古文書サークル『温故の会』の例会が行われ、S田さんが「日向川新川の掘削について」の講義を行った。これは
前回の大山郷政録の解読から、川や堰の治水と利水の歴史を学べば、その土地を識ることができるとの話から、S田さんが題材として取り上げたものでした。しかも先週、突然電話で「20分間時間をやるから赤川について調べて発表せよ」と仰せ付かった次第で、私は赤川新川について調べることに…。おぉぉ。

◯功績追憶碑
安政4年(1857)砂丘を切開き文久2年(1862)迄6年の歳月と述べ20万人を費やし、長さ約20町(≒2,180m)に亘り日向川が開鑿された。
日向川や赤川も江戸時代後期に、度重なる洪水による決壊や決潰と浸水や湛水、それに風砂による被害から新川掘削の願いが庄内藩に出されていたが、莫大な費用が掛かるためか藩からは見合わせ却下されている。
日向川新川掘削願いの一番の要因として、「芭蕉がこの地に来て象潟に往訪したころは、西山一帯の砂丘は鬱蒼たる密林であったが、製塩のための燃料やその他の理由で濫伐され禿山となり海辺の集落の周りは城郭のごとく高く砂で築き上げられ付近の田畑悉く埋まり『遊佐郷の舩通とて諸山より流れ落ちる水筋有て、川筋埋れ水落口もなく湖水に見え、宮野内より吉出川(月光川)まで一面水湛え遊佐郷滅亡云々』と古文書にある。」と記されたように、重要な水路であり且つ田畑の排水溝でもあった西通川などが風砂のため埋没し、西遊佐・南遊佐・稲川方面一帯が湛水地となったためである。遊佐郷から新川掘削工事の願出は、安政2年(1855)1月に「上市神新田村下より白木村下へ日向川掘割候得バ水吐宜敷相成、上郷の難儀薄可相成、古川敷御田畑に相成候江バ御為筋
[おためすじ]にも可相成見込の者多く有之候趣」と出されたが、安政4年(1857)4月に突然庄内藩より見合わせ中止となる。これを知った農民数万人が藤崎出戸に打ち寄って気勢を上げた。同年9月に中止見合わせになった新川掘割願いが再び出され、9月18日に新田開発御見分の為諸役人(金井国之助、井上数馬両郡奉行)が宮野内新田(六ツ新田)に行き見聞した(
金井国之助日記巻七に記載あり)。そして石辻組大庄屋今野茂作、同大組頭梅津八十右衛門、同割役高橋利吉、浜八ヶ村大組頭渡辺多一郎が見立て人となり自費を投じて新川を開鑿したいと願いが出され、同12月に郡奉行所役人の金井国之助、井上数馬より書状で、自普請ではあるが大事業であるので高橋省助(郡代)を時々見分にやるから相談するようにと申し渡し、安政5年(1858)午正月27日から、ひと月の人夫〆1,009人で御普請が始まり、文久2年(1862)日向川新川が完成した。
以上のような内容でしたが、S田さんの「日向川新川について」の講義はまだまだ続くそうです。楽しみだねぇ。
ちなみに、私が発表した「赤川新川について」は、文章量が多くなってしまったので後日記載、ということで…。