庄内歴史懇談会・ワッパ騒動義民顕彰会・地方史研究協議会 合同研究例会
『第62回庄内大会から10年 - その後の成果と課題 - 』
◯開会挨拶:阿部博行氏(庄内歴史懇談会)、久保田昌希氏(地方史研究協議会)
◯講 演:長沼秀明氏「日本憲法史としてのワッパ騒動 - 庄内から東京へ、そして未来へ - 」
◯報 告1:本間勝喜氏「庄内藩の財政難」
◯報 告2:今野 章氏「大会後の10年における庄内地域の郷土史関係の動向」
◯報 告3:菅原義勝氏「致道博物館の酒井家入部400年記念事業」
◯報 告4:大嶌聖子氏「『地方史はおもしろい03 日本の歴史を問いかける - 山形県〈庄内〉からの挑戦 - 』出版までの経緯について」
◯質疑応答
◯閉会挨拶:升川繁敏氏(ワッパ騒動義民顕彰会)
・司会進行:松本洋幸氏(地方史研究協議会)
(2行目)
… … 十七日、遊摺部大工より古ふせん一袋。山田弥八郎 内役なりに付き、三盆白壱斤投来す 十八日 … … … …
解読しながら、古ふせん=こふせん ってなんだろう? と疑問に思っていた。昆布煎餅を略したのかな?などと。
昨日は、古文書サークル温故の会の例会でした。しかも発表は私。例によって金井国之助日記の解読を行い、その発表途中で「こふせん」は「こうせん」だと先輩方から教えてもらった。皆さん昔は口にして、よくむせたものらしい。そんな食べ物を私も幼い頃…、まだ茶の間の達磨型薪ストーブで煮焚していた頃、口にしたような記憶が思い浮かんだ。でもあれは黄粉ではなかったか……。
ネットで検索してみれば、すぐ見つかった。そして砂糖と混ぜて食べた味の記憶が微かに蘇ったような気がした。

… … 十七日、遊摺部大工より古ふせん一袋。山田弥八郎 内役なりに付き、三盆白壱斤投来す 十八日 … … … …
解読しながら、古ふせん=こふせん ってなんだろう? と疑問に思っていた。昆布煎餅を略したのかな?などと。
昨日は、古文書サークル温故の会の例会でした。しかも発表は私。例によって金井国之助日記の解読を行い、その発表途中で「こふせん」は「こうせん」だと先輩方から教えてもらった。皆さん昔は口にして、よくむせたものらしい。そんな食べ物を私も幼い頃…、まだ茶の間の達磨型薪ストーブで煮焚していた頃、口にしたような記憶が思い浮かんだ。でもあれは黄粉ではなかったか……。
ネットで検索してみれば、すぐ見つかった。そして砂糖と混ぜて食べた味の記憶が微かに蘇ったような気がした。

なぜ、浅草弾左衛門書物の写真なのか?
昨日、2回目となる「ワッパ騒動史料学習会」が開かれた。出席者は9名、いづれも郷土史に明るい博識の方々ばかりが集う学習会で、私は…というと、聞き耳を立て無口に勉強している。
特に今回から三原先生(庄内地域史研究所主宰)が出席され、話題が広範囲に及ぶ内容となった。話題の一つとなったのは、被差別部落の歴史(明治4年8月28日の太政官布告によって賤民制が廃止)とその職種の多様さに、とても興味深く話を聴かせてもらった。鶴岡の穢多・非人について「温故の会」の中で、安野氏の古文書解読を通して興味を持つようになり、そんなところから浅草弾左衛門の書物に繋がり、この写真となったわけです。
明治初期の密偵の話から、被差別部落(同和問題)の話、なぜ戊辰戦争後も侠客小文治の名が大隈文書に出ているのかなど、まだワッパ騒動勃発以前の庄内事情……、ワクワクする学習会なのである。
いつか登ってみたい山は摩耶山と、ここ荒倉山。
横光利一も好んで眺めたこの景色を、今年こそは歩こうと思う。

今回の『温故の会』での講義は、鈴木さんによる「荒倉山とその周辺」でした。地層や地形に興味を持ち、山歩きが趣味の鈴木さんの講義は、古文書解読というよりは縄文時代から中世、近世……現代と、地形や集落名などから歴史の流れを解説、推理する。例えば「十五里ヶ原の戦い」での庄内平野は広大な湿地帯に点在する農地…といった具合に、当時の風景を思い浮かべてみる。これはこれでとても面白く、歴史を学ぶ上で大切なことだと思う。
やはり荒倉山に登らねば……、そして体力を回復させねば。

【大町道祖神祭由来】
『古来より猿田彦尊を祀る道祖神は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神であり、子孫繁栄を願い、当大町では豊作祈願と町中安全も併せて祈り、祭典が行われています。
表町(北組・中組)は男の神様、裏町(南組)は女の神様を祀り、各町ごとに門松を作り、神宿の門に飾り付け、旧暦正月15日に祭典が行われていました。ご祈祷後は門松を下ろし、村はずれの古川まで運び、去年の神札と共に焼き払い、夜に高学年の子どもたちにて次の神宿にお社を移して祭りは終わります。
神宿は各町ごとに各戸が持ち回りで、お社を一年間お守りします。尚、昭和38年ころより門松の飾り付け及び祭典は、表町、裏町共に大町公民館にて行うようになり、現在は各神宿での門松づくりは、作業所の確保が難しくなってきたのと、後々迄も保存する目的で保存会を結成し、齋藤氏の納谷をお借りし両町合同での作業となっております。現在は1月5日の早朝より、作業場に保存会会員が集まり、二組に分かれて作業を始め、午後2時ごろ迄に終了します。6日早朝より完成した門松を、作業場から大町公民館まで皆で肩に担いで、会館の門に飾り付けて完了です。
祭り当日の6日の午前に、小学生以下の子どもたちが会館に集まり、氏子の家々に戸別賽銭をいただきに回ります。午後から光国寺によるご祈祷を受け、疫病退散、無病息災、子孫繁栄、豊作祈願、町内安全を祈り、参拝客に子どもたちが御神酒を振舞います。午後3時ごろ、門松を下ろし、門松の真ん中の腹帯の中にある、するめ、小餅、串柿、昆布などを子どもたちが競い合って取り、家に持ち帰ります。その後、以前は子どもたちが門松を担ぎ、村はずれまで持って行き焼いていましたが、現在は環境の変化によりそれが出来なくなり、業者にお願いし焼却しています。夕方、表町、裏町に分かれ、次の神宿にお社を移し(神渡し・とやわたし)、子どもたちが神宿(受け神宿)でご馳走になり、道祖神祭は終了します。
大町道祖神祭は、元禄時代ころから子孫繁栄の神様として祀り行われたと云われており、男子だけの祭りが女子も参加するようになり、教育上の観点から行事が大幅に改められ、現在の様式に変革されて今に至っています』と、由来をコピーして配布している。
送状之事
当亥二十五歳
一、壱人 池田貞斎
右者
御目見医 池田玄宅弟 今度
勝手ニ付 其御村方医師玄岱江
養子指遣候趣ニ付 此方人別相
除候 依之其御村方人別ニ御差加
可給候 以上
亥
三月 御目見医年番
大山道賢
御預地
野興屋村
名主 助重郎殿
人別為替証文之事
一、壱人男 年廿六歳
寅蔵
… … … … … … …
此度、悪性傳染疫流行之儀ニ付 別紙
御布告及譯文豫防法等、被仰出候
間、右者未ダ海外ゟ傳染セザル先ナレバ縁
海之地所、尤可護之第一ニテ萬一豫防之
術疎漏ナル時ハ、御国内生畜傳染ゟ人
民之大害ヲ引起候モ難計候条、一逼
一個タリトモ等閑之義有之間敷、豫防法
之趣相心得、所役人ハ勿論、医師、及小前
末々
… … … … … …

温故の会の例会。今回は大組頭島田家文書より、辛未六月(明治4年6月)に県から酒田出張所に達せられた、海外で流行し始めたペストに対する予防法に関する文書でした。
現在の新型コロナ流行と同じように衛生面(清潔を心掛ける)のこと、出歩かないこと、飲酒や房事を慎むことなどが書かれている。
明治4年(1871)から150年経った現在、医療もインフラも発展したはずなのに……、唖然とするほど準備されていない。むしろ各地にあった保健所は減らされ、収支に見合わないからと薬の開発も進まず、その挙句に自己責任だと? そして自粛警察などと「ひと」も悪くなった。
古文書から、そんなことを考えてしまった。
『庄内藩の10大事件簿』と題された、春山先生の第3回楽知六講座を受講してきました。
「10大事件簿」といっても、講座資料には、
1.酒井家の系図
〈葵[アオイ]の家紋と鳩酸草[カタバミ]の家紋〉
2.高橋太郎左衛門と長門守
〈荒瀬・遊佐郷百姓逃散と長門守一件〉
3.松山、大山、余目領の分地
〈忠勝の三男忠恒→松嶺2万石、七男忠解→大山1万石、次男忠俊の長子忠高→余目5千石〉
4.松平伊豆守も娘が可愛い
〈忠勝時代に乱れた藩政の健全化〉
5.加藤忠広の配流
〈幕府(徳川家光)の権力の見せしめ〉
6.高力忠兵衛の改革
〈藩財政の再建に辣腕を振るうが苛政により郷入〉
7.元禄享保期の庄内
〈繁栄と衰退〉
8.寛政改革
〈藩の借財10万両、金融による農政改革と致道館の創設〉
9.天保4年の大凶作と合積[ごうづもり=配給制度]
〈配給制度による飢饉の乗り切りと農民に対する莫大な貸付米金の切り捨て〉
10.長岡転付封阻止事件
〈転封令撤回と農民運動の後年の解釈は?〉
11.印旛沼開鑿
〈三方領地替え中止に対する老中水野忠邦の報復〉
12.大山衆の気位
〈大山騒動〉
13.大山庄太夫事件 (丁卯の大獄)
〈第二次長州征伐が幕府の敗北に終わり、藩内の政策批判を恐れたため〉
14.戊辰戦争
〈菅実秀という男〉
と、14大事件が取り上げられている。
もう一度、藤沢作品や映画が観たくなった。面白い。
久々に山形市内へ行く機会に恵まれ、先日来、庄内歴史懇談会や楽知六講座で取り上げられていた最上義光、義康、駒姫などの菩提寺をお参りした。帰りには下山添の一里塚にある最上義光嫡男、義康が葬られたという修理塚もお参りしようと思っていたのだが、残念ながら遅い時間になり日も落ちたので今回は見送った。
まずは霞城公園近くにある『最上義光歴史館』で充分に学んでから……と、開館時間をHPを検索するとなんと「臨時休館のお知らせ」が、しかも休館の期間が「令和3年10月16日(土)から令和4年1月17日(月)まで」となっている。う~む何というBad Timing……残念。
ということで、霞城公園内の最上義光像を仰ぎ見て、「ふむ、あれが義光愛用の指揮棒かぁ」などと、講座で識ったばかりのことを呟いてみる……。

縄文の女神「山形県立博物館」
公園内の県立博物館ではプライム企画展として「紅と藍 -くらしを彩る-」が催されるていた。庄内人として紅花を知ることは新鮮で面白い。
『縄文の女神』の実物にお会いした。いやぁーなんか、素晴らしいものですな。

義光山 常念寺
『最上義康』 修理太夫、天正3年(1575)~慶長8年(1603)8.16 武将。山形城主最上義光の長男。慶長5年(1600)9月は長谷堂合戦で上杉景勝の武将直江兼続と戦って伊達政宗に援兵を依頼。翌6年(1601)3月、酒田城攻撃の総大将となる。その後、父義光と不和を生じて同8年(1603)高野山入りを命ぜられ、庄内丸岡の一里塚を通りかかったとき、義光の密命をうけ待ち伏せしていた土肥半左衛門から銃で撃たれて死亡した。享年29歳。のちに義光はこれを深く悔い、山形の常念寺をその菩提寺にするとともに、同寺の岌讃専阿[キュウサンセンア]を鶴岡の天翁寺に派遣してこれを中興し、寺号を常念寺と改めて義康の霊を弔わせた。(庄内人名辞典より)

最上義康公供養塔
極悪武将最上義光の策略で長男義康、三男義親は非業の死を遂げ、その他様々の強権支配を行った悪い奴的なイメージを持っていた。今回の鶴岡常念寺の若和尚や楽知六講座での春山先生の話を聞き、義光の歴史をもう一度しっかり知りたいと思った。実際Wikiでも悪人には書かれていない。

天瀧山光禅寺
次に、最上家の菩提寺である光禅寺を訪れた。人影のない晩秋の光禅寺庭園を眺めたあと。義光、家親、義俊の墓前にお参りし、庄内を終の隠居地と考えていた義光の思いを空想してみた。

最上義光

光禅寺庭園

最上家三代の塋域
・ 最上義光-光禅寺殿玉山道白大居士-没年:慶長19年-享年69
・ 最上家親-盛広院殿安慶長公大居士-没年:元和3年-享年36
・ 最上義俊-月照院殿華岳英心大居士-没年:寛永8年-享年27

最上義光の葬儀後に殉死した四義士
・ 長岡但馬守-覚通義志居士-没年:慶長19年
・ 山家河内守-即永了心居士-没年:慶長19年
・ 寒河江肥前守-直庭是正居士-没年:慶長19年
・ 寒河江十兵尉-活翁快言居士-没年:慶長19年

最上山専称寺
最後は、駒姫の菩提寺。
楽知六講座で駒姫の非業の死と義光の無念さを知り、どうしてもお参りしておきたかった。
今でも供養され続けられていることを知り、その思いに共感した。

駒姫

駒姫の供養塔

黒髪塚
【伝承「黒髪塚」謂れ】
『黒髪塚は、駒姫(天正9年[1581]~文禄4年[1595]8月2日)の遺髪を収めた塚に供養石を置き、密かに供養され続けてきたという伝承の髪塚です。
昭和55年、専称寺奥の院の黒髪塚の跡に五輪供養塔が建立され、塚は現在の場所に移されました。
駒姫が秀次事件(文禄4年[1595])に巻き込まれ非業の最期を遂げると、その遺髪は侍女達によって最上家に届けられ、その後も多くの人々によって密かに400年以上も供養され続けてきたと伝えられています。
現在も、9月2日を「駒姫忌」として大切に供養され、駒姫の物語は最上家の光と影の源流として語り継がれています』
山形中央ライオンズクラブ 表示板より
昨夜の楽知六講座は、酒井氏入部400年第2回講座『鶴ケ岡城と城下町鶴岡の由来』でした。

最上義光黒印状
為燈明供物之
料十六石五斗八升
六合之所但半物成
令寄進候畢
永尊万安可被
奉祈当家之延
長物也仍如件
少将出羽守
慶長十七年
六月四日 義光(印)
禅龍寺
