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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第二章 愛の学びの形 1-2

2008年05月22日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 1-2


質問者。


仲の悪い家族にも、家族ならではの 「 結束 」 というものはありますか。


その中で愛を学べるのでしょうか。



昌清霊。


家族は小我のつながり。 家族の愛には大我が混じるが小我もあり、その小我は 「 束縛愛 」 となるのじゃ。


束縛愛は、誰もが持つものにござる。 生まれながら親から生き別れした者とて、つながりはあるのじゃ。 束縛から離れているように見えるが、しかしこれまた影の束縛、裏の束縛なのじゃ。


親のある束縛、ない束縛。 同じなのじゃ。 早くから親から離れた者であれ、親を思うのじゃ。 思うということ自体が束縛なのじゃ。


親から早く離れ、親など気にもせず考えもせず生きる者が一人でもいたならば、今の話は戻す。 が、ありえぬ。 なぜならば、それが定め、法であるからじゃ。


家族とともに生きようが、離れて生きようが、小我の束縛はあるのじゃ。 その小我の束縛によって魂を見つめることとなるのじゃ。 仲が良くとも悪しくとも、そこで悩み、もがくわけじゃ。


それが魂、大我を、より輝かすこととなるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


仲の良し悪し、同居、別居にかかわらず、家族間には 「 束縛愛 」 があり、その悩みが魂に学びを与える。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-6

2008年05月22日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 2-6


質問者。


人が孤独を恐れ、友達や家族といった他者との絆を求めずにいられないのは、なぜですか。



昌清霊。


肉体という物質にこもる小我、魂は、なぜ、ときに友達を求めるのか。


ぬしらが友達や家族を求めるのは、その神我が光るときじゃ。 そのときも、ほんの少しの心の隙あらば、ぬしらの行為は小我の行為となる。 しかし、ぬしらが大我を重んじて生きるならば、その行為は大我の行為となろう。


ぬしらが友達を持つのは、友達と分かち合う愛に神を見るからじゃ。 大我の感動を得るからじゃ。


愛を与えるという行為を通して、その愛が自らの小我より大我に響き、その大我が引き出され、魂の輝きを増すのじゃ。


――――――――――――――――――――――


他者と愛を分かち合う経験は、魂を輝かせると尊いもの。 その輝きが、人の神性に喜びをもたらす。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 1-1

2008年05月21日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第二章 愛の学びの形 1-1



家族とは、この世で学びあう小我同士の絆。
魂は、そこでまず愛されることを学ぶ。



質問者。


なぜ、この世には、「 血のつながり 」 で結ばれた家族というものがあるのでしょうか。



昌清霊。


人は生まれ出でて、まず家族を持つわけじゃ。 どの魂も、誰かの同胞(はらから)となるわけじゃ。 魂の上では、どの魂もすべてが同胞であるが、現世( うつしよ )に出る場合、あえて小我の同胞、すなわち家族を選ぶのじゃ。


先にわしは、すべては光と影であると申した。 光とは類魂( るいこん )を指すのじゃ。 類魂から申せば、すべてが同胞にござる。


しかし、この現世では闇、影として現れる。 幽世( かくりよ )は大我、現世は小我じゃ。 影ゆえに小我の同胞をつくるのじゃ。 そもそも、肉に魂を宿した時点で小我なのじゃ。 小我を発揮する場となるのじゃ。 されど、その魂は大我が本( もと )つ。 これ神我という。 しかし影の部分では肉の家族となるのじゃ。


なぜ家族が必要か。 幽世においてはすべてが家族じゃ。 されど現世では肉という個を持つ。 個を持つ限り、小我が表れる。 では、小我のみで愛が学べるかといえば、難しいのじゃ。 家族なき小我のみの魂となれば、愛が学びにくいのじゃ。


そもそも小我を持つということは、孤独を持つということじゃ。 一つの個の中に収まれば、それは孤独を生む。 すべてが同胞である幽世では、みな一つの類魂であるゆえ、孤独はないのじゃ。 されど魂が肉という個の中に収まれば、個には小我が生じ、孤独が生まれるのじゃ。


その孤独だけの魂の中では学びができぬ。 ゆえ、親という腹から生まれるようになっている。 肉と血のつながりにより、小我の結束を生ませるのじゃ。 それが良くも悪しくも学びとなるのじゃ。


現世はすべて、幽世の映し出しじゃ。 血、肉のつながりが小我でも、魂はそのつながりを尊ぶのじゃ。


――――――――――――――――――――――


血縁は、個体に収まった孤独な魂同士が、この世で愛を学び合うために必要なつながり。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-4

2008年05月21日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章 叡智に至る道 1-4


質問者。


さまざまな生き方の選択肢がある中で、今の自分の人生がある。


それがどのような境遇でも、魂が自分に最適だと、選んでいるものなのですか。



昌清霊。


さようじゃ。


また、その魂も今生においてはそう選んでいるが、魂の流れの中では、また別のかたちにおいても学んでおるのじゃ。


たとえば、夫婦でともに生きる人生もあろう。 独り身で学ぶ人生もあろう。 子を持つ人生もあろう。 持たぬ人生もあろう。


お題はどんどんと展開し、広がってゆく。


わしは前に申した。 経験がすべてじゃと。 ということは、かたちの良し悪しではない。 多様な経験を重ねることが大切であるのじゃ。


すべてを知ることにより、魂の理解となるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


魂は、幾度もこの世に生まれ、そのつど異なる生き方を選び、経験を豊かにして学びを深めている。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-5

2008年05月21日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 2-5


質問者。


「 自分さえ良ければよい 」 という生き方は、良くないとされていますが。


実際は、そのように小我のみで生きている人は多いものです。



昌清霊。


さようじゃ。


何一つ人に分け与えたくないということは、小我にこもった魂の、当たり前の、ごくごく当然なる姿じゃ。


では、その 「 自分さえ良ければよい 」 という小我の生き方は、なぜいけないのか。 その理由をぬしらはどう考えておるのかな。


それは、みずからが孤独になるからじゃ。 自らのためにならぬからいかんのじゃ。 みずからの魂、大我のためにも良くないからいかんのじゃ。


これに気づけば、人は変われるのじゃ。 ただの教というものだけでは、人は変わらぬ。 ただの美辞麗句(びじれいく)では、真に変ることはできぬのじゃ。


魂は、もとは神じゃ。 誰にでも神我が宿っておる。 どの者も神の粒子なのじゃ。 ぬしらはみな、神。 その神が、小我におおわれて生きているのじゃ。


そのおおわれた小我を強く保つのか、または、その奥底に潜む神我を光らせるのか、どちらを選ぶかが大切なのじゃ。


――――――――――――――――――――――


自分の欲望のみを優先させていると、人は孤独になり愛から遠ざかる。 愛がなくては、人は幸せにはなれない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-3

2008年05月20日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章 叡智に至る道 1-3


質問者。


今の日本では、メディアも発達し情報の種類も多く、私たちが 「 間接的経験 」 から学べる機会は豊富です。


それだけ 「 学ぶ必要のある時代 」 だということですか。



昌清霊。


さよう。


しかし、学ばねばいけないと言いながらも、みずからの魂の器に合った分量しか学べない事も事実じゃ。


胃袋と一緒じゃ。 どれだけ品数が豊富になろうとも、食べられる範囲は同じ。 また胃袋に入ったとしても、それを消化する力にも限度があろう。 それと同じじゃ。


――――――――――――――――――――――


今の世の中は、間接的経験の種類も量も増えているが、学びとして消化できる分量は、その人の魂の器による。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-4

2008年05月20日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 2-4


質問者。


どんなとき、どのようにして、私たちは 「 小我の愛 」 の限界に気づかされるのでしょうか。



昌清霊。


この現世がなぜあるか、なぜ必要かと申せば、肉という小我を持ち、小我のみで生きれば、必ずそこに、魂の苦しみを得るからなのじゃ。 小我のみで生き抜けることはありえない。 その小我のカルマとして、必ず躓( つまず )きを生むのじゃ。 孤独を生むのじゃ。


となれば、小我を見つめ、その小我を大我へと変化させねばならなくなる。 それが大切なのじゃ。


わしは前に、人は傲慢( ごうまん )であると申した。 その傲慢は闇、影に等しいとも申した。 ( 『 スピリチュアルメッセージⅡ~死することの真理 』 P・144参照。)


小我もまた、たとえれば闇なのじゃ。


傲慢なのじゃ。


極めてわずかな闇であっても、その闇を見つめ直さねばならぬことが、必ず起きるのじゃ。


小我の闇の強き者は、何一つ人に分け与えたくないはずじゃ。 ぬしらの世の言葉で言えば、「 自分さえ良ければよい 」 となるはずじゃ。 なぜならばその者は、物質的考えで生きているからじゃ。 となればその者は、いやがおうもなく孤独に生きることになる。 


しかし、人は孤独には生きられぬ。 ゆえ、必ずその小我を変えねばならなくなる時がくるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


物質的な価値観は、必ず魂の苦しみを生み、人を人生に躓かせる。 その経験が、傲慢からの目覚めを促す。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-3

2008年05月20日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 2-3


質問者。


でも、個体に宿った人間は、「 霊性の向上 」 という本来の目的さえ、忘れて生きていることが多々あります。



昌清霊。


知らぬゆえの感動こそ、大切なのじゃ。 忘れていた真理を思い起こす、思い出す、という行為こそが大切であるのじゃ。


たとえば、ぬしらは、この国にいて当たり前と思うておることが、この国より不自由な国にまいったときに、当たり前でないことを知るであろう。 それにより、この国の良さが改めて認識される。 このことに極めて似ているのじゃ。


感動するということは、いわば、物質界にいて忘れていた真理を 「 思い出す 」 ということでもあるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


現世にいて忘れていた真理を「思い出す」行為。 だからこそ、感動は魂を揺さぶり成長させる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-2

2008年05月19日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 2-2


質問者。


なぜ私たちの魂は、あえてこの世で肉体という 「 個 」 に宿り、限界を設けて、神の愛から離れてしまっているのですか。



昌清霊。


小我という肉体、「 個 」 をつくることにより、魂は負荷を持つのじゃ。 その負荷をあえて持つことにより、神の愛を学ぶのじゃ。


個にこもるという負荷を乗り越え、個を持ちつつも 「 大我の愛 」、神の愛に気がつくということの大切さを知る。 その経験こそ、魂の 「 学び 」 なのじゃ。


物質界のみにおいて得られる 「 感動 」 は多いのじゃ。 喜びも、心の痛手も、すべて感動にござる。


この 「 感動 」 というものを使うことにより、深く魂が磨かれ、ぬしらは二度と闇に戻らぬという確信を持つわけじゃ。


それが、まこと人の進歩、成長、いわば霊性の向上へとつながるわけじゃ。


――――――――――――――――――――――


肉体に宿るという負荷をあえて持ちながら、神の愛に気づくのが 「 感動 」 の意味。 これが、魂を深く磨く。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-1

2008年05月19日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 2-1


「 小我の愛 」 とは、個としての物質的な愛。
人はその限界に気づき、己の枠を広げてゆく。



質問者。


「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」、この二つの愛は、どのような関係にあるのでしょうか。



昌清霊。


ぬしらは 「 小我の愛 」 の経験を重ねることにより、その短きを知りつつ、鈍く光る 「 小我の愛 」 より、まことの愛、神の愛、または 「 大我の愛 」 に近づいてゆくのじゃ。


今わしが 「 短きを知りつつ 」 と申したのは、いわば 「 小我の愛の限界を知りながら 」 ということじゃ。


「 小我の愛 」 には、限界がある。


なぜならば、「 小我の愛 」 は、肉体ゆえの愛であるからじゃ。 神の愛である 「 大我の愛 」 とは大きく異なるのじゃ。


「 小我の愛 」 とは、物質ゆえ。 この肉体に宿る魂が、個を中心とし、個を守り、個を慈しむために表現する愛であるゆえに、「 小我の愛 」 は、まことの愛、いわば神の愛より遠く離れ、さまようこととなるのじゃ。


たとえば世の者たちが、特に若き者が陥る愛。 いわば恋愛という愛。 ある程度の肉の年齢を重ねた者ならば、夫婦の愛。 そして、家族の愛。 ぬしらはその中で、つねにつねに、間違いだらけ。 「 小我の愛 」 の闇を重ねてゆくことが多い。


――――――――――――――――――――――


「小我の愛」は、物質に執着した魂の未熟な愛。 人はやがてその限界に気づき、「 大我の愛 」 に目覚める。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-2

2008年05月19日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第三章 叡智に至る道 1-2


質問者。


学びとなる「間接的経験」とは、どのようなことですか。


他人の気持ちに寄り添って感動したり、他人の失敗を教訓にしたりすることですか。



昌清霊。


さよう。


どのような闇も、はたから見れば 「 学び 」 にござる。 すべて闇ばかりでもなく、闇には光も存在するのじゃ。 「 学び 」 ということは、大我に至る道であるわけじゃ。


それゆえ、大我の気づきを与えているということ自体、奉仕となる。


すべての闇もなく、すべての光もない、とわしがつねに申すのは、そういうことなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


どのような小我的行いでも、実は、その姿を目にする人に気づきを与えるという役割を果たしている。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  1-6

2008年05月19日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 1-6


質問者。


本当の愛、「 大我の愛 」 を知るための道は、人の魂が神の境地に近づく道と同じ、ということなのですね。



昌清霊。


わしはつねに、主らはみな神であると申しておるが、日頃ぬしらが思う神観と、まことの神観は違う。


誤解なきように受けとめてほしいが、神自体が、まだまだ粗( あら )い粒子を持っている。 いわば、粗い御霊( みたま )を持っているのじゃ。


それが、ぬしらであるわけじゃ。


ぬしらは、神といえば完全無欠な、崇高なる絶対の存在と受け取るであろう。 しかし、ぬしらも神であるということは、神にもまだまだ曇りあるという証じゃ。


ぬしらがこれを聞けば、神を俗化して思うことであろう。 先にわしが 「 誤解なきように 」 と申したのは、それがためじゃ。


神は、ぬしらの思う俗物とは違う。 まこと、いと高き存在であるのじゃ。


神とは、すなわち愛であるわけじゃ。


――――――――――――――――――――――


神という存在の一部分、その粗い粒子が人間。 よって、誰もが神性を備え,つねに向上を目指している。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  1-5

2008年05月18日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 1-5


質問者。


昌清様は、「 愛は智を持たねばならぬ 」 とおっしゃいましたが、それはなぜですか。


その 「 智 」 の意味を教えて下さい。



昌清霊。


「 智 」 とは、叡智( =霊的真理 )。


法則。


神の摂理じゃ。



「 神を知る 」 ということをもって、愛を語れるのじゃ。


愛を行動に移せるのじゃ。


愛の学びとは、一歩一歩、まことの愛、まことの神へと近づいてゆくという道なのじゃ。


――――――――――――――――――――――


人は愛の尊さを学ぶ中で、神の摂理に近づく。 それが 「 叡智 」 であり、真の愛を実践させるもの。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  1-4

2008年05月17日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 1-4


質問者。


「小我の愛」を脱して 「 大我の愛 」 を知るには、愛すること、愛されること、どちらの経験が、より学びとして大切ですか。



昌清霊。


すべては光と闇、闇と光なのじゃ。


愛すること、そして愛されるということは、「 光と闇の法則 」 と同じなのじゃ。 どちらが光、どちらが闇ということではないが、しかし光と闇は同じ、ということなのじゃ。 いわば、どちらも同じく愛を学ぶことにござる。


愛するということにより、愛の苦しさ、切なさを知る。 そして、愛は 「 智 」 を持たねばならぬということを知る。 愛は、神我の愛、神の愛でなければならぬということを知る。


そしてまた、愛されるということにより、愛の尊さを学び、まことの愛、神の愛を知るわけじゃ。


どちらも同じく 「 愛 」 を学んでおるのじゃ。


人は経験の中で、愛すること、そして愛されるということを、幼き魂の次元より大人の魂の次元に至るまで、くり返し、くり返し、学んでゆくのじゃ。 知ってゆくのじゃ。 または、みずからに浸透させてゆくのじゃ。


――――――――――――――――――――――


愛することも、愛されることも、同じように大切な学び。 経験の中で両方をくり返し、人は真の愛を学んでゆく。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-1

2008年05月17日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章 叡智に至る道 1-1



「 愛することの真理 」 へ至るための近道はない。
徹底して経験を積むことが、唯一の学びの道。



質問者。


見返りを求める 「 小我の愛 」 を脱して、無償の 「 大我の愛 」 を実践するために、学びの近道はありますか。



昌清霊。


近道はない。


まことつらきことではあるが、人は 「 経験 」 が一番の学びで、経験以外の学びはないのじゃ。


直接的経験でなくとも、人の姿を見てわが身を知るのも経験じゃ。 間接的経験なのじゃ。 その間接的経験も、まこと心から同じく経験せねば、それはくり返してしまう事になる。 いわば、元に戻ることも多いのじゃ。


しかし、みずからが経験した事は、そして、それがまことの輝きとなり、磨きとなるならば、戻ることはないのじゃ。


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経験こそが、真の愛を得るための一番の学び。 特に、自分自身が直接経験することは、魂に深く刻まれる。




( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )