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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第一章 愛とは何か  1-3

2008年05月16日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 1-3


質問者。


神の愛である 「 大我の愛 」 とは、いったいどんな愛なのですか。


より詳しく教えて下さい。



昌清霊。


「 大我の愛 」 は、神そのものである。


「 大我の愛 」 は、みずからの魂の向上のみを望む。


神は見返りを求めるであろうか。


求めぬものじゃ。


ならば小我の、人を愛することとは違う。


愛するとは、本来まったくもって見返りを望まぬことなのじゃ。


これが 「 大我の愛 」 じゃ。



そして 「 大我の愛 」 について、もう一つ。



愛されるという事もまた、喜びも苦しみも、すべてを受け入れること。


すべて愛と知ること。


これが 「 大我の愛 」 じゃ。



魂の喜びとは何か。



大我の魂の喜びは、進化、向上、進歩なのじゃ。


ゆえ、みずからが向上できうるがための言葉、行動、思いであるならば、それらはすべて愛である。


「 大我の愛 」 とは、これだけにござる。


「 小我の愛 」 とはまるで違うのじゃ。



人はみな、やがてはこの 「 大我の愛 」 に至ろうと目指している。


この方向を知るべきじゃ。


――――――――――――――――――――――


「 大我の愛 」 とは、見返りを求めず、魂の向上につながるすべてを、自分の喜びとして受け入れること。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章 愛とは何か  1-2

2008年05月16日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章 愛とは何か 1-2


質問者。


愛が 「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 の二種類に尽きるなら、恋愛、家族愛、友情などと呼んでいる愛の種別には、本当、意味がないのでしょうか。



昌清霊。


さよう。


愛に別種があるならば、それらはすべて 「 小我の愛 」 のうち。


小我ゆえの物質愛であるから、それらはみな、まことの愛ではないのであるが、強引に愛と名づけようとするならば、みな 「 小我の愛 」 なのじゃ。


ぬしら( あなたがた )は、小我による誤った愛の分類をしておる。


その中で、恋愛、家族愛、友情、親子愛、兄弟愛、そう分類しておるだけじゃ。


――――――――――――――――――――――


恋愛や家族愛、友情といった種別には、本来意味がない。 どれも、神の愛に近づくための学びの愛の一側面。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢ )



第一章 愛とは何か  1-1

2008年05月15日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章 愛とは何か 1-1


愛には 「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 がある。
「 大我の愛 」 は、ただ与えるのみの 「 神の愛 」。



質問者。


「 愛 」 とは何ですか。


私達が 「 愛する 」 ということには、どのような意味があるのでしょうか。



昌清霊。


愛ということを語るには、先ず二つに分けて考えねばならぬのじゃ。


愛と申しても、愛は広い。 深い。


愛には大きく分けて二つ。



まず、「 大我の愛 」 じゃ。


本( もと )つ愛は大我、すなわち神我の愛。


いわば神。


愛は神にござる。



そしてもう一つに 「 小我の愛 」 がある。


人が神の愛に近づいていくために必要な、いわば神に出る学びの愛じゃ。


愛は、まったく違うこの二つに分けられるのじゃ。


そして、愛には 「 大我の愛 」 か 「 小我の愛 」 、この二つしかない。


――――――――――――――――――――――


愛は、「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 の二つに大別される。 前者は、神の愛。 後者は、この世での学びのカリキュラム。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



真実の愛について ④ 光と闇の法則とは

2008年05月13日 | 愛することの真理 Ⅰ 
「 光と闇の法則 」 とは


もう一つ、本文にたびたび出てくる言葉に 「 光と闇の法則 」 があります。 同じことは 「 陰と陽 」 という表現でも語られています。


これは、「 光があるから闇があり、闇があるから光がある 」 ということを表す法則です。 より分かりやすく説明すれば、明るく輝く光があるからこそ何も見えないくらい闇、影ができる。 漆黒の闇があるからこそ、光の輝きがまばゆく存在しえる、ということ。 これは森羅万象にあてはまる真理です。


別の例で言えば、善があるから悪は悪なのであり、悪があるから善は善として成り立つのです。 男性と女性、昼と夜、生と死などの概念も同じ。 どちらか片方だけでは、それはそれとして存在しえず、つまり両方とも成り立たなくなってしまいます。


これは、どちらがよくて、どちらが悪いという視点で語られる問題でもありません。 昌清霊も  「二つは表裏一体であり、同じじゃ 」 と語っています。


人生の学びにも 「 光と闇の法則 」 は働いています。 たとえば、孤独と連帯、勤勉と怠惰、無関心と愛 ―――。 これらは一見対極にありながらも、同時に裏と表のような一つのものです。 その両方を経験し、それぞれの感動を魂に刻んでこそ、魂は豊かに成長してゆくことができるのです。


両面のそれぞれを深く経験するには、もちろん一度の人生では足りません。 くり返される転生の中で、私達は、男性と女性、長寿と短命、戦争と和平等々を、経験しています。


両方を体験することで、あらゆる物事の両面を理解してゆく。 そして完全なる調和、完全なる魂を目指してゆく。 それが、私達が 「 神 」 へと向かう旅路なのです。


私からの説明は、以上です。 ここから先は、どうぞ昌清霊の ” 声 ” に、静かに耳を傾けてください。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



真実の愛について ③ 内観とは

2008年05月12日 | 愛することの真理 Ⅰ 

「 内観 」 とは


本文には 「 内観 」 という言葉が出てきます。 自分自身をよく見つめるという意味のこの言葉は、既にご存知の方も多い事と思います。


本書のキーワードである 「 大我 」 「 小我 」 を用いて説明すると、内観とは、自分自身の内に潜む 「 神我 (=大我) 」 を確認しつつ、その観点から日頃の自分が「小我」に陥っていないかを厳しく見つめ、反省する事です。


昌清霊も本文で、「 みずからの神我(=大我)より、みずからの小我を観る 」 ことが内観であると語っています。


「 神我 」 は、すべての人に宿っています。 それを、ときに私達は 「 良心 」 と呼びます。 「 良心 」 は、頭脳で考えたり、学校の道徳の時間に教えられたりして会得するものではありません。 もし道徳の時間にしか会得できないものなら、あんな場合、こんな場合、どう行動をとるのが 「 良心的 」 なのかと、それこそあらゆるパターンを網羅して学ばねばなりません。 一生かけても間に合わないでしょう。


けれど、そんな事をしなくても、私達の誰もが 「 良心 」 を持っています。 良心に背くことをすれば、良心が痛みます。 そのこと自体、誰の心にも 「 神我 」 が宿っていることの証。 たとえ霊的価値観を頭では受け容れずに生きていても、「 神我 」 の光はその人の内に存在している、という事の表れなのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



真実の愛について ② 大我・小我とは

2008年05月09日 | 愛することの真理 Ⅰ 

前回の続きを書いてゆきます。


自分を肉体のみの存在と思えば、人は 「 死への恐怖 」 を抱かずにはおれません。 死とともになくなってしまうことを思うと、毎日が不安の連続。 魂の成長を促すために生じる病気も、ただの災難としか思えなくなります。


物質界だけがすべてだと思えば、「 失うことの恐れ 」 が生じます。 他人に少しでも分け与えることを惜しみ、今持てる物に執着し、奪われる事を恐れます。 そして、命ある間に少しでも多くの物質や快楽を得て、詐欺や駆け引きをしてまで他人を出し抜いて生きようとさえ考えるでしょう。


さらに、死を境にすべてが無になるという考え方は、「 悲観的人生観 」 をもたらします。この世で経験する苦しみも悲しみも、すべてが無意味。 人生など刹那的で、不幸なだけのものと思えてしまうのです。


物質的価値観は、このように、すべての 「 不幸 」 のもとと言っても過言ではありません。 そこから生じる 「 小我の愛 」 が、魂からの本当の幸せをもたらすものでないことも明らかです。


また、「 大我の愛 」 は、自分から他者、すべての人類、そして神へと、どんどん広がってゆく愛です。 「 ここまで 」 という限界の無い、捧げる愛、奉仕する愛です。


しかし、「 小我の愛 」 には広がりがありません。 ベクトルはむしろ逆。 自分だけ、自分の家族だけ、自分の国だけなど、「 ここまで 」 という限界を設けて、その内側だけを固守する愛、執着する愛です。 私達がこの世で 「 愛 」 に悩み苦しむのは、それが物質的価値観にもとづく 「 小我の愛 」 であるからにほかなりません。


「 大我の愛 」 であれば、喜びしかないのです。


「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 は、このように明確に分けられるものです。 しかし、だからと言って実際のところ、私達の行為を、これは 「 大我の愛 」 によるもの、あれは 「 小我の愛 」 によるもの、などと単純に分けられるものでもありません。 ある一つの行為や思い、それが百パーセント 「 大我の愛 」 、百パーセント 「 小我の愛 」 ということはありえないのです。


両者は、つねに混じり合って存在しています。


「 大我の愛 」 の中にも、わずかな心のゆるみがあれば 「 小我の愛 」 が顔を覗かせます。 また、「 小我の愛 」 の中にも、ふと、誰の魂の奥底にもある 「 大我の愛 」 が小さく光ることがあります。


では、その微細に織り交じる両者を見分けるポイントとは何でしょうか。 この答えは本文から、どうぞお読み取り下さい。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



真実の愛について ① 大我・小我とは

2008年05月04日 | 愛することの真理 Ⅰ 

江原啓之さん と 昌清霊さん ( まさきよれい。 江原さんの守護霊さんです。 御所を警護する武士でしたが、後に修験者となりました。 )による交霊記録より、一部抜粋させて頂きました。

御二人と関係者の皆さんに感謝致します。

ありがとうございます。



愛には、二つあります。



真実の愛 ( 大我の愛 ) と 偽の愛 ( 小我の愛 ) です。


大我の愛は、霊的視点による愛です。


小我の愛は、物質的視点による愛です。



「 大我の愛 」 は、私達の中にある、もっとも崇高な神の部分から出てくる愛です。



そして、霊的な価値観に立ってこそ発揮される愛です。 私達は皆、「 霊的存在 」 であるということ。 すべての他者と 「 類魂 ( るいこん ) 」 という霊的な絆で結ばれ、ひいては 「 神 」 とも一体であるということ。 このような 「 霊的真理 」、昌清霊の言葉でいう 「 叡智 ( えいち ) 」 を深く理解した魂からあふれ出るのが、「 大我の愛 」 なのです。



「 大我の愛 」 は、見返りを求めません。ひたすら与えることを喜びとします。 なぜなら、霊的視点では 「 自分と他人の区別は無いから 」 です。 私はあなたであり、あなたは私。 つまり、「 人類すべてが私 」 なのです。 人間だけではありません。 「 動物も草や木も石も、私 」 です。 究極的には、「 神 も 私 」 です。



つまり、昌清霊が語るところの 「 神我しんが
、=大我 」 が、私達すべての人間の中に宿っているのです。 私達の本質が魂である以上、「 大我の愛 」 は誰もが持っています。



「 しかし、肉体を持って生きている間は、物質的価値観の中で、それを見失いがちになるのです。」



その物質的価値観に縛られた愛が、「 小我の愛 」 です。 「 小我の愛 」 は、自分を他者から切り離された存在だと思うことにより生じる、本来の意味からは 「 誤った愛のかたち 」 です。


自らを 「 小我=肉体だけの存在 」 に過ぎないと思う物質的価値観で生きた時、人の心には、「 死への恐怖 」 と 「 失うことの恐れ 」、そして 「 悲観的人生観 」 という三つの不幸が生じます。



ということです。 お分かりになりましたでしょうか。


ここまで、私の文章も加えて記述致しました。




さらに詳しくお知りになりたい方は、


「スピリチュアルメッセージⅢ 愛することの真理  江原啓之 」
                          
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「スピリチュアルな人生に目覚めるために 心に人生の地図を持つ   江原啓之 」

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