例会と総会が行われた。
定例会は、いつもどおり図書館2Fで、H井さんによる前回に続いての講義、菅実秀書簡の解読でした。なかなか難易度の高い解読ですが、少しずつ読み下してゆくのはいいですね。時間はいっぱいあるのだし。それに皆さん興味津津のようです。講義のあとは、秋保先生から今年度の講評をいただいた。ありがとうございます。

懇親会はPM4:00から、鮨処『千葉寿司』で、6名の出席で行われた。時間が早いせいか、コロナのせいか客足は鈍いように感じた。大変だねぇ。
研修視察旅行の話、戊辰戦争の話など、大いに盛り上がりました。
料理は全て完食‼ 孟宗汁もなかなか美味かった。満足。

荘内歌人 服部正樹の注釈作業〈近世後期荘内歌壇を俯瞰して〉

2020-03-14 14:00:00 | 古文書、郷土史他

郷土史講座が行われた。素晴らしい‼ ただ、受講人数はちょっと少な目か…?
今回は『荘内歌人 服部正樹の注釈作業〈近世後期荘内歌壇を俯瞰して〉』講師:山形大学地域教育文化学部教授 藤田洋治氏による講座でした。


〈Contents〉
1.近世荘内の歌人
2.近世後期荘内歌壇
3.白井固[かたし]『百首略解』
4.服部正樹『後撰老のすさび』の注釈
5.『拾遺老のすさび』の注釈
6.注釈が広がらなかった理由


令和元年度 郷土史講座

2020-02-29 20:50:09 | 古文書、郷土史他

今年も鶴岡市郷土資料館が主催する、郷土史講座を受講した。
今日の講師は、本間勝喜氏(鶴岡市史編纂委員)で、講義は『江戸時代中頃の庄内藩』。


はじめに.
1.財政難の始まり
2.豪商の誕生
3.本多出雲守政利の事件
4.元禄15年(1702) 徒目付片桐甚左衛門が入手した落書(らくしょ)
5.宝永4年(1707) 藩主忠真(ただざね)に対する家老の諫言書
 (1).藩主忠真について (2).諫言書 (3).諫言書にみる忠真の江戸生活 (4).家老たちの奢侈と処分 (5).忠真に対する評価
6.享保8年(1723) 酒井家の大和国郡山への転封事件
7.庄内藩の越後天領の預地支配(享保14年(1729))
8.庄内藩の享保改革
 (1).第一次改革(享保5年(1720)頃から) (2).北楯助次郎の郡代就任(享保13年1月) (3).第二次改革(享保15年(1730)を中心に) (4).低米価と年貢廻米の制限 (5).財政改革の破錠
9.足軽たちの一本持騒動(延享2年(1745))
10.水野元朗と徂徠学
まとめ.

こんな内容で、2時間が忽ち過ぎてしまった。とても面白い講義でした。
そして、本間さんのご好意で、著書『庄内藩酒井家の大名預地』をいただいた。感謝。

江戸時代の風景を思ってみた…

2020-02-16 10:00:00 | 古文書、郷土史他
大泉四季農業図

古文書サークル『温故の会』の例会がおこなわれた。今回はS田氏による前回に続いて、内容を充実させた改訂版「日向川新川開削」についてでした。
話を聞きながら、ここ庄内地方の江戸時代の風景を思い浮かべようとしていた。
はたして、想像通りかはちょっと心もとないが…。今回も有意義な時間を過ごすことができた。感謝。

2020古文書解読講座②

2020-01-25 10:00:00 | 古文書、郷土史他
古文書解読講座の二日目。前回の自娯抄のつづきからでした。
刃傷沙汰など事件的記述が多い内容となっている。それはそれで江戸時代後期の庄内を識る上で、とても大切なのだが…。
それでも明るい記事もあった。

一、京田通西郷組馬町村 御百姓 弥平治娘 たけ廿三才 両親へ
  孝養付 御褒美下候
    御成箇米ゟ五俵 役所前ゟ五俵 下置候 外
    御聴 孝養且其身 行跡之次第 深く御感悦遊 別
    段為御称誉 金千疋下置候
  両親へ之孝養 誠人心を感せしむる事之由 斯る莫大
  之御褒美下候 前代未聞之事也

東論語林 巻之四 

2020-01-19 10:00:00 | 古文書、郷土史他
『温故の会』の例会がおこなわれた。今回はS木氏の講義で、「東論語林」。
霍 東栄が記した、「諸大名家より領内の諸事に対する処置について、公儀(寺社奉行・勘定奉行・町奉行・大目付)への問い合わせた際の質問と回答を集めた書」と説明されている。

東論語林 巻之四
天明四辰二月 小笠原佐渡守様ゟ 御家来十河郷右エ門を以 堀田
相模守
書付指出候所 御附札 左之通
一、御朱印無之寺院 吟味之節 敷居外指置候 不苦候哉
   御朱印有無不拘 吟味之筋 敷居外指置候
   不苦候
一、寺院 謀書謀判致候 御咎之儀 承知仕度候
   寺院 謀書謀判致候 俗人同様御取斗 不苦候
   得共 其所寄可申候間 兼 難及御挨拶候
一、寺院 咎之筋より 脱衣申付候も 不苦候哉
   … … … … … …

2020古文書解読講座①

2020-01-11 19:00:34 | 古文書、郷土史他
「くずし字で書かれた史料を読むことによって、活字からでは味わえない歴史の楽しみを体感するとともに、史料をとおして、先人の暮らしを学びます。」と謳われた受講生募集チラシを手に、今年もワクワクと受講を申し込んだ。
講師は、本間勝喜先生(鶴岡市史編纂委員)。そして史料は、自娯抄 二天間記[にてんかんき]より。


富田甚右衛門利隆が著した自娯抄(後に焼失)だが、後年に綺麗な御家流くずし字で清書された史料がテキストである。
受講は、今年で3回(年)目となるのだが、綺麗な読み易い(?)くずし文字の8割強は読めるようになったと思う。そしてやっと文章の背後にある情景や動向に、意識を傾けようとするのだが、如何せん郷土史基礎知識が足りない…う〜む。 なのでやはり、ワクワクしながら受講するのである。

テキストは昨年までの続きで、文政元年(1818)12月からの記事の解読・解説で始まった。 藩主は忠器の時代である。藩士の風紀が乱れた時代だったと言われるように、手討ち記事が続く。士族側が書き留めた内容であるから、理不尽な手討ちでも微妙なニュアンスで書かれている。

遊佐町の白井新田地区は、白井矢太夫が新田開発した場所なので、白井〜と付いているのだと漠然とは知っていたが、文政2年(1819)4月頃の記事、『当時遊佐郷三新田之方ゟ取懸り可申旨〜』の解説で、致道館の学田として開発された遊佐郷三新田(広野新田、藤井新田、上野新田)は、後に合併して白井新田となったことを知る。 ふぅ〜む、もの知らずの私も、こうして赤面しつつ知識を蓄えるのであるなぁ。
次回も楽しみにしている。

日向川新川の掘削について

2019-11-24 18:47:25 | 古文書、郷土史他

古文書サークル『温故の会』の例会が行われ、S田さんが「日向川新川の掘削について」の講義を行った。これは前回の大山郷政録の解読から、川や堰の治水と利水の歴史を学べば、その土地を識ることができるとの話から、S田さんが題材として取り上げたものでした。しかも先週、突然電話で「20分間時間をやるから赤川について調べて発表せよ」と仰せ付かった次第で、私は赤川新川について調べることに…。おぉぉ。


◯功績追憶碑

安政4年(1857)砂丘を切開き文久2年(1862)迄6年の歳月と述べ20万人を費やし、長さ約20町(≒2,180m)に亘り日向川が開鑿された。

日向川や赤川も江戸時代後期に、度重なる洪水による決壊や決潰と浸水や湛水、それに風砂による被害から新川掘削の願いが庄内藩に出されていたが、莫大な費用が掛かるためか藩からは見合わせ却下されている。

日向川新川掘削願いの一番の要因として、「芭蕉がこの地に来て象潟に往訪したころは、西山一帯の砂丘は鬱蒼たる密林であったが、製塩のための燃料やその他の理由で濫伐され禿山となり海辺の集落の周りは城郭のごとく高く砂で築き上げられ付近の田畑悉く埋まり『遊佐郷の舩通とて諸山より流れ落ちる水筋有て、川筋埋れ水落口もなく湖水に見え、宮野内より吉出川(月光川)まで一面水湛え遊佐郷滅亡云々』と古文書にある。」と記されたように、重要な水路であり且つ田畑の排水溝でもあった西通川などが風砂のため埋没し、西遊佐・南遊佐・稲川方面一帯が湛水地となったためである。遊佐郷から新川掘削工事の願出は、安政2年(1855)1月に「上市神新田村下より白木村下へ日向川掘割候得バ水吐宜敷相成、上郷の難儀薄可相成、古川敷御田畑に相成候江バ御為筋[おためすじ]にも可相成見込の者多く有之候趣」と出されたが、安政4年(1857)4月に突然庄内藩より見合わせ中止となる。これを知った農民数万人が藤崎出戸に打ち寄って気勢を上げた。同年9月に中止見合わせになった新川掘割願いが再び出され、9月18日に新田開発御見分の為諸役人(金井国之助、井上数馬両郡奉行)が宮野内新田(六ツ新田)に行き見聞した(金井国之助日記巻七に記載あり)。そして石辻組大庄屋今野茂作、同大組頭梅津八十右衛門、同割役高橋利吉、浜八ヶ村大組頭渡辺多一郎が見立て人となり自費を投じて新川を開鑿したいと願いが出され、同12月に郡奉行所役人の金井国之助、井上数馬より書状で、自普請ではあるが大事業であるので高橋省助(郡代)を時々見分にやるから相談するようにと申し渡し、安政5年(1858)午正月27日から、ひと月の人夫〆1,009人で御普請が始まり、文久2年(1862)日向川新川が完成した。

以上のような内容でしたが、S田さんの「日向川新川について」の講義はまだまだ続くそうです。楽しみだねぇ。
ちなみに、私が発表した「赤川新川について」は、文章量が多くなってしまったので後日記載、ということで…。