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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

庄内歴史懇談会 2021年度巡検

2021-11-06 21:27:37 | 古文書、郷土史他
 

鶴岡山円通院常念寺


戊辰戦死招魂碑と最上義光から贈られた梵鐘


常念寺の御本尊 阿弥陀如来像




興林山総穏寺


「土屋両義士相討之地」像


総穏寺の御本尊 釈迦如来、迦葉尊者、阿難尊者




圓珠山禅龍寺 山門


圓珠山禅龍寺 本堂


禅龍寺の御本尊 釈迦如来坐像


「圓珠山」揮毫 酒井忠篤


酒井忠篤謹慎の間

楽知六講座2021 酒井氏入部400年Ⅰ

2021-10-30 21:37:40 | 古文書、郷土史他
 
今年も春山進先生の『楽知六[らくちん]講座』が始まった。今年は楽知六講座開講30周年の節目に当たるそうです。素晴らしいことです。そして講座内容は、庄内藩主酒井氏が鶴ケ岡に入部して400年と、こちらも節目に当たるということで、それに因んだ講座内容になっている。
 1回目(10/30):『入部以前の庄内情勢〈上杉・最上の抗争〉』
 2回目(11/06):『城下町鶴ケ岡の成り立ち〈城郭町割り〉』
 3回目(11/13):『庄内藩の10大事件簿』
 4回目(11/20):『逆族の汚名〈戊辰戦争の始まりと終わり〉』
 5回目(11/27):『本間家の相続継承訴訟』→終了後懇親会


今回から、カミさんも出席した。初回の感想は「非常に楽しかった!」とのことでした。春山先生は高校時代に社会科の先生だったそうで、親近感もあるのかもしれないね。良かったよかった。


尾浦城主武藤義氏公四百回忌遠追供養記念碑

武藤義氏が「悪屋形」と呼ばれていた「悪」とは、中世では「強い」という意味合いだったこと。直江兼続が荒倉山・鷹尾山修験をことごとく壊滅させたこと(撫斬り=一族郎党根絶やし)。そして最新の最上義光ストーリーと、十分に楽しめた講座でした。

鍛冶町九郎兵衛薬湯一件

2021-10-26 12:02:51 | 古文書、郷土史他
    乍恐以書付奉願上候御事
一、拙者儀近年困窮仕酒造株並家屋敷共相離
  小商等致見候得共一向元ゟ仕馴不申事故渡世ニも相成兼
  無拠懇意之者共相頼小無尽等発起仕候而薬湯相企去
  午極月十七日より相立候処御吟味之上預御咎一言之御
  申訳無御座必至と相止急度慎罷有在候尤小分之
  仕入方とハ乍申右薬湯之諸道具一式不残相調候
  … … … … … … … … … … …

10月24日は古文書サークル『温故の会』の例会でした。阿部さんによる「鍛冶町九郎兵衛薬湯一件 (大山郷政録より)」の講義でした。しかし、もの知らずの私は、いきなり古文書を読み進められても何のことやらさっぱり解らない。なので『大山町史』などを参考に概要を調べてみた。所謂復習ですな。

『大山村での風呂屋(銭湯)の開業は正徳年間(1711~)、浦町の九右エ門なるものが本町に移って開業したのが嚆矢と伝えられている。大山村の風呂屋株(=営業権)はこれ1本だけで、その後明和頃(1764~)には荒町の儀兵エなるものに経営が移っている。古来風呂屋株は特別の役銭を出していなかった。しかし風呂屋家業はの類や腫物かき崩れ等の皮膚病患者の入湯もあり、下品な稼業とされ縁談の差し障りにもなったので、儀兵エはこれら類族の入湯を制限するため、最上山形の臥竜軒の出風呂の免許掟書と湯風呂掛札を貰い受けた。この臥竜軒の出風呂免許の申請は役所や村役人を通じて公式に行ったものではなく、当時尺八修行で虚無僧寺である臥竜軒に出入りしていた渡会格之丞を通じたものであった。
その後、風呂屋株は荒町の与左エ門の手に渡ったが、寛政10年(1798)12月鍛冶町九郎兵エなる者が無断で薬湯を始めたことから問題が起こった。当時九郎兵エは酒造稼業に失敗し酒造株ならびに家屋敷まで人手に渡り途方にくれていたが、有望な家業として薬湯に目を付けた(※1)が、小さな大山の風呂屋に与えた影響は大きく、客の減少に驚いた風呂屋与左エ門は直ちに異議を申し入れた(※3)が、なかなか埒があかない。そこで与左エ門は救いを山形の臥竜軒に求めた。2.3の虚無僧がやって来て与左エ門に加勢し、九郎兵エに中止を要求する一方、年寄八郎兵エや名主善右エ門らの村役人にも強い交渉を開始した(※4)。九郎兵エは自分の非を認めながらも設備投資の事もあり2.3年の猶予を許されたい役所に願い出たが、風呂屋与左エ門は直ちに中止することを求めた。
この継争はなかなか決着せず、与左エ門は臥竜軒の本山を動かし、村でも捨ておけず、丸屋儀兵エの仲裁によって薬湯を停止し、風呂屋株は従来通り1本とする事を確認したが、この決定が下されたのは享和2年(1802)3月のことで、薬湯が始められて以来3年の年月が過ぎていたのであるから、結果的には九郎兵エの望みが達せられたというべきであろう。与左エ門の目的も勿論達せられたが、3か年の長い間、臥竜軒その他の役僧や虚無僧の止宿する者常に8.9人におよび、大変な負担を蒙ったし、また虚無僧たちが尺八を持って毎日村中を吹きまわったので、村民の迷惑も大きかった。村役人は薬湯を中止する事の条件として大山村の風呂屋株と臥竜軒の関係を切り離すため、臥竜軒の出風呂免許、掟書、風呂表札を返還させ、同時に村方から新たな風呂屋掟(※12)を与えた。(大山町史P339、※は解読文中番号)


以上を参考にして、大山郷政録は大山村年寄の田中八郎兵衛が書き記したものであり、「乍恐~」や「覚」の年代を確認しながら阿部さんの解読文をもう一度読み返してみて、やっと流れが掴めた感じだ。ふ~ぅ。

しかし、隣の小池さんは当時(1800年頃の庄内)の銭湯は「蒸し風呂」である、と言っていたが……どうなんだろう? 薬湯だから、なんか違うような気もするけど……、調べてみようと思う。

『本多出雲守一件にて改易の面々并知行高之事』 耳口録巻之五下ゟ

2021-09-19 19:58:54 | 古文書、郷土史他
 
古文書サークル『温故の会』の例会。
Y野さんの解読講義は、耳口録から『本多出雲守一件にて改易の面々并知行高之事』でした。

『耳口録抄』とは、「藩士の白井茂種が延享5年(1748)に著し、伝聞や史料を収録したもので、庄内の随筆の先がけといわれる。全24巻の原本は文化4年(1807)の蓮台火事で消失したが、その前に写された7巻が現存する」と、『大泉叢誌 第6集』に載っている。


『本多出雲守一件』とは、「元播磨国明石6万石の藩主本多出雲守政利のように、庄内藩に大きな禍をもたらした人物もいた。出雲守は元禄6年(1693)4代藩主忠真[タダザネ]に預けられ、鶴ヶ岡御小姓町に幽閉された。元禄15年葦師の道具雁木を隠し置き、家臣に暴行を加えたので、二人の家来が奉公辞退を願い出たことから幕府の取り調べとなり、出雲守は他家に預けられ、二人の家来は伊豆大島に流された。忠真も監督不行届により閉門を命ぜられた。藩内ではその責任が追求され家老2人永暇、家老3人閉門、500〜350石の家中6人永暇、出雲守の家来が出訴した日の当直2人は郷入、番頭は減知、自殺者2人は断絶に処せられた。晴天の霹靂のような事件であり、庄内藩を揺り動かした」と、『庄内藩』(斎藤正一著)に記されている。
そして、『大泉叢誌 第1集』に顛末が、解読文ではあるが詳しく載っている。

講義では、改易を受けた藩士の罪状や減知理由などが解読解釈された。
理不尽なお裁き……、士族もそれは大変だったんだねぇ。史実を識ることは面白い。

ワッパ騒動義民顕彰会誌 第9号

2021-09-18 18:31:16 | 古文書、郷土史他
 
ワッパ騒動義民顕彰碑建立記念学習会が、第4学区コミュニティーセンターを会場に午後1時30分より開催された。コロナ禍ということもあり、升川先生からは直接電話で出欠の確認をいただいた。やはり参加者が少ないことが主催者にとって気がかりなこととご推察いたします。お忙しい中ありがとうございました。


会場受付で、発刊されたばかりの「ワッパ騒動義民顕彰会誌 第9号」を購入した。
「コミュニティー新聞」(2021.8.27付)に、『自由民権活動家 森藤右衛門の「両羽新報」を発見』との見出しで載ったその新聞からの、ワッパ騒動が題材の実名小説「名も高き三山の下風」が掲載されている。
その他、今回も読み応え満載だ。


学習会のテーマは、「ワッパ騒動前の庄内の農村を4つの視点から考える」で、升川先生がプロジェクターを使いながら、
 1.農民の労働実態を考える
 2.村落共同体を考える
 3.年貢等の収奪実態を考える
 4.農民たちの心情を考える
を、資料を参考にした詳しい講義だった。ワクワクと、ここでも知的好奇心が膨らんだ。

庄内浜の海防と調練の関係史料

2021-07-18 21:07:11 | 古文書、郷土史他
 
今月の『温故の会』は、秋保先生の講義でした。
テキストは、「庄内浜の海防と調練の関係史料」。そして庄内藩の幕末における海防調練の様子が描かれた当時の絵を実際に見ながらの講義は、とても勉強になった。虫食いを綺麗に表具し直した絵は、ちょっと違った意味で迫力を感じたりもした。たいしたものであるなぁ。


前回、私が読んだ「金井国之助日記」にも、異国船が現れ通達が回された日記文があったことから、興味が湧き自分流の「庄内藩幕末異国船対応年表(仮称)」を作成中なのである。面白い!


さて、来月(8月)は私の番だ。間に合うかねぇ。

細井家文書

2021-06-23 05:32:00 | 古文書、郷土史他
 
先日(6//20)の『温故の会』の発表は細井さんでした。講義は細井さん家の本家に伝わった明治期の手紙の解読でした。

打続好天気 御同慶
奉存候処 昨夜荒木齋
藤両人呼出し 一昨日之
申出ニ対し 再考之結
果ハ 矢張り前ニ話候
通り 此際動かす可か
らさる旨 為申聞候処
七月頭より実施之事も
申出候得共 又一般
… … … …
… … … …
四月廿七日辰一時
       景重
細井大兄
      玉机下

テキストの手紙文はA4用紙6枚にコピーされています。
この4月27日とは明治何年のことだろうか? という疑問から始まり、講義は広がっていった。面白い。

この手紙の差出人は、加藤景重(嘉永3(1850)年-大正13(1924):加藤宅馬の3男)で、細井猷蔵[旧服](弘化4(1847)-明治45(1912)に宛てたもの。

◯加藤景重は、明治19(1886)年に酒田米商会所設立時に頭取に推され、明治26(1893)年11月には、改称された株式会社酒田米穀取引所の理事長となった。(①新編庄内人名辞典より)
酒田米商会所設立時は、不況であったため足並みが揃わず、設立は本間家に依頼されたが、本間家の家憲により当主の本間光美は融資者にとどまり旧藩主酒井家に設立経営を勧めた。酒井家の幹部の中には消極的意見も少なくなかったが実力者菅実秀の積極的意見により会所設立に着手した。米商会所の役員はすべて旧藩士をあて、仲買人は豪商の顔ぶれで明治政府の藩閥的性格を現していた。(②庄内藩の米札から山居倉庫米券への移り変わり:三上初子より)

【株式会社酒田米商会所】 ◯開業:明治19(1886)年3月15日 ◯資本金:30,000円 ◯役員:頭取 加藤景重、副頭取 地主正次、肝煎 本村茂三・田中吉右エ門・富樫忠蔵、仲買人 西野長・鐙谷惣太郎・阿部久作・荒木粂太郎(彦助) (②より)

◯細井猷蔵[旧服]は、漢学者池田賚[悌三郎]のもとで漢学・経書を学び、のち菅臥牛に師事した。明治26年済急社(荘内銀行の前身)副社長となって酒田米穀取引所の監事を兼ねた。(①より)
酒田米穀取引所設立は明治26年3月の取引所法(法律第5号)が交付され、同年10月1日新法により株式会社酒田米商会所は資本金1万円を増資して4万円で株式会社酒田米穀取引所と改称した。役員はいずれも旧藩士族であり、仲買人の鐙谷・荒木・阿部・本間等はいずれも古い富豪である。倉庫の設置は従来の受渡しの不便を緩和し、酒井家当初からの産米の改良と農村経済の振興をはかる目的であった。保管倉庫を設置する機会に恵まれ、鵜渡川原村山居町に場所を定め、倉庫7棟840坪を新築し、明治26年11月から倉庫業を開始した。これが山居倉庫の起こり。(②より)

【株式会社酒田米穀取引所】 ◯理事長:加藤景重(旧会所頭取) ◯理事:地主正次・成沢高景・岡田宜寿 ◯監査役:細井旧服・大淵吉政 ◯仲買人:鐙谷惣太郎・荒木彦助・阿部久作・佐々木長右エ門・小竹鈔三郎・山村良助・斎藤文治・高山藤治郎・瀬尾卯右衛門・木村茂三・柴田正八郎・菅原文蔵・本間長治。

明治26年4月に仲買人一同(鐙谷惣太郎外12名)連署で「従来、定期米の受渡倉庫は新井田米庫と豪商5名の倉庫に依存してきたが、取引高が増えてきたので狭隘になってきた。ついては取引所法が制定され、取引所が附属倉庫を兼営できることになったというので丁度良い機会である、先般来仲買人に分与されている利益の折半金は頂かなくともよいし、これを倉庫の新築資金に充てて、ぜひ附属倉庫を新築し、倉庫業を経営し事業を拡大するとともに庄内米の改良と声価向上に役立ててもらいたい」との陳情があった。(③山居倉庫と庄内米:高橋義順より)


このことから、手紙文に出てくる「荒木」と「齋藤」は仲買人の荒木彦助と斎藤文治のことで、加藤景重から3歳年長の監査役の細井猷蔵に宛てた手紙には、両人に現行の取引所が手狭であること、渡り米検査を厳重お願いするとのことなどで、株式会社酒田米穀取引所への改称に伴い、倉庫新築(山居倉庫)に関する内容のようなので、明治26年4月27日の手紙と思われる。
しかし、③で高橋義順氏は、仲買人たちが喜んで新築資金を提供してるように記しているが、手紙では、呼び出された荒木彦助と斎藤文治は「話し合いを重ね、不承不承と言う具合でしたが帰っていった」と加藤は書いている。がどうなんだろう?

参考書籍

『庄内藩の米札から山居倉庫米券への移り変わり』 ◯著者:三上初子 ◯発行:昭和60年(1985)4月30日初版 ◯表紙絵:三矢弘毅 ◯題字:阿部吉次郎 ◯印刷:株式会社光印刷
『山居倉庫と庄内米』 ◯著者:高橋義順 ◯発行:平成9年(1997)3月31 ◯企画・発行:庄内倉庫株式会社 ◯制作:株式会社家の光出版総合サービス ◯印刷:庄内農村工業農業協同組合連合会 ◯カバー絵:明治43年(1910)頃の山居倉庫実景、明治43年5月 三矢弘毅 畫
『日本の歴史を問いかける』より『ある倉庫をめぐる攻防の歴史』◯執筆者:三原容子

2021.5.26 皆既月食 (旧暦2021.4.15)

2021-05-26 21:34:34 | 古文書、郷土史他
 
約3年ぶりの皆既月食と今年最大のスーパームーンが重なる24年ぶりだという月食の天体ショーが、我が家の玄関先から筋向いの渡部「匠」大工さんの屋根上に見ることができた。

先日、町内のA部さんのご厚意で『庄内藩の戊辰戦争』の著者である阿部博行先生と、三人で懇親する機会を設けていただいた。幕末庄内藩の様々な話が聞けたことはとても勉強になりました。ありがとうございます。
そんな中で、A部さんが本を出してきて「日食を観測した庄内藩士」というタイトルで書かれた古文書紹介記事の「江戸時代の??年4月23日に庄内藩士が太陽の~」的な解説文を指し、「これどう思う?」と訊いてきた。私は掲載記事のとおり「庄内藩にも科学者・数学者的な人物がいたんだなぁ」と、そのまま受け取ったのだが、A部さんは「重大な間違いがある‼」と、ボーっと読んだ私の感想に嬉しそうに叫んだ。
「日食は新月(朔日:陰暦の1日)の時にしか起こらない。だから陰暦の23日に日食になることは絶対になく、記事は誤りであるぅ‼」と、地球と月と太陽の位置を示し、得々と解説してくれた。う~む。

それじゃ月食は、満月(望)のときだから15日なんだろうなと調べてみたら…、今日は太陽暦で2021年5月26日、太陰暦(旧暦)だと2021年4月15日と出た。おおぉ…。
と、相変わらずもの知らずの私は感動するのであった。ふむ。

令和2年度 郷土史講座 宝暦~天明年間の庄内藩

2021-03-13 20:54:17 | 古文書、郷土史他
天明の大飢饉

今年度最後となる『第2回 郷土史講座』で、本間勝喜先生の講義「宝暦~天明年間の庄内藩」を受講してきました。
財政難に苦しむ宝暦(1751年)~天明(1789)庄内藩と、補填する豪商、疲弊する農村の興味深い講義でした。史料をテキストにしてのいつもの講義は、とても有意義でした。いやはや、家臣もひもじかっただろうが、庶民農民はなおさらだったことだろう。農民が文字を書けたならもっと事情が分かったことだろうなと感じた。

【はじめに】
①藩主では酒井忠寄[タダヨリ](5代藩主)、酒井忠温[タダアツ](6代藩主)、酒井忠徳[タダアリ](7代藩主)である。
②17世紀末に表面化した藩の財政難が、18世紀後半に一層進行した。
③しばしば財政改革が実施されたが、ほとんど成果が見られなかった。
④財政難は家臣をはじめ、領民にしわ寄せされた。
⑤商人の中には多額の米金を藩に融通するも、ほとんど返済されず商売が行き詰まる場合もあった。

01.藩主酒井忠寄の幕府老中就任(寛延2年(1749)9月)から、明和元年(1764)5月辞任まで
02.財政難の進行
03.家臣の窮乏
04.連年の凶作と農村疲弊
05.郡代久米五郎兵衛らによる再検地・検見取の建言
06.農民の夫食願いの闘い
07.財政整理の諸施策など(安永3年(1774)頃まで)
08.豪商本間光丘の登用と財政改革
09.支藩松山藩との関係
10.その他の出来事
 (1)国目付の来庄(明和7年(1770))
 (2)幕領に対する預地支配
 (3)大火
 (4)感染症の発生

【まとめ】
①宝暦~天明年間は連年のように凶作が続き、財政難が一層進んだ時代である。何度か幕府から金子を拝借した。
②5代藩主忠寄は老中ともなり歴代藩主の中で目立った印象であるが、何か持病があったものか参勤交代も満足に行えず、老中としても十分に働けなかったようである。
③忠寄の老中就任は、藩の財政難に拍車をかけたとみられる。
④宝暦8年(1758)から数年の財政改革は、一時凌ぎものであり永続的なものには到底なりえなかった。忠温、忠徳の代にも財政難は続いた。
⑤財政難は、家臣及び領民にしわ寄せされたのであり、家臣は恒常的な上米や御賄などに苦しみ、商人は融通した米金がほとんど返済されず商売に大きな障害となった。
⑥本格的な財政改革は、本間光丘によって行われ、一時成果もあったが天明の飢饉や幕府の課役によって挫折した。
(以上、講義資料より)

 

後田御開墾

2021-02-14 16:20:25 | 古文書、郷土史他
 
今月の温故の会は、大組頭島田家蔵の後田山開墾に駆り出された川北農民の記録文書の講義でしたが、S田氏が都合で欠席され秋保先生が代わってのご講義でした。

  後田御開墾
 八月十七日[明治5年(1872)]  御開墾初
  御人数三千人位
 御隠殿御出之積之所 御不快
 ニ付 山口三郎兵衛様御名代 御家老中
 其外官員中 不残御詰 尤右
 之御人数 大手前ゟラツパニ而
 出し 行々敷相見へ候
  但 壱万坪ヅツ弐拾九番迄有
  之由
一、御一統   にしん被
 … … …
※山口三郎兵衛[将順(文化11(1814)〜明治14(1881)2.8):藩主酒井忠篤に菅実秀の登用を進言。明治5年、松ヶ岡開墾を総理した]


松ヶ岡開墾場 第一蚕室(開墾記念館)

8ページにわたり記された「後田御開墾」(島田家文書)は、川北(酒田・飽海地区)農民が人足として、しかも寸志まで持参して出役した記録でした。このような状況の蓄積からワッパ騒動等へ繋がったのだろうけれど…。今回講義された秋保先生は、『凌霜史(松ヶ岡開墾場120年のあゆみ)』の編纂にも関わられており、『黒崎研堂庄内日誌』と合わせて資料として解説された。
自宅に帰り、もう一度この2冊を開いてみれば、「歴史の記述には、所謂手前みそであってはならない、充分な客観性が必要である」(凌霜史「あとがき」P633)と記されてはいるが、士族側支配層の記録であり、御家禄派で経営に参画していた黒崎研堂の日記がよく現している。庄内農民の苦しみは戦後まで続くのか。


「川北寸志人足の場合 鹿島探琱の描いた凌霜帖[絵巻物]28番区の絵には、遊佐、荒瀬、平田と旗が三旒立ち、小屋は見えない。従って通勤作業と思われる。荒瀬郷で587人であれば、これに遊佐郷、平田郷が加わって延べ人数凡そ2千人弱、遊佐の中心、現在の遊佐町中心街より松ヶ岡まで、直線距離は36キロ、道路を経由すれば40キロにはなるであろう遠距離、(中略)、夜半に出発して夜半に帰村する、往復夜道の強行日程であったと思い、御苦労の程が偲ばれる」(凌霜史P114)


後田村御林地開墾繪圖面 町數32丁
惣坪數30万坪餘 外ニ溜池堰道筋共6萬坪余

「(明治7年9月)11日 午前4時、隊長の門下に集合。一同山仕度。明け方、城内に屯集。およそ7、8隊。午後2時頃、山崎繁弥、北楯蔵太と新徴整の7、8人が罪人((金井允釐および新整2人)を捕えてきて、屯所に留置する。一同は通りすがりにこれをみて、喜びに顔を綻ばす。(中略) そもそも維新以来、下民も一律に自由であると布告されてからは、士族や役人を軽んじ、おまけに不逞の輩がその間に介在して詭弁を弄するので、辺地の貧民は、むやみやたらに士族も百姓も平等なりと思いこみ、刀を差している奴に何で頭を下げることがあろうか、刀を差しても一体何の役に立つものかと、各地に寄り集まって気勢をあげ、説諭しても聞きいれない。2、3の県首脳部は前々からこれを心配して居られた。ところが鼠族の罪は頂点に達し、頑民の驕慢は極まるところを知らず、ここに及んで、遂に大鋤(ママ)をふるって根こそぎ取り除こうということになった。孔子のいわゆる「寛と猛とを併せ用いてその弊をすくう」というのはこのことであろう」(黒崎研堂庄内日誌P228)

史跡 奥山荘城館遺跡

2021-01-17 14:11:40 | 古文書、郷土史他
 
本日の『温故の会」は、鈴Kさんの『史跡 奥山荘城館遺跡』についての発表でした。
中世東国荘園の姿を今に残す、全体で2市(胎内市、新発田市)12地点(江上館跡、鳥坂[トッサカ]城跡、倉田城跡、野中石塔婆群、小鷹宮[コタカノミヤ]境内地、韋駄天山遺跡、黒川城跡、蔵王権現遺跡、臭水[クソウズ]遺跡、金山城跡、坊城館跡、古館館跡)の奥山荘城館遺跡は新潟県胎内市から新発田市に掛けての国道7号沿いに点在している。


江上館跡

今は、朝日まほろばICが出来て関越や北陸道に繋がり、通ることのなくなった胎内市と新発田市内を走る国道7号線だが、このような城館遺跡群があったなんてね、全く知らなかった。
山歩きサークルにも参加している鈴Kさんならではの『鳥坂城跡トレッキング』で興味を引き、調べまとめた講義でした。以前大学のリポートで「律令制度下における地方制度」について調べながら書いたわけだけど、このような現地体験は絶対必要だなと本当に思いますね。もう少し自分なりに調べてみようとは思っている。
しかし何より、早くコロナが収束してくれないことには…ね、まったく‼


S田さんから「りんご煮」をいただいた。正月礼のお返しとしてでした本当に恐縮です。手作りスイーツはとても美味かった。感謝。