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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第一章   愛とは何か   3-7

2008年06月06日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章   愛とは何か   3-7


質問者。


人が 「 帰属 」 を好み、身の置き場を求める気持ちには、この世で 「 個 」 として生きる、寂しさがあるのではないですか。



昌清霊。


さようじゃ。 そして小我の持つ本能、いわば自己保存の本能ゆえなのじゃ。


帰属を好むその寂しさ、悲しみは何処から来るか。 自己保存の本能からじゃ。


「 個 」 という肉体に降りる以上、その「個」には、孤独がつきまとうのじゃ。 「 個 」 の立場にならねば、孤独はありえぬ。 魂が肉体という 「 個 」 に入り現世に生まれたときから、孤独が始まるわけじゃ。 そしてその孤独を癒すには、帰属意識を持つしかないのじゃ。


魂は、学びのために、その帰属意識、本能を利用する。 ゆえ、家族、故郷、国、その大きさ違えども、みずからがどこに帰属しているかにより意識は高まる。


ぬしらは、日頃国中でどのように争いがあろうとも、外国( とつくに )とのあり方になれば、わが国を大切に思うであろう。 これ、帰属意識。 この国の中でもそうじゃ。 この日本の国の中であったとて、細分化された一つの地域であるわが故郷を懐かしみ、慈しむ。 そしてその故郷の中でも、さらに細分化された一つの家である我が家族を懐かしみ、大切に思う。 このように、人には帰属愛があるのじゃ。


されど、ゆくゆく先、いずれは 「 個 」 というものを解き放たねばならぬゆえ、帰属意識をなくしてゆくことが、魂の成長なのじゃ。


ゆえ、魂の帰属意識を外してゆく作業が、生まれ出でたときより始まるのじゃ。


家族に始まり、家族より外へ広がってゆくことが、当然のあり方、学び方であるわけじゃ。


――――――――――――――――――――――


個体としての孤独ゆえに、人はどこかに帰属したがる。 だが帰属意識を一つずつ外すのが、魂の成長。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-6

2008年06月05日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-6


質問者。


魂には血縁がなく、本来はみな別個の存在ならば、家族の縁は何より強い、というこの世での認識は、私たちの愛の学びに必要な 「 幻想 」 なのですね。



昌清霊。


まあ、一つのな。 方便じゃ。


ぬしらは 「 帰属意識 」 という小我的打算を利用しつつ、また、小我的打算から解放される道を歩むわけじゃ。 そこを通ってこそ、解放することもできるのじゃ。


この現世の者は 「 帰属意識 」 が好きじゃな。 たとえば、戦。 ・・・・・・うーん、今の現世で言えば、運動競技、オリンピックがよかろうか。 日頃興味なくとも、わが身内と思うことにより、ぬしらは熱上がり、わが国民を応援することとなろう。 それは、わが身に帰属する者たちであるからじゃ。


その手法を、魂の学びにも、あえてとるわけじゃ。


――――――――――――――――――――――


身内を大切に思う「帰属意識」は、物質的な価値観だが、それを経験してこそ、真の愛との違いに気づく。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-5

2008年06月05日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-5


質問者。


多くの人と出会い、学びあう一生の中で、私たちにとって、最も大きな存在は何ですか。


やはり 「 家族 」 であると言えますか。



昌清霊。


家族であろうとも、魂はまた違う。 個性すべてが別々じゃ。 この家族という形態を持って、学ばせているわけじゃ。


腹を痛めて血を分ける肉親であろうが、または雑居であろうが、家族として成り立つ場合、小我というものは、みずからの枠の内は味方とする。 それが小我の特性じゃ。 小我的な打算があるわけじゃ。 それを利用して、ぬしらは学んでいるわけじゃ。


ぬしが今申したように、家族のお題は実に大きい。 魂は別であるが、人の腹から生まれ出る必要があるのじゃ。 そして家族という形態を持つ必要があるのじゃ。


なぜならば、小我は 「 帰属 」 を好むからじゃ。 良くも悪しくも魂は、帰属により喜び合い、傷つき合い、悲しみ合うのじゃ。


――――――――――――――――――――――


弱さや打算から味方を欲し、「 帰属 」 を好む。 小我の特性を利用して、魂は家族という形態で学び合う。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-4

2008年06月04日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-4


質問者。


さまざまな他人と会い、さまざまな関係を持つ。


つねに出会いを広げてゆくことが、魂の成長には欠かせないのですね。



昌清霊。


さようじゃ。 肉体の同胞( はらから )、すなわち家族より始まり、家族以外のつながりへと関係は広がってゆくのじゃ。


もちろん光の世界である幽世( かくりよ、あの世 )においては、すべてが類魂、同胞。 だが現世( うつしよ )では、他の魂、他の肉体、他の個となるのじゃ。


他の個と接するお題はさまざまある。 友達、恋愛。 そしてある者は、結婚し新たな家族を持つ。 そしてまたある者は、みずからの子を持つ。 生業( なりわい )を持てば生業によるつながりもあろう。 さまざまな、他の魂と接する学びがある。


このように、すべてが一貫した学びの流れの中にあるのじゃ。 一つひとつ段階を経て、「 大我の愛 」 の領域を広げていくのじゃ。 「 小我の愛 」 は、そのための道程(みちのり)であるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


家族、友情、恋愛、結婚、そしてまた新たな家族へ・・・。 人間関係の広がりの中で、人の魂は成長してゆく。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-3

2008年06月04日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-3


質問者。


友だちを持った私たちは、さらに成長すれば、単純に 「 愛 」 と呼んでしまいがちな恋愛も経験するようになります。



昌清霊。


さよう、男女の愛。 そして夫婦の愛。


そして夫婦になった後に、また血を分け、肉を分けての家族を持つ。 いわば子を持つのじゃ。


こうして、お題はさまざまに変化してゆくのじゃ。 家族、友達、友達を超えた男女の性愛、そして、また家族。


このようなお題の変化の中で、人は小我のみでは必ず、さまざまな問題にぶちあたるのじゃ。


そこで、みずからの小我を見つめることになる。 それにより小我をより磨き、大我へと少しずつ、または一歩ずつ、進歩させてゆくわけじゃ。


――――――――――――――――――――――


人は大人になる過程で、恋愛や結婚を経験し、より複雑で本格的な、魂の学びに入ってゆく。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-2

2008年06月03日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-2


質問者。


私たちが家族の中に生まれ、愛を受けて、肉体を成長させてゆくに従い、家族以外の人との関わりも生じてきますね。



昌清霊。


さようじゃ。 肉体がある程度成長すると、魂は、家族という肉体のつながりから一歩外に出(いず)る。


その 「 小我の愛 」 を、これでもかと見せつけられることに、進んでゆくのじゃ。 それが友達( ともどち )というものじゃ。


友達というものは、肉体はまったく別である。 広義の類魂からすれば一つであるが、肉体が違うゆえ育ちも違ってくる。 その違いの中でみな、幼き者はわが自己を主張するのじゃ。


主張し合う中で、なかなか折り合いのつかぬこともある。 考えの違うということが多々起きる。 その中で葛藤し、わが小我を見つめるのじゃ。


さまざまな争いがあれば、人の魂は悲しむ。 では、その悲しみを癒すためにはどうするか。 わが小我を見つめ、わが小我を削る作業をしなければならぬのじゃ。


それがときに譲り合い、理解し合うということになる。 これらすべてが、大我へと進むかたちなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


人は成長するにつれて、家族の外へ踏み出す。 友との関わりの中で、小我を見つめ、譲り合いを覚えてゆく。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   3-1

2008年06月03日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   3-1



人間の一生は、肉体ゆえの弱さを乗り越え、
帰属意識を外して、愛を広げてゆく学びの道。



質問者。


この世に生まれ、個体に宿った魂は、一生の間に、どのような道程( みちのり )を経て、「 大我の愛 」 に目覚めてゆくのでしょうか。



昌清霊。


人がなぜ、みなこの現世( うつしよ )に出( いず )るか。 それは、すべてが未熟なる子霊( こだま、幼い魂 )であるがためじゃ。 それを「 真白霊 ( ましろだま ) 」 とも申す。 その魂たちが、いわば経験を重ねるために現世に出るのじゃ。


生まれ出でたときより、学びにござる。


まず、誰もがこの現世に生( あ )れるとき、一人ひとりに家族がある。 家族なく生まれ出る魂はない。 家族との縁の、濃い薄い、深い浅いの差はあろう。 しかしみな、家族を持つわけじゃ。


その家族の中で、魂はまず肉体を養う。 肉の成長なければ、魂は発揮できぬからじゃ。 それが赤子、幼児期じゃ。


肉体を持ち、成長させてゆくという学びの中で、魂はまず、小我をむき出しにする。 赤子は人のものでも何でも取り上げる。 みずからが欲しいものを得られねば泣く。 これ、小我。 肉にこもった小我のむき出しの状態なのじゃ。


その中で、次に親子の愛を確かめ、育ってゆく。 その過程においては病もあれば、さまざまな事柄が起きるが、その葛藤の中で、親は子を愛し、心配し、まこといたす。 子は子で、親の愛をひしひしと受け、その愛を持ってみずからの成長とする。 これは、神の愛に似た行為であり、植物の光合成によく似ている。


されど、光合成に一番近いは 「 大我の愛 」、まことの愛じゃ。


――――――――――――――――――――――


赤ん坊は、小我むき出しの存在。 神の愛に似た親の愛を受けて、この世での学びに必要な肉体を成長させる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 1-6

2008年05月29日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 1-6


質問者。


家の伝統や財産を守り抜こうとすることは、先祖を敬い、大切にする正しい愛ですか。


それとも、帰属への執着ゆえの行いでしょうか。



昌清霊。


まるまる物質的な価値観じゃ。 それ以外にない。


帰属する場に、なぜそこまで執着せねばならぬのか。


先に申したように、帰属意識を解き放ってゆくことが必要なのじゃ。


家の伝統、財産に固執するという行為は、逆に魂を、その帰属に封じ込めていってしまうことであろう。 となれば、それは誤りであるということ。


しかし、うまくできたもので、そのような家には、必ずといっていいほど反逆児が生まれる。 それは、そこを打開せよという働きじゃ。 その家系の小我においては困った息子、困った娘、反逆児などと言われるが、しかし大我から見れば救世主であるのじゃ。 見た目のことと、魂の理由は別であるわけじゃ。


そして、もう一つ。 それを誤りとするは、それが悪しき伝統、いわば原始的あり方でもあるということじゃ。


以前は、ましてわしがこの現世に生きていたころにおいては、いわば村制度、群れ制度があったのじゃ。 今の時代と違い、さまざまな掟( おきて )をつくらねば生きてはいけなかったのじゃ。 いわば、肉体を存続させてゆくこと自体が大変であったのじゃ。 それがために、より小我のかたまりとなっていたのじゃ。


しかし時代が変れば、先の話の、大家族が小家族になるのと同じように、学びのあり方は変っておるのじゃ。 今、良し悪しは別として、わしがいた時代よりはもっと選択肢がある。 家のあり方も、かたちはさまざま変わっておる。


しかしその中で、帰属に執着する家というものが、いまだ存在することも確かである。 今、現世のときは変っているのにもかかわらず。


それは、ほとんどが小我の目であるのじゃ。 弱き者の表れ。


されど、これも光と影。 反対もあるわけじゃ。


どうゆうことか。 つまり、そのような影を社会に見せることが、他の者たちへの警告の役割を果たしているということ。


そのような帰属する家族の争いを見ることにより、そこから学ぶ者たちも多いわけじゃ。 それらを見た者たちは、帰属に執着するわが身をも戒( いさ )める。 それはそれで、ためになっているのであろう。


――――――――――――――――――――――


家の伝統や財産にこだわるあまり、柔軟に生きられないのは、帰属への執着であり、先祖への本当の愛ではない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 1-5

2008年05月29日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 1-5


質問者。


小家族が増え、子供たちが家族以外の人たちと関わる時期も早まりました。


それは、帰属意識が薄れ人間の魂が 「 進化 」 した証でしょうか。



昌清霊。


それはある。 が、しかしそう変わりはしない。


なぜならば、そのどちらにおいても、学びは同じであるからじゃ。


身内多き家とて、しょせん、魂の個性は別じゃ。 それゆえに身内の中でのもめごとも多い。 その中で、もまれる。 しかし、育( はぐく )まれることもある。


では、小家族においてはどうか。


早くから社会と接しなければならぬ。 しかし、本( もと )つ家族意識が強くないゆえに、孤独は強い。 孤独心は、大家族より大きいのじゃ。


となると、足元不安定でいて人との関わり、すなわち他の魂との関わりを持つわけで、それは一長一短にござる。 自立を早めることにもなろうし、その足元がゆるんでいれば、かえって不安定な事故を起こすであろう。


この現世の今、精神不安定なる者、人との関わり方のわからぬ者があまりにも多いのは、そのためじゃ。 魂が、さまよってしまっているのじゃ。


――――――――――――――――――――――


現代の小家族化は、子供の自立を早めている反面、精神が不安定で孤独な魂を生んでいる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 1-4

2008年05月26日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 1-4


質問者。


大家族、小家族など、それぞれの家族の差違は、一人ひとりにとって愛を学ぶ方法が違うだけということでしょうか。



昌清霊。


さよう。 それだけじゃ。


大家族であろうが小家族であろうが、大切なのは目に見えた人数構成ではなく、「 関わりの深さ 」 なのじゃ。


小家族であっても大我の関わりであれば、大家族以上の安定があろう。


または大家族であっても、小我の関わりでは、小家族にも劣る。


大家族であっても小我的とは、たとえばどうゆうことか。


現世には、家系、家制度、または物質、地位、そのような物質的価値観でもって、みずからの魂を縛り上げていることがよくあるな。 生まれた家ゆえに、これができない、あれができない、こうせねばならぬ、と。


このようなことが強い家では、大家族でも、魂はその小我のみに封じ込められ、それぞれの魂に深みはもたらされない。 となれば、深き関わりの小家族にも負けてしまう。


見た目のかたちは、何一つ頼りにならぬということじゃ。


―――――――――――――――――――――――


大家族でも、地位や家系など物質に縛られ、孤独な者もいる。 学びに大切なのは、家族間の 「 関わり合いの深さ 」。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 1-3

2008年05月26日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 1-3


質問者。


家族が最初に愛を学ぶ場所ならば、時代の流れで大家族が減り、核家族化、少子化が進んでいることは、私たちの魂の学びにも影響していますか。



昌清霊。


家族の愛に限らず、どのような愛であろうが、すべての愛の定義は同じじゃ。 わしが申している、光と影なのじゃ。


ぬしが言うたように、家族の人数はさまざま。


しかし、同じなのじゃ。 大家族であろうが、小家族であろうが、学び方は同じ。 陰と陽。 光と闇というだけじゃ。


数が多い家族、関わり多き家族は、それだけその中で、魂、もまれることとなろう。 しかしまた、物質的な助け合いが多くなり、魂の学びがぼやけて停滞することもあろう。


そして、今の現世に増えているような、非常に孤立無援に近いような家族は、それはそれで孤独との戦い。


このような違いはあれど、しかし目指す道は同じ。 ただ、物質的に数が多い、少ないというだけじゃ。


大家族であるならば、大家族ゆえの喜びと悲しみがあろう。 小家族であるならば、小家族ゆえの喜びと悲しみがあろう。 独身に生きる者とて、一人という家族じゃ。 同じなのじゃ。


――――――――――――――――――――


大家族には大家族の、小家族には小家族ならではの学びがあるが、その中で魂が目指す愛は同じ。



( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-6

2008年05月23日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章 叡智に至る道 1-6


質問者。


起こる原因も意味もわからないまま、ただ苦難に耐えていても、幸せは訪れず、真理を見出す事にもつながらないのですね。



昌清霊。


さようじゃ。


それに、小我を大我に目覚めさせることを、苦難、苦しみ、難儀と呼ぶべきであろうか。 本つ光の類魂からすれば、光の世界より見れば、それは 「 喜び 」 にござる。 苦しみ難儀とは思わぬ。


苦しみ、難儀と思うは、まだ、しがみつく小我が発する言葉ぞ。


ゆえ、「 難儀を得るために生まれてきた 」 という言葉自体、魂の向う姿勢が違うのじゃ。


喜びを感じれば、小我の影が小さくなる。 小我が小さくなれば大我が大きく占領するわけで、大我が占領するということは、これすなわち、「 幸せ 」 ということなのじゃ。


幸せを得るためにある道が、なぜ苦しみ、難儀なのじゃ。 それは小我を重んずる、小我の側に立った物言いであるということがわかるかな。 それを苦しみと思ってしまうことが、小我であり現世的な発想であって、本来はまったく逆であるということ。


人はみな、言葉を間違える。 「 苦難 」 という言葉を重んじ、苦難を得て、まこと幸せと思えるであろうか。


幸せと思うほど大我をふくらませた時、それを苦難とは思わぬようになるはずじゃ。


小我がそれを苦難と思うのは、頭だけでの理解にしか達していないからじゃ。 まこと生き方そのものに到達していれば、苦難という言葉は使わぬはずなのじゃ。 大我を重んずれば幸せと思うわけで、決して苦難ではないととらえるはずじゃ。


しかし、幸せの定義が小我であれば、苦難と思えるやもしれぬなあ。


――――――――――――――――――――


小我の視点から見て「苦難」だと思える事も、大我の視点を知れば、「 喜び 」 「 幸せ 」 だと理解できる。



( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-8

2008年05月23日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 2-8


質問者。


「 愛の真似事 」 に真剣に悩み傷つきながら、本当に 「 大我の愛 」 を学べるのですか。


恋愛や友情などは、真の愛の学びには無駄にも思えます。



昌清霊。


すべては学びじゃ。


人はみな、自分自身のことでしか生きられぬ。 ゆえ、小我の目は、まさに小我的方法をもって大我へと変えねばならぬのじゃ。


ぬしらの魂は、この現世という土壌を舞台として生きているのじゃ。 その舞台には、さまざまな絵がある。 ぬし( あなた )が今申した恋愛や友情も、舞台を彩る絵じゃ。 それらが無駄かと問うのは、舞台上でその絵を考えて演ずるのは無駄か、と申しているようなもの。


絵だけが生きているわけではないのじゃ。 演じている魂が中心であろう。 であるならば、その絵をいかに生かすかなのじゃ。 いかに生かしながら、みずからの魂を引き立てるかじゃ。


誰が主役か。 ぬしらの魂じゃ。


しかし主役のみを考え、その絵を考えることが無駄とまでなるならば、調和というものはありえなくなる。 その舞台は、どのように主人公が演じたところで、決して総合的な美しさにはならぬ。


まことの主役は、舞台上のすべての絵を、みずからを引き立てるために利用し、すべてを輝きとするはず。 そして、みずからの輝きを引き立てるはず。 そこには調和のみが生ずるはずであるのじゃ。


でなければ、友情も、恋愛も、その他も、すべてが要( い )らぬもの、無用のものということになってしまう。 しかし、それはありえぬ。 すべてあるものは学びであり、無駄はないのじゃ。


――――――――――――――――――――――


この世は、魂を輝かせるための舞台。 恋愛や友情などの一つひとつの経験は、舞台の調和に不可欠な絵。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  2-7

2008年05月23日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 2-7


質問者。


私たちが大切に考えている恋愛や友情も、スピリチュアルな視点では、すべてがしょせん利己的な 「 小我の愛 」 なのですか。



昌清霊。


すべての小我は、大我の影である。


この現世に存在する小我、すべては大我の影なのじゃ。


現世に生まれ出でたとき、まず家族がある。 家族の愛は、本来、神の愛なのじゃ。 しかれども、この現世にある家族の愛は、「 小我の愛 」 と言う影に陥りやすい。 


友達、友情というものにおいてもさようじゃ。 もとの愛は 「 大我の愛 」。 されど、影なる友情の愛となるわけじゃ。


恋愛というものとて、その愛は 「 大我の愛 」。 されど、この現世においては小我の影を映し出す。


その他、もろもろの愛があろう。


わしが申したいのはどういうことか。 家族、友情、恋愛と、どのようなお題( 学びのテーマ )であろうとも、そのもとは大我であり、この現世は、その大我に潜む小我の影を映し出しているということじゃ。


言葉平たく申せば、すべては 「 大我の愛 」、いわば神の愛の真似事( まねごと )なのじゃ。


現世における真似事であるゆえ、影が存在するということじゃ。


――――――――――――――――――――――


現世の愛は、すべて神の愛の 「 真似事 」。 学びを得るために、さまざまな影が映し出される。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章 叡智に至る道 1-5

2008年05月22日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章 叡智に至る道 1-5


質問者。


人生の苦悩が魂を磨いてくれるというなら、私たちは、わざわざ 「 苦難を得るために 」 この世に生まれてきた存在なのでしょうか。



昌清霊。


ぬしは今、「 苦難を得るために 」 と申した。


しかし人は、苦難を得るために生まれてきたのではない。 小我が、苦難を 「 生む 」 のじゃ。


したがって、小我が小さければ、それだけ苦難もないわけじゃ。


わかるかな。


言うている意味は同じではあるが、とらえ方の違いは大きいのじゃ。 でなければ、誰もが 「 苦難さえ受ければよい 」 ということになる。


小我が小さければ、いわば影が小さければ、苦難は小さいわけじゃ。


しかし、小我なき者はおらぬ。 したがって、誰もが苦難を「得る」ことにはなる。 だが、「 苦難を得るために 」 という言い方は間違っている、ということじゃ。


――――――――――――――――――――――


人生の苦難は、本人の未熟さが「生み出して」いるもの。 魂が成長していれば、それだけ苦難も小さい。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )