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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第二章 愛の学びの形 5-8

2008年07月08日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-8


質問者。


家庭内での恋愛、いわゆる近親相姦はどの社会でもタブー視されてきました。 霊的視点で見ても、これは問題のあることですか。



昌清霊。


すべての魂は、基本的に、広義の類魂じゃ。 その中から別々の家に生まれ出でた二人が、恋愛して結ばれるのが、ぬしらのごく一般の恋愛、結婚というものじゃ。


では、たまたま同じ家に生まれ出でた親子や兄弟姉妹たちには、そのようなことがまったくないかといえば、そうとも限らぬ。 いわば、類魂から出る間違った小我の上には、そのような恋愛はありえることなのじゃ。 決しておかしいことではない。


がしかし、このような恋愛が、魂の学びから見て問題があることも事実なのじゃ。


先にわしは、家族とは、小我として愛を学ぶための最初の帰属であると申した。 そしてやがて家族という帰属を捨てて、一歩ずつ外へ向ってゆくのが、魂が愛を学んでゆく道であると申した。


となれば、ある程度の肉の年になれば、外へ、外へと向って広がってゆかねばならぬのじゃ。 しかしそのような者たちは、内へ、内へと向かう愛になっているわけじゃ。 そこに間違いがあるのじゃ。


なぜそのようなことが起こるのか。 それは、その家に、内にしか向かえぬ、いわば閉鎖された状況があるからじゃ。 その状況にある者にのみ、起こることなのじゃ。


たとえば、親を含めたその家の者たちが、世間は怖い、他は悪だなど、つねに家の外に対し恐れを抱いている場合。 親がひどい目に遭っていたり、もしくは差別なり、社会から悪意でもって封鎖されていた場合。 その家の者の魂は、内へ、内へと向かってしまう。


しかしそのような中でも、人というものは愛を望むのじゃ。 ゆえ、たとえば母と息子の場合であるなら、母が母、息子が息子にもなり、恋人にもなり、友達にもなり、すべての役割を果たすようになるわけじゃ。 兄と妹でも同じ。 お互い兄妹でもあり、恋人、友達でもあるということになるわけじゃ。


このようなことは、その者たちが外へ向かってゆかぬことにも問題があるが、しかしそれのみにあらず。


社会が、差別なりによってその者たちを押し込めている場合があるのじゃ。 となれば、その者たちと社会、両方に原因があるのじゃ。 責任があるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


魂は本来、学びを外へ広げてゆくべきなので、家庭内の恋愛には問題がある。 原因は社会にもある。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-7

2008年07月07日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-7


質問者。


夫と妻の役割分担は、どんどん曖昧( あいまい )になっていますが、家事や育児など、昔ながらの性別による役割分担は重んじるべきでしょうか。



昌清霊。


一言で申して、どうでもよいことじゃ。


今の現世の夫婦は、やれ掃除だ、やれ炊事だということの中で、役割分担を気にするが、まったくどうでもよいことなのじゃ。


されど、役割分担はあるのじゃ。 いわば、宿命的な役割。 これを果たすことは大切なのじゃ。


ではたとえば、男が子を産めるであろうか。 産みたいといくら思ったとしても、産めぬのじゃ。


男に生まれる、女に生まれる。 そこには必ずや、その者の魂の意味があるわけじゃ。 わしがつねに申す、お題じゃ。 それを重んずることは大事なのじゃ。


また、目に見えぬ部分で、男には父性、女には母性という役割がある。 茶碗を毎日洗っている男がいたとしよう。  その行いは母性であるか。 いや、そこに込められているのは、父性なのじゃ。 母性と父性も光と影、同じことなのじゃ。


現世には、父親のいない母子家庭というものがある。 その母は、父親役をも果たそうとがんばるであろう。 しかし最終的には、どのようにしても男の代わりはできぬというはずじゃ。 逆も同じ。 父子家庭の父親は、母親代わりはできぬというはずじゃ。


目に見える役割は果たせても、代わりにはなれぬ。 それ自体、母性、父性という宿命的役割があることをしめしているのじゃ。


――――――――――――――――――――――


家事などの見えるかたちでの役割分担はどうでもよいが、母性、父性という男女の宿命的な役割は重んじるべき。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-6

2008年07月06日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-6


質問者。


取り巻く環境に障害の多い二人でも、「 愛があればやっていける 」 とあえて困難な結婚の道を選ぶこともありますが。



昌清霊。


財産を捨ててでも一緒に、ということであるならば、よいのじゃ。 魂のつながりとして一緒になるということであるならば、相手が金を持っていようがいまいが、まったく関係ない。


要は、何が良い悪いではないのじゃ。 表面的な釣り合いを言うておるわけではないのじゃ。 その者たちが問われているのは、必ずや、どれだけ小我が強いのか、大我を備えているのか、じゃ。


小我を期待する気持ちがお互いの中にあれば、その中に依存せねばならぬ。 となれば、それに服従しなければならぬのじゃ。 しかし、まことの魂の絆であれば、よいのじゃ。


また、魂がしかと成長しているのかどうかも、見きわめるための秤( はかり )となろう。 そこを測らねば何一つわからぬのじゃ。


――――――――――――――――――――――


現実的に障害の多い二人でも、依存心を持たず成長した魂同士の絆があれば、結婚は可能。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-5

2008年07月05日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-5


質問者。


一般的に、結婚相手は育った環境や学歴などが近いほうがよいとされていますが、結婚が修行ならば、二人の差異の大きさも、強力な学びになると言えませんか。



昌清霊。


さようじゃ。 しかし、それに耐えうるかどうかなのじゃ。 それをみずからに問う必要がござる。


必要以上の苦難、みずからの魂で支えられる以上の苦難により、魂がよりいっそう陰りを持ってしまう者もいる。 ゆえ、なにもすべて無理なことをしろというのではなく、ある程度の学びができうるように、見つめよということなのじゃ。


たとえば、物にしようか。


一方の者が物質的なる価値観の家で、または物質を豊富に持っているとする。 その相手が、その物質に乏しい家だとする。 むしろ貧しき家だとする。 あまりにも家柄が違いすぎる。 それでも乗り越えられるかどうかは、そのときそのときにより違うのじゃ。


いわば、その者たちの魂が、どれだけしっかりと地に足つけているかなのじゃ。


でなければ、その者たちの現世的な器、そして現世を越えられる魂の力が伴わねば、それがために大きな障害を生んでしまうこととなる。 その障害により、魂がまったくもって機能しなくなることもある。 いわば精神の病などにかかり、この先の人生がなかなか思うようにいかなくなることもあるのじゃ。


それほどの問題をもたらすほどであるならば、無理を押さぬ道もあろうと、申しておるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


生まれ育った環境や家柄が違いすぎる二人の結婚には、そこから生じる問題を克服するだけの強さが不可欠。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-4

2008年07月04日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-4


質問者。


結婚が、大我を広げるための 「 本格的な修行 」 ならば、独身で生きている人は、それができないということでしょうか。



昌清霊。


前にわしは、愛することにより愛を学ぶことと、愛されることにより愛を学ぶことは、光と影のようなもので、同じであると申した。


夫婦であるか、独身であるかも同じじゃ。 夫婦であることによる光と闇もあれば、独身であることによる光と闇もある。 すべて光と闇。 陰と陽なのじゃ。


独身であるがために、夫婦の愛の尊さを学べる。


夫婦であるがために、夫婦の愛が学べないこともある。 小我のみを見るから、物質としての相手でしかなくなり、夫婦のありがたみに欠ける。 それが世の夫婦ではないか。 独身の者のほうが、夫婦の尊さを知っていたりする。


また、逆もあろう。 独身である者は、独身としての悲しさを語る。 しかし夫婦でいる者は、お互いを譲り合うという、小我を削ってゆかねばならぬ苦しみにある。 ということは、夫婦である者のほうが、独りということの幸せを知っていたりする。


光と影。 陰と陽。 すべて、この法則なのじゃ。


夫婦であることも、独身であることも、愛を学ぶ上で同じということなのじゃ。 違うて見えるのは目に見えるもの。 いわば肉眼を通して見えるもののみ。


人との関わりでもって愛を学ぶ道もあれば、孤独でもって愛を学ぶ道もあるということじゃ。 なにも恋愛、結婚ではなくとも、友達、生業の関わりでも同じであろう。


巷(ちまた)、いわば街で人と暮らして、人と関わって生きる道もあれば、孤島で孤独に暮らすことも、愛を学ぶことに変わりはない。 光と影。 陰と陽。 それと同じなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


結婚しようと、独身を貫こうと、学ぶ方法が違うだけ。 どちらも愛を学ぶ人生であることに変わりはない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-3

2008年07月03日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-3


質問者。


離婚よりむしろ、夫婦としてのかたちが続いても 「 大我の愛 」 を育( はぐく )めない状況があれば、そのほうが問題だといえるのでしょうか。



昌清霊。


さようじゃ。 小我同士のぶつかり合いの中でも、まったく大我へ向う進歩の見られない者もいる。


それはどうゆうことか。 小我同士が小我的な理由のみで結婚をする者も多いということじゃ。 自己保存のために結婚を考えるのじゃ。


要は、相手の小我としての物量を重んじる、いわば物質的価値観のみで、結婚をする者たち。 相手の家柄、財産の多い少ないなど、みずからの肉体が生涯食いっぱぐれないかどうかで、結婚をする者たちも多いわけじゃ。


今の現世には、あまりにもそれが多いな。 医者だ、事業家だ、地主だ。 さまざまある。 しかしその小我も、永遠とは言えぬ幻であるがな。


もちろん、その結婚の中にも大我はあろう。 小我のみだけで結婚を果たせるならば、それはまた悲しきことであるゆえ。 しかし小我の大きさ、比重のほうが大きいことは確かじゃ。


それらの者たちが結婚したあと、大我を学ぶことがまったくないわけではもちろんないが、小我にしがみつきすぎれば大我の学びが少なくなっていってしまう。


先ほどわしは、その小我も永遠とは言えぬ幻ではあると申した。 それは、いわば小我、物質を失ったときに、夫婦が存続する意義を失うということじゃ。


ゆえ、この現世、物質を失ったがゆえの離婚があまりに多い。 それが本( もと )つ小我の所有物を期待している、小我同士の結婚というものじゃ。


――――――――――――――――――――――


経済的な安定や家柄など、物質的価値観による結婚は、霊的な絆が弱く、本質的な学びがおろそかになりやすい。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-2

2008年07月02日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-2


質問者。


「 恋愛 」 と 「 結婚 」 は違うものですか。 恋愛中と結婚後で、二人の関係、愛はどう変化するのでしょうか。



昌清霊。


恋愛は、より無責任な学びなのじゃ。 ただ人を好きという感情を持つ、非常に基本的な、子供の魂がすることなのじゃ。


恋愛は気持ちの上でも誰でもできる。 たとえ思うだけの、ぬしらが言う 「 片思い 」 であっても、恋愛なのじゃ。 恋愛とは感性であるからじゃ。 相手にときめく、好きになる。 このような子供の反応であっても恋愛なのじゃ。


結婚はそうはゆかぬ。 結婚は小我のにらみ合いであり、ぶつかり合いじゃ。 恋愛はよきときだけであるが、結婚は、いやがおうでも相手の小我を見てゆかねばならぬのじゃ。 忍耐、苦労が伴( ともな )う、より本格的な修行への道なのじゃ。


そして結婚は、かたちとなって表れるのじゃ。 小我同志のぶつかり合いの中で、その小我を大我へと、少しでも光を増した夫婦が、生き残れる夫婦。 いわばまことの夫婦となれる夫婦じゃ。 しかし、お互い磨き合えない者には、別れがくるのじゃ。


とはいえ、出会いと別れ。 その結果はどうでもよい。 結婚、離婚ということなど、それがどうしたという話じゃ。 かたちの変化にすぎないのじゃ。 ただただ長続きしたとて、小我同志の夫婦はたくさんいる。 現世の打算で生きる夫婦など、みなそうじゃ。


ただ結婚が、より学び多いことであるのは確かじゃ。


――――――――――――――――――――――


恋愛は感性の経験であり、魂が幼くても出来ること。 一方、結婚は忍耐や苦労が伴う、より本格的な修行の道。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 5-1

2008年07月01日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 5-1



結婚とは、異なる生い立ちを持つ者同士が、小我をぶつけ合いつつ、大我を広げてゆく修行。



質問者。


魂の視点から見た 「 結婚 」 というものの意味を教えて下さい。



昌清霊。


人は家庭という中で、生まれ育つわけじゃ。 とすると、その帰属の比重は、外より内のほうが大きいはずなのじゃ。 だのに、やがて他者を愛するようになるわけじゃ。


小我の絆の強き者は、みずからの生まれ育った家族であろう。 夫婦になるということは、それよりも一歩外へと躍進する方法なのじゃ。


血のつながりはない。 現世での育ちがまったく違う筋の者と愛し合うわけじゃ。 そこで、結婚ということをする。


となれば、その中ではぶつかり合いがあろう。 なぜならば、まったく違う小我の帰属より来た者同士であるからじゃ。 ぬしらの世の言い方で申せば、「 生まれも育ちも違うものたちがともに歩む 」。 ゆえ、それなりの障害もある。 その中でまた、小我を見つめるわけじゃ。


大我の比重の大きい結婚は、感性で目覚めた愛の部分。


しかし、人はみな小我であるから小我を持ちうるわけで、その小我の中でのぶつかり合いもするのじゃ。 そこで大我が勝るか、小我が勝るかの合戦となる。


おおよその夫婦は、そこで大我が勝ってゆくことが多かろう。 ゆえ、慈しみ合う夫婦、いわば仲のいい夫婦、家族となるのじゃ。 もっとも、すべての小我がそこで抜け出るわけではないがなあ。


――――――――――――――――――――――


結婚とは、生まれも育ってきた環境も違う二人が、衝突し障害を乗り越えながら、霊的成長を目指す修行。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 4-4

2008年06月30日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 4-4


質問者。


子供を育てる経験がない人にとっての 「 違うかたちでの母性、父性の学び 」 とは、たとえばどのようなことでしょうか。



昌清霊。


ねしは先に、子供を持たぬと決めた者は、たとえば仕事に生きると言うたな。


それはそれで、今度は関わる人との間で、母性、父性を学ばねばならぬのじゃ。 ある者においては、部下を持つことを通して学ぶであろう。 逆に、孤独というところで母性、父性の働きがあることもあろう。


結局のところ、母性、父性の学びは同じなのじゃ。 ゆえ、赤子を手に抱くか抱かぬかのみで決めてはいかんのじゃ。


子を持たぬと決めた者、そのような者をよく見てみるがよい。 必ず環境の中で子に代わる誰かを育てねばならぬことが多い。 いわば部下を育てるなり、人の面倒を見なければならぬことが多いはずなのじゃ。


その中で学びがある。 もしやすれば、赤子を育てるよりも大変な学びの部分もあるはずじゃ。


肉体、その他の親心としての心配は、子を育てるよりは薄いやもしれぬ。 なぜならば、ある時間を過ぎればみずからの時に帰れる。 しかし、みずから稚子を持つ場合、つねにその子との絆は切れぬのじゃ。


大人の魂のふれあいは、二十四時間、日ごとともに過ごすわけではない。 その分、体力的には楽さもある。 しかしその者は、わが子として育てた者ではない。 いわば他の家族、他の帰属の集合体であるゆえ、なかなか母性、父性がうまく伝わらぬこともあるのじゃ。 ともすれば反発、反感を買い、思うように動かぬと悩むこととなる。 そのような者が、世の中に多いではないか。


と思えば、育て上手、慕われ上手な者もおる。


仕事をせぬ者とて、夫や妻や、親、兄弟姉妹、友達との関わりの中で、母性、父性を持たねばならないことがあろう。


みな、そうしてどこかで人と関わり、母性や父性を学んでおるのじゃ。


すべてが学びなのじゃ。 子を抱いたか抱かぬかというような、目に映ることがすべてではないのじゃ。


――――――――――――――――――――――


実際の 「 子育て 」 ばかりでなく、部下、友、夫、妻、親など、さまざまな相手との関係の中で、人は母性や父性を学ぶ。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 4-3

2008年06月29日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 4-3


質問者。


子育ての経験は 「 大我の愛 」 の学びに欠かせませんか。 子供を持たずに仕事などに専念する生き方は、母性や父性という学びの放棄でしょうか。



昌清霊。


子を育てるということは、物質的に大変なことが多いのじゃ。 時間や体力、または経済力、そのような苦しみであるのじゃ。 しかしそれは、時間や体力の忍耐でいいわけじゃ。 もちろん知恵も必要であるがな。


子育てという経験を必要とする者には、その経験が必要なのじゃ。 しかし、そうでない者もいる。


また、子育てをせぬことが母性、父性の学びの放棄か否かも、すべてそうとは限らぬ。 なぜならば、そのような者たちには、必ずまた違うかたちでの母性、父性の学びがあるからじゃ。


なにも赤子を育てるばかりが学びではないのじゃ。 これも、見た目で判断してはならぬことの一つじゃ。


――――――――――――――――――――――


子育ての経験だけが、母性や父性の学びとは限らない。 むしろ、違うかたちでの学びが必要な人もいる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 4-2

2008年06月28日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第二章 愛の学びの形 4-2


質問者。


「 みずから腹痛めた子でない子を抱く 」 とは、たとえば、養子を育てることなどでしょうか。 親子の絆が実の子に比べ、弱いのではないですか。



昌清霊。


みずからの腹痛めずとも、子を受け容れるという気持ちを持ち、その子を抱いたとき、その赤子は、わが身のみを頼りに生きているということが伝わる。 となればそのとき、即、母または父となるわけじゃ。 それは誰でも一緒じゃ。


突然、今ここに赤子が連れてこられ、ぬしらで面倒を見てもらいたいと置いていかれたとする。 ぬしら夫婦は、家族でもない。 しかし、その子を抱くとなれば、もう抱いたその瞬間より、その子が気になるはずじゃ。 置いては帰れぬはずじゃ。 抱いた瞬間に、絆( きずな )というものが生まれてしまうのじゃ。


なぜ、その絆が生まれるか。 互いが魂であり、縁があるからじゃ。 もしそのようにやって来たとするならば、それ自体が導きであるからじゃ。 選ばれた策であるからじゃ。


ゆえ、そのような者たちは、赤子を抱いてみるがよい。


それでもわが子と思えぬならば、それはまったくもって、みずからの思いは小我のみであると確信すべきじゃ。


そうでなき者、そのとき赤子を抱けば、どのような過去の悲しみあろうとも、わが腹を痛められぬとあろうとも、今、目の前にいるその稚子( ややこ )に対し、母とならねば、父とならねばならぬと、強く心に思うであろう。


「 大我の愛 」 とは、そうゆうものじゃ。


――――――――――――――――――――――


血のつながりがなくても、霊的に親子の縁がある子とは出会う。 絆の強さに変わりはない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 4-1

2008年06月27日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 4-1



母性愛、父性愛の学びは、みずからの血肉を分けた子供がいなくても果たされる。



質問者。


子供を持てない悩みについて伺います。 他人が産んだ子供を育てる道もありながら、血のつながったわが子にこだわるのは、小我的発想ですか。



昌清霊。


さよう。 みずからの孤独を癒したいという小我なのじゃ。


もちろん、わが腹を痛めたいという気持ちは分かる。 それがかなわぬことを悲しく思う気持ちも分かる。 しかし、本当にそれのみの志である者は、次なる段階に進んでゆくはずじゃ。


そこで停滞するは、まことその心のみではなく、結局は小我、物質的欲望を満たそうとしているに過ぎないということ。 いわば、人の持っているものを自分も欲しいという気持ちと、一緒じゃということ。


ほんに腹痛めたいという願望だけであるならば、それがかなわぬつらさは、早いうちに克服するであろう。 それよりも、次なる実践、行動じゃ。


みずから腹痛めた子でなくても、抱くことにより、その瞬間にみずからの子と思うことであろう。 子を抱かぬから、わからぬのじゃ。


――――――――――――――――――――――


自分で産めなくても、心から子供が欲しいならば、血縁への執着を捨て、選択肢を広げるべき。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 3-3

2008年06月26日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 3-3


質問者。


自分に向けられた親の愛が 「 大我の愛 」 か 「 小我の愛 」 かを見極めるのも、子にとっては大事だということですか。



昌清霊。


さよう。 しかし、小我まるまる、大我まるまるということは、ありえぬはずじゃ。 小我強きことか、大我強きことか、そのどちらかなのじゃ。


親の小我に関しては否定すべきであろう。 それは悪いことではない。 この現世の小我的見方、いわば物質としての見え方においては、つらきことでもあろうが、しかしそれを否定することに罪はない。


また、どの親にも大我の部分もあろう、大我に対し大我を返すということを、つねに思うておればよいだけなのじゃ。 それは、他のすべての人間関係においても同じじゃ。


親が子に託すことを子が否定し、その否定したことにより、親子が断絶することもあろう。 しかし親に大我がある以上、子はその大我に対しては、目には映らずとも、親がその場にはおらずとも、親を敬い、親に対し愛念を送り続けることが必要なのは、当然なのじゃ。 それが大我に対する愛じゃ。


小我は否定し、しかし大我には大我で返す。 小我を否定するときに大我をも否定する行動をとるとすれば、それは子どもの方にも問題があるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


親の子への愛の中にも、大我と小我が混在している。 大我には大我で報い、小我には大我で否定するべき。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 3-2

2008年06月25日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 3-2


質問者。


家業を継( つ )がないなど、親の期待を裏切ったことで罪悪感を持っている人がいます。 親の期待に添( そ )わないのは 「 親不孝 」 ですか。



昌清霊。


親の期待に添わないことを、すべて 「 親不孝 」 ととらえるのは間違いじゃ。 このこともまた動機から、大我、小我で細かく見てゆくべきなのじゃ。


ある者が、先祖代々伝わってきた家業を守らねばならぬということを、親から強いられていたとする。 しかしその者はそれがいやで、逆らいたい。 ましてその家業は、人から金を巻き上げたりと、必ずしも善なる気持ちから営まれていない。 いわば物質欲まる出しで、因果を作り上げてしまうと思うていたとする。


その者が、その家業を継がぬと徹底して反発することも正しい。 しかし親である以上、そこまで育ててきたということは、大我があるのじゃ。 子にも親を思う大我があろう。 そこで葛藤するであろう。 その葛藤があるからこそ、自分自身がどこまで親を大我として愛しているかを知ることとなろう。


そこで結果、家を離れたとする。 離れたからと、一切音信不通で何もしないとすれば、それは学びのないものじゃ。


しかし愛念は送り続け、つねに親を敬っている気持ちがある者は、何かしら身体や行動に表れやすいものじゃ。 みずからがその家業を継ぐことはなくとも、いついつまでも親と関わり合いたいという意志は持ち、行動に移すはずじゃ。 その先に、いつの日か和解してゆくこともあろう。 それも学び。


また逆に、その子が悩み悩んだ挙げ句に、家業を継ぐと決心したとする。 いわば小我に従ったとする。 それも道なのじゃ。


生業( なりわい )のためではなく、表に出て魂を働かすことが、みずからの職業的才能からして正しいというならば、先の道がよいであろう。 しかし、みずからがさほどの器でないと判断した場合、また自分の負( お )い持てる業( わざ )も家業を継ぐにふさわしいと思う場合は、継ぐべきであるのじゃ。


継ぎながらも、みずからの代では親の代とは違う形、よりよい形に変えて、この家系の因果を解放させてゆきたいと働くならば、それもまた小我を大我に変える道。 また、親の大我に対し大我で返す、という道であるのじゃ。


一方の道しかないわけではないのじゃ。 答えは一つにあらず。


その場、その場の 「 動機 」 が大事なのじゃ。 大我と大我、小我と小我、この関わり方の、いわゆる、ぬしらの言葉でいう 「 バランスをとる 」 感性こそが大切なのじゃ。


すべては 「 動機 」 と 「 魂の器 」、すなわち 「 魂の成長度合い 」 にあり、どれが正解でどれが間違いということはない。


ただ小我に対し、小我のみで反応し、大我を無視した場合、その行いが未熟であるということは確かじゃ。


――――――――――――――――――――――


親の期待を裏切ることが、イコール親不孝ではない。 大切なのは、親子それぞれの行動の 「 動機 」 に愛があるか。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 3-1

2008年06月24日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 3-1



親孝行とは、親の 「 大我の愛 」 には大我で報い、「 小我の愛 」 は、大我を持って否定すること。



質問者。


親の身勝手な期待や過干渉につぶされそうな子供を見ると、かわいそうになります。



昌清霊。


なぜじゃ。 その家を選んできておるのは、その子自身じゃぞ。 そして、その子も成長の中で、魂に力があればそれを脱するのじゃ。


ときに反発、反抗というかたちをとることもあろう。 この反発、反抗は、物質社会では、はなはだ不幸と見えるやもしれぬが、それが正しきこともあるのじゃ。 魂の成長と言えることもあるのじゃ。


また、それがなくとも、その者がある程度の肉体的成長を果たせば、家からどんどん離れることもできるのじゃ。


問題は、親の力ゆえに抑えつけられているという、その者の被害者意識じゃ。 ある程度幼きときはそれもあろう。 しかし幼きときは、それはみずからが選んだ宿命じゃ。


そして、みずからが動ける肉の年となって以降は、その者の魂の問題。 ゆえ、被害者という考え方は大いに傲慢じゃ。


現世にはよくあるな。 このような育てられ方をし、さまざまな家の問題が覆いかぶさるから自分は身動きがとれない、という者が。 それは違う。 身動きせぬ裏には、みずからの家、家族が、そのままであってほしいという小我の思い、小我の念が、子にあるのじゃ。


しかし、家族が崩れたほうが幸せということもある。 愛とはそこまで大きく飛躍もでき、大胆な行動もとるのじゃ。


愛は強く、裏切らぬ。 失ったときこそ、見えるものがあるのじゃ。


たとえ家族みなが、物質の上では地の底に墜ちたとて、愛、絆はよりいっそう強まることが多い。 魂は、むしろそうなることを望むのじゃ。


――――――――――――――――――――――


子は、親、家を選んで生まれてくる。 親からの抑圧、過度の期待や干渉も、成長に必要な課題と考えるべき。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )