2 あの世はすべて、感応( テレパシー )の世界。
思いの力で、自らの環境が創られる。
1-2-1 親しかった人達と別れた後の
一人ぼっちの「死後の旅路」は、
寂しくはありませんか。
幽世には、皆一人で来る。
しかし、現世で死後を孤独と思っていた者は、その思いを引きずるが( 幽現界 )、そうでない者には、孤独感は一切ない( 幽界 )。
なぜならば、霊的な見守りが常にあるからじゃ。 そばにずっと付き添っているわけではなくとも、感覚的にはそれがわかるはずじゃ。
ぬしらがよく言うところの 「 守護霊 」 と呼ばれる者たち皆が、見守りをしているわけであるから。
必要あらば、守護霊はその者のそばにも来て、言葉もかける。
自らの守護霊がどんな姿をしているか、今のぬしらにはわからないであろう。 だが、あったら分かる。 現世の時とは違い、幽世( 幽界 )では、どの者達も鮮やかに勘が優れているゆえ、感覚でわかる。
幽世には、ぬしらの使うような 「 言葉 」 もない。すべてが 「 感応 」 による世界じゃ。 瞬時に感応し、わかる。
もちろん肉体がないゆえ、声を発する声帯も持ち合わせてはおらぬ。 しかし、言葉として語ろうとすれば、言葉のようにも聞こえる。
それはすべて精神の感応、魂の感応なのじゃ。 感応によってわかる。
ぬしらの世界で言うところの 「 テレパシー 」 というものじゃ。 幽世は、感応( テレパシー )の世界なのじゃ。
つまり幽世では、「 会う 」 といっても、姿を見て会うこともあれば、姿を見ずに会うこともある。 このあたりは、ぬしらの感覚ではわかりにくい事であろう。
死に別れた家族や、かわいがっていたペットにも会える。
この場合も、会うという行為をとることもあれば、姿は見えないかたちで感応しあうということもある。
そして、会いたくない者には会うことがない。
お互いに相手を会いたい者と思ったときに、感応し合えるのじゃ。
あの世は感応(テレパシー)の世界。
いつも霊的な見守りがあり、本来孤独感は一切ない。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
1-1-4 自分が死んだことに気がつかずにいると、
私たちはどうなるのですか。
自らの死にいつまでも気づかず、覚醒を得ることができない魂は、気の毒にも現世( 幽現界 )をさまよい続ける。 ぬしらのよく申す「幽霊」がそれじゃ。
その魂たちが死を受け容( い )れ、覚醒するのは大変じゃ。
そのような者に一番多いのは、病死ではない。 病死であるならば、病んでいる間に死への心の準備も出来よう。
しかし、瞬時に死する者、事故死、他殺などを含め、いわば死への準備なく、突然に肉体から魂がはがされた者は、そのような錯乱に陥りやすいのじゃ。
だが、それらの者すべてではないぞ。 すべては魂の経験、認識による。
ただ、準備なく死した者には、そのような者が多い、ということなのじゃ。
それからもう一つ、たとえ病死であっても、さまよう者はある。
瞬時に死した者以外でさまようのは、みな 「 執着 」 ゆえじゃ。
いかような執着に阻( はば )まれて上に行けないか。 ある者は財産、ある者は子、ある者は夫、その他愛する者や、恨みゆえの執着もあろう。
「 未熟さ 」 が、さまようという現象を作り出すのじゃ。
先に言った、幽体が離れるときの 「 えも言われぬ喜び 」、それに対して、この執着の方が勝る者たち。 それはそれは多い。
ただですら、この現世の中でも強い執着に溺れて生きる者が多かろう。 死してその執着が消えるはずもない。 ぬしらはさまよう霊を特別視し、希少なる存在と思うやも知れぬが、そのような霊の方が実は多いのじゃ。
死んだからと言って、その性格が変わるはずもない。 生きていようが死していようが同じじゃ。 死んで、もし性格が一変するならば、それは本当の 「 死 」 じゃ。
しかし、肉体の死はあっても、魂の死はないのじゃ。
魂は永遠。 となれば、その思いも永遠なのじゃ。 性格そのままなのじゃ。
今、ぬしらは進歩しながら生きているが、肉体が死してからもそれは変わらず続いていく。 もし、その途中で人格が突然変わるであるならば、それは死と同じことじゃ。
だが、魂に死はない。
ただ、肉体より離れるだけのことじゃ。
肉体の死に気づかない魂は、覚醒できずさまよう。
この世への執着が強い未熟な魂も同じ。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
1-1-3 私たちが 「 あの世 」 へ行っても、
「 この世 」 での記憶は残っていますか。
幽世( 幽現界もしくは幽界 )に着いたばかりのころは、現世での記憶は鮮明じゃ。
幽世においては、魂以外の苦しみは、当然ながらない。 肉体がないゆえ、本来肉体の苦しみはない。
およその者にあるのは、魂の苦しさだけなのじゃ。
肉体的な苦しみを経て死した者、また、精神的な苦しみをより強く残した者で、その苦しみに対しあまりにも執着強き者は、それをいわば 「 脱色 」 する時が必要となる。
心の苦しみを、まず癒さねばならぬのじゃ。
「 脱色 」 を行わされるということは、どうゆうことか。
あるいっとき、休ませられるということじゃ。 ぬしら( あなたがた )の感覚でいえば、ある意味で眠っているような様子になる。 その中で一つ一つ、「 諦( あきら )める 」 作業を進めてゆくのじゃ。
そう、諦めるのじゃ。
未練、執着、苦しみ。 これらを解きほぐした後に、初めて目覚めがある。
なぜかといえば、死して肉体の苦しみがなくなっても、苦しい思い出にさらされる者もいるのじゃ。
長く患( わずら )った者は、思い込みの中で、今でも苦しいと信じておる。 死して肉体なき感覚に慣れていないのじゃ。 いまだに肉体のある思いで、患った場所が苦しいと思っておる。
そしてまた、さまざまなことがらに執着を持ち、さまよう者もいれば、さまよわずとも、その苦しみにまだあえいでいる者もいる。
それらの魂を、その思い出から断ち切るには、時間が掛かるのじゃ。
この現世の中では、時間というものが過ぎていけば、自らが執着していたものが消えていく。
しかし幽世には、時間がないのじゃ。 たとえ百年経( た )とうとも、幽世においては一瞬の思いじゃ。 ゆえ、「 脱色 」 は必要なのじゃ。
そして、「 脱色 」 が終わり、執着、苦しみから解放される。 目を覚ます。
最初から覚醒するものも、そうでない者も、覚醒した後はしばらく、感覚はこの現世のままじゃ。
むしろ現世よりも、身も心も軽やかじゃ。
あの世に着いてすぐは、この世の記憶は鮮明。
魂はしばらく休ませられ、執着や苦しみを解く。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
1-1-2 魂が肉体から離れた瞬間、
私たちはどんな感覚を味わい、
何を目にするのでしょうか。
魂が肉体を離れた時、人はまず、えも知れぬ喜びを得ることは確かじゃ。 そして、見えるものは全て新鮮、かつ鮮やかじゃ。
ただ、別の存在になるわけではない。
たとえば、ぬし( あなた )ならば、ぬしの身体から抜け出ただけじゃ。
先の話の続きになるが、およその者は、体を抜け出た後、外から自らの姿を見ることとなろう。
しかし、自らの姿を見ることのない者達も多数いる。
それはなぜか。
自らの魂というものを理解し、死後の世界を認識して死する者と、そうでない者とがいるからじゃ。
すべては、心が秤( はかり )じゃ。
いわば、死後の世界を認識せずに死んだ者、死んだ自らの姿を見て錯乱するであろう者は、自らの姿を見ることは出来ぬのじゃ。
肉体を抜け出た時に、その喜びを感じられる魂には、自らの姿を見、喜びを得てもらう。
そうではなく、死んだ自らの姿が、かえって混乱、錯乱を生むであろう者には、その喜びは与えぬ。 なぜならば、現世こそ全てと思うておる者は、その姿にうなずくことはできなかろうから。 混乱するであろうから。
全ては愛のうちに、思慮深く判断される。
多くの人は、魂が肉体を離れれば、
まず喜びを得、死んだ自らの姿を見る。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
第一章 死後の旅路
この世を去った魂は、どんな旅を続けるのか。
生死の境をさまよって、一命を取り止めた人達が、
さまざまな「臨死体験」を、世界中で報告しています。
まばゆい光のトンネルをくぐり抜けた。
お花畑を歩いてゆくと、川の向こう岸で、
死に別れた家族が手を振っていた。
一生のことが走馬灯のように思い出された――――など、など。
私たちがこの世を去ったら、
本当に、このような体験をするのでしょうか。
そして、臨死体験者たちが見た世界のさらに先には、
どんな世界が待っているのでしょうか。
1-1 死後の経験は十人十色。
死を受け容れていれば、望ましくことが運ぶ。
1-1-1 人は死んだ後、本当に臨死体験者の
報告例のような経験をするのですか。
死の直後の経験は、まさに人それぞれに違う。
およその者 ( ほとんどの者 ) は、まず死する瞬間は、闇、もしくは美しい光のなかに溶け込んで行くなり、筒を通り抜けるような感覚を得よう。
それが死する瞬間、いわば肉体から離れる時じゃ。それはある意味、この現世 ( この世 ) に生まれる時に似ている。
そしてそれを抜けきったとき、離れたという感覚になり、ある者は、覚醒し、みずからの死体を外から見ることになる。それが、一番望ましいかたちやもしれぬ。
そのような死に方のできる者は、およそ死というものを受け容れている者じゃ。 この現世にあるときから、死とはそのようなものと認識している者がそうなる。
そして、もはや体を持たぬ魂は、残してきた家族、友人などに、ひととおり挨拶してまわるのじゃ。
訪れられたほうの人間には、何かを感じる者もあろう。
しかし、まったくわからぬ者もあろう。
死後の経験は人それぞれ。
死というものを受け容れている人ほど、
望ましいかたちで進む。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
死することの真理 5
■魂の姿形について
死後のプロセスを、今度は魂の姿形という観点から見てみましょう。
現世を生きる私たちは、「 肉体 」 を持つと同時に、それと重なり合うようにして 「 幽体 」 「 霊体 」 を持っています。 これが人間の 「 霊的構成 」 です。
「 肉体 」 は、私たちが普通に見て使っている身体です。 これは、いわば 「 現界 ( 現世 )」 を生きる間の、魂の乗り物。 私たちが呼ぶ 「 死 」 は、この 「 肉体 」 を捨てるだけのことにすぎません。
死とともに 「 肉体 」 を捨てた後、私たちの姿は 「 幽体 」 となります。 幽霊と呼ばれる存在は 「 幽体 」 で現れているのです。 ですから 「 幽霊が出た!」 というのは、正式にいえば 「 幽体の姿の魂が出た!」 となります。
「 幽体 」 は、「 幽現界 」 と 「 幽界 」 にいる間に必要な、魂の乗り物です。
しかし魂は、やがていつか、自らの姿への執着をも捨てます。 そして 「 幽体 」 を脱ぎ捨てて、姿のない、光のみの 「 霊体 」 になります。 これがいわゆる 「 第二の死 」 と呼ばれるプロセスで、これにより魂は 「 幽界 」 から 「 霊界 」 へ移行するのです。
高級な魂ほど、姿ではなく光で見えるものですが、それは既に姿を脱ぎ捨てたためです。もっとも 「 霊界 」 の高級霊は、私たちの前に現れるときに、わかりやすいように 「 姿 」 をとることもできるそうです。
■ 「 大御霊達 ( おおみたまどち )」 について
昌清霊の通信には、「 大御霊達 ( おおみたまどち )」 という言葉がたびたび出てきます。
これは、西洋の霊訓でいうところの 「 大霊 ( たいれい )」 「 神霊 ( しんれい )」 と呼ばれるものであり、それらは 「 神 」 と総称されることもあります。
本書で昌清霊は、「 大御霊達 」 と並んで、私たちになじみやすいように 「 神 」 という表現を使っているところもあります。 もちろん特定の宗教の神を指しているわけではありません。
「 大御霊達 」 は、ひらたく言えば、「 幽世 」 の高級な魂たち――――このようにとらえていただければと思います。
私からの説明は以上です。 ここから先は、どうぞ昌清霊の ” 声 ” に静かに耳を傾けてください。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
死することの真理 4
「 幽界 」 のなかにもさまざまな層があります。 その魂の人格が高いほど高い層へ、低いほど低い層へ行くことになります。 よく 「 天国 」、「 地獄 」 といいますが、実際にそうゆう場所があるわけではありません。 どうやら 「 幽界 」 のなかでも高い部分が 「 天国 」、低い部分が 「 地獄 」 といわれていることが多いようです。
しかし魂は、その後、この 「 幽界 」 をも離れて、「 霊界 」 へと旅立ちます。 そしてやがて、みずからの魂のふるさとである 「 類魂 ( るいこん )」 に帰結します。( 「 類魂 」 については、『 スピリチュアルメッセージ~生きることの真理 』 で解説しておりますので、ご参照下さい。)
修験者の補足 : 類魂とは、自分自身の魂と全く同じ性格で、自分の分身のような魂たちの集まりのことです。
「 類魂 」 は、やがてさらなる向上を望み、その一部を分けて再び 「 現界 」 へ送り、あらたな人生の中で魂を磨きます。 このプロセスは 「 分霊 ( ぶんれい )、分け御霊 ( わけみたま )」 とか、「 再生 」と呼ばれます。
心霊研究によると、こうして私たちの魂は、何度も何度も再生を繰り返しながら磨かれてゆき、やがて 「 神界 」 へ移行するとされています。
以上が死後のあらましです。 昌清霊の通信にある 「 幽世 」 にも、「 幽現界 」 「 幽界 」 「 霊界 」 「 神界 」 の区分があるということが、お分かり頂けたと思います。
本書では、特に第一章によく出てくる 「 幽世 」 という言葉が、「 幽世 」 のなかでも特定の層を指している場合は、「 幽界 ( 幽現界 )」 「 幽世 ( 霊界 )」 という風に、カッコ内に説明を入れておきました。 同じ流れの中でくり返し 「 幽世 」 が出てくるときは、初出の 「 幽世 」 にのみつけました。
何もカッコ書きのない 「 幽世 」 は、これら ( 死後の世界 ) 全般を指していると思ってください。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
死することの真理 3
■死後、魂がたどる道
昌清霊が 「 現世 ( うつしよ ) 」 と呼ぶのは、私たちが今生きているこの世界、「 この世 」 です。これは 「 現世 」 という読み方で、一般にも良く使われています。
心霊研究では、これを 「 現界 ( げんかい ) 」 と読んでいます。
これに対して、昌清霊の通信に出てくる 「 幽世 ( かくりよ ) 」 とは何かというと、死後の世界、つまり「あの世」のことです。 この中にはさらに、「 幽現界 ( ゆうげんかい ) 」 「 幽界 ( ゆうかい ) 」 「 霊界 ( れいかい ) 」 「 神界 ( しんかい ) 」 という、大まかに四つの世界が含まれます。
これを順番に見てゆきましょう。
人が死すると、魂はこの 「 現界 」 を離れて、まず 「 幽世 」 のなかの 「 幽現界 」 へ行きます。 「 幽現界 」 は、そのあと行くことになる 「 幽界 」 と 「 現界 」 とが、重なり合ったところです。 人が死者を見送るときに、よく 「 四十九日までは、まだこの世にいる 」 と言われますが、それはこの 「 幽現界 」 にいるということなのです。「 現界 」 に執着を持つ魂、いわゆる幽霊が彷徨( さまよ )っているのもこの世界です。
昌清霊は、この 「 幽現界 」 から先すべてを 「 幽世 」 と呼んでいます。
そのあと、いよいよ、魂は 「 幽世 」 へ旅立ちます。 ここから先こそが、本格的な死後の世界だと言っても良いかもしれません。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
本書を読まれる前に
本書の内容について
本書は、江原啓之氏とその指導霊 ( ガイドスピリット ) である昌清霊 ( まさきよれい ) との交霊会の記録をまとめたものです。 指導霊とは、皆さんがよくご存知の守護霊の中のひとりです。
昌清霊は、戦国の世に生き、もともと京都御所護衛の職にある武士で、後に出家をし、修験道の行を積み、加持(かじ)による治療に長けていた人でした。
江原氏と昌清霊による交霊は、約20年前から始まり、その間約2年の期間を除いて、現在まで数多く行われています。
交霊会では、まず参加者全員で 「 聖フランチェスコの祈り 」 を唱え、しばらくの間、精神統一をしてから、江原氏を通して語られる昌清霊の言葉を待ちます。 交霊後、それぞれの参加者の質問に対して、江原氏を通して昌清霊の言葉が語られてゆきます。
本書の言葉の使用法について
実際に江原氏を通して語られる言葉のなかには、今では使われなくなったものが混じっています。 明らかに意味が伝わりにくいものについては、現代の言葉に置き換えましたが、読んで意味がわかるものについてはそのままにしました。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。
今度は、死後の世界の研究として、江原啓之さんの本 『 スピリチュアルメッセージⅡ 死することの真理 』 を読んで行きたいと思います。
はじめに―――「 死後の世界 」 について
■「幽世」とは何か
本文をお読みいただく前に、昌清霊 ( まさきよれい ) に代わって私から、この本のメインテーマである死後の世界のあらましについて、少しだけ説明させていただきます。
昌清霊の通信では、死後の世界を表すのに、読者の方々にはおそらくあまり耳慣れない 「 幽世 ( かくりよ )」 という言葉が使われています。
死後の世界は、実は幾重もの層からできているのですが、通信ではその全てが 「 幽世 」 と総称されているのです。
しかし 「幽世 」 の姿を理解されていない方にとって、本書は、ある程度の予備知識がなくては非常に読みにくいですし、「 幽世 」 について上の層も下の層も混同したまま読まれることになりかねません。 そこで、私から前もって、死後に私たちがたどる道筋を説明させていただきながら、「 幽世 」 の大まかな区分、構造をここに記すことにいたしました。
昌清霊による霊訓と、長年にわたる心霊研究を照らし合わせた上での私の説明により、本文をより深く、ご理解いただけるのではないかと思います。
つづく。
『 スピリチュアルメッセージⅡ / 江原啓之著 』 より。