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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

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応用篇 6 博愛編 7

2008年06月02日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 6 博愛編 7


質問者。


私たちを見守ってくださる霊的存在に対して、どう感謝したらいいのでしょうか。



江原啓之。


大霊(神)は自分自身です。 ですから、まず大事なのは自分を愛すること。 そして、すべての人が大霊( 神 )ですから、他人も愛することです。


もう一つ大事なのは、霊的に成長する事です。


すべては類魂である、という霊的真理の完全な理解に、たとえ一歩ずつでも近づいてゆくことが、大霊( 神 )の大きな愛に、少しずつでも報いてゆくことになります。


自分を愛し、すべての他人を愛し、霊的に成長する――。 未熟な私たちにはそれ自体が大変なことですが、しかし、本当に大事なのはそこから先です。


一人ひとりが 「 責任主体 」 となって、世の中を変えてゆく手伝いをすることこそが、大事なことなのです。


「 魂の乱世 」 である今の時代。 それはまさに急務です。 物質主義的価値観を霊的価値観へ変えてゆくことによってしか、本当の意味での個人の幸せも、世界の平和も訪れません。


すべての人が、何か出来るはずなのです。 私たちは、みな大霊の一部であり、神がつくった 「 平和の道具 」 であるからです。 「 救世主 」 なる人物の出現を待ってみても、永久に現れはしません。 救世主は私たち一人ひとりです。


本書などにより、霊的真理、すなわち 「 愛 」 を理解することは、私たちが「平和の道具」として働くための、大切な準備の一つなのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 6

2008年06月02日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 6 博愛編 6


質問者。


亡くなった人への思いは、届くものでしょうか。


また、自分の死後、あの世から家族に愛を伝えることはできますか。



江原啓之。


自分がいるこの世から、亡くなった人へ思いを送ることはできます。 肉体を脱ぎ捨てた霊魂は、生きている私たちの念をもすべて感知できる状態になりますから、こちらが思ったことはすべて受け取っています。 だからこそ、供養は大事なのです。 それも、お金をかけての供養ではなく、心からの思いを込めた供養でなければ意味がありません。


自分の死後、生きている遺族に思いを送ることも可能です。 ただし、人間のほうは鈍い肉体にこもっていますから、伝わり方は間接的になります。


あの世に帰った魂と、この世の人間との意思疎通は、心霊研究の歴史の中で、さまざまな形で証明されています。 臨死体験者による数多くの証言もあります。 将来、より明らかな形で証明される時代が来るでしょう。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 5

2008年06月01日 | 愛することの真理 Ⅱ 
応用篇 6 博愛編 5


質問者。


愛の視点から、地球を大事にすること、環境問題への対処法を教えて下さい。



江原啓之。


地球上に存在する鉱物、植物、動物は、すべて霊性進化の途上にあります。 ( 『 スピリチュアルメッセージⅠ~生きることの真理 』 参照。) そのどれもが、「 神我 」 を持つ人霊への進化を目指して向上している存在なのです。


それらすべてが、広い意味での類魂です。 私たちが鉱物から元気をもらうのも、植物や動物と接していて癒されるのも、みな類魂だからです。


中でも動物は、最も人霊に近い存在です。 ただし人間と違い 「 大我=神我 」 がありません。 動物には自己保存の小我しかないのです。 しかし大我を持つ私たち人間と接すれば接するほど、大我に近い小我へと変化し、動物としての転生をくり返すうちに、やがて大我を宿す人間として生まれてくるようになります。 人間が動物を飼ったり育てたりするのは、彼らの霊性の進化を手伝うボランティアのような行為なのです。


地球の未来、環境問題を考えるときには、このような広い意味での類魂という視点が欠かせません。 すべてが類魂だとわかれば、森林伐採も、環境汚染も、自殺行為に近いことだとわかります。 私たちは、無智と無関心の中で進めている、大規模な自殺行為を自覚するべきです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 4

2008年06月01日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 6 博愛編 4


質問者。


遠い国で、戦争や貧困などに苦しんでいる人たちが大勢います。


その人たちに対して、私たちに出来ることは何でしょうか。



江原啓之。


遠く離れたところからでも誰でも出来ることは、当然ながら 「 物質面での支援 」、そして 「 祈り 」 です。


食料や物資を送る、お金を寄付するといった具体的な策は、確かに大切です。 しかし、それた物質的なことだけを重視するのもまた、物質主義的価値観と言えます。 もし、そうしたことだけが彼らに対する愛だとしたら、寝たきりの人は、何も出来ない事になってしまいます。 大切なのは、具体的な物量をどれだけ与えたかではなく、どれだけの愛を込め、祈りの思いを送ったか、なのです。


祈りは大切です。 祈ることは寝たきりの人にも出来ます。 祈りの力、人間の念の力をおろそかにしてはいけません。 世界の数十億の人たちが一度に同じ思いで祈りを捧げたなら、それがどれだけ大きな力を発揮するかは、計り知れません。


ところで、世の中には重い障害や意識のない状態ゆえに、祈る行為さえ出来ない人たちもいます。 しかし彼等は、その存在自体が十分 「 祈り 」 になっています。 彼等が生きているのは、表面の意識状態はどうあれ、奥底にある魂が必死に生きようと働いていることの表れです。 そうした懸命さが、周囲にも勇気を与えていること自体、貴( とうと )い祈りに匹敵するのです。


もう一つ、ぜひ行っていただきたいとても大事なことがあります。


それは「霊的視点を伝えること」です。


「 物質面での支援 」 と 「 祈り 」 だけでは、相手の魂までは変りません。 「 霊的真理 」 という贈り物こそが、人間の価値観を大きく変え、魂からの平和と幸せをもたらすことができるのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 3

2008年05月31日 | 愛することの真理 Ⅱ 
応用篇 6 博愛編 3


質問者。


違う宗教、違う 「 神 」 を信じるもの同士が、平和を分かち合うことができるのでしょうか。



江原啓之。


すべての人が、一つの同じ真理に目を向ければ、お互いを理解しあうことは簡単です。 たとえ宗教的価値観が違っていても、そのもとはまったく同じ霊的真理だということが分かっていれば、そして、人として尊重し合う気持ちがあれば、悲惨な宗教戦争は食い止めてゆけるはずなのです。


しかし、異なる宗教観、世界観を持つ者同士が、それぞれに自分たちのそれを唯一正しいものとして固執した状態では、今の世界情勢を見てもわかるように、理解し合うことは難しいでしょう。


さらに大きな問題は、宗教の中に人間が混在させている物質主義的価値観です。 「 神 」 を語る人の視点が結局、物質主義的価値観にあったときに、重大な間違いが起こります。


どの宗教も、本来の霊的価値観のみから成立している状態であれば、魂のあり方しか問題にはしないはずです。 しかし 「 神の教を広める 」 という大義名分のもとに、一人でも多くの信者、少しでも多くの領土を得ようとしているのが、現実の宗教の姿ではないでしょうか。 分量を多くすることを望むのも、物質的価値観の表れなのです。


昌清霊は、くり返し語っています。 現世においては、傲慢という影をどんなになくそうとしてもなくならない。 そして、少しでも隙があれば、大きくなってしまうと。 「 神 」 「 真理 」 を語る宗教も同じ。 物質的価値観が混入しているからこそ、「 神 」 が肯定するはずのない、戦争まで起きてしまうのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 2

2008年05月31日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 6 博愛編 2


質問者。


戦争や差別がなくならないのはなぜですか。



江原啓之。


戦争がいけないことだというのは、子供でもわかることです。 ではなぜ大人になると、戦争を正当化するようなことを、語りだす人が出てくるのでしょうか。


それは結局、この物質界をすべてとする 「 現世至上主義 」 が原因です。 人間の本質は霊的存在であり、すべての人は類魂であるという「霊的価値観」からは、戦争は起きません。 「 現世至上主義 」 ゆえにこそ、人は「物質主義的価値観」に陥り、領土や資源や人命の奪い合いに血道を上げてしまうのです。


「 現世至上主義 」 のもとでは、人は 「 小我の愛 」 に走ります。 わが国、わが民族、わが宗教は愛するけれど、それ以外は無関心。 そして自分のいる側と少しでも利害が対立すれば、他を否定し、憎しみを持ちます。


しかし、霊的価値観では、国や民族、宗教が違う同士であっても、すべては同じ類魂です。 類魂である以上、人が人を裁くことはできません。 戦争につきものの「やられたらやり返す」という考えは、野蛮そのもので、何の解決にもならないのです。


戦争を平気で正当化する人は、戦争はいけないことだと本心から思っていません。 差別にしても同じです。


人間は、それほど無智で無関心なのです。 すべての人が霊的真理をしっかりと理解していれば、戦争も差別も起きようがありません。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 6 博愛編 1

2008年05月30日 | 愛することの真理 Ⅱ 
応用篇 6 博愛編 1


質問者。


どうすれば愛に満ちた平和な世界になりますか。


今この場で、私たち一人ひとりに出来ることは何ですか。



江原啓之。


平和に寄与する行動をとること、平和を祈ることは大事なことです。


しかし、身近なところに目を向けることも、とても大切です。 自分の家庭、職場、友人関係、そして自分の心の状態――。 これらすべてに平和のない人が、いきなり大きな平和を願うのは矛盾しています。 一人ひとりの平和こそが、世界平和の基盤なのですから。


家庭の平和も、世界の平和も、「 類魂を理解すること 」 によって真に実現します。 相手は自分であり、自分は相手である。 相手を愛することは、自分を愛すること。 相手を傷つけることは、自分を傷つけること。 霊的価値観によりそれが理解できたとき、おのずと平和は訪れます。


別の言い方をすれば、霊的価値観によってしか、本当の平和は訪れないのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 1 基本編 4

2008年05月30日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 1 基本編 4


質問者。


第三章で昌清霊は、愛の正反対は 「 無智 」( =霊的真理を知らないこと。)だとおっしゃっていますが、「 憎しみ 」 も愛の反対語ではないのでしょうか。



江原啓之。


「愛憎」という言葉があるように、前世ではよく愛と憎しみが一対の言葉として扱われています。 しかし、憎しみという感情の中には、本人が意識している、していないにかかわらず、実はまだ愛が存在しています。 もちろんその愛は、究極の愛とはほど遠い 「 小我の愛 」 なのですが。


したがって、究極の愛に近づくまでの中途段階として、憎しみは、無関心や無視よりはずっと希望があるものと言えます。


それにほとんどの場合、憎しみという感情は、相手が本当に嫌いというよりも、「 相手に自分をわかってほしい 」 という孤独感からきています。 その孤独感も、類魂を真に理解することで消えていくものです。


昌清霊は第三章で 「 無智 」 と 「 無関心 」 は似ていると語っています。 マザー・テレサの言葉にも 「 愛の反対語は憎しみではない、無関心です 」 というものがあります。


他人に対して無関心な人は、自分自身にも無関心です。 それゆえ他人を愛せない人は、自分自身をも真の意味で愛することが出来ません。


結果、その人は孤独になります。


つまり孤独こそ、「 無智 」 と 「 無関心 」 の産物であり、真の愛から遠いところにあるものなのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 1 基本編 3

2008年05月29日 | 愛することの真理 Ⅱ 
応用篇 1 基本編 3


質問者。


「 感謝の気持ち 」 もまた、愛とよく似ているように思えるのですが。



江原啓之。


「 感謝 」 とは、愛や類魂というものを深く理解したときに、自然と湧いてくる感情です。 なぜなら、類魂を理解すると不安や孤独感がなくなるからです。


人が不安や孤独を感じるのは、自分を小我だけの存在だと思い込んでいるときです。 しかし、自分は大我の一部であり、大我の愛の中で生きているのだという霊的真理に目覚めたとき、それらの感情はなくなるはずです。


霊的真理の視点では、感謝と、不安と孤独とは、対極にあるものなのです。


ちなみにこの場合の孤独は、物質的な孤独ではなく、あくまでも心の孤独、魂の孤独です。 現世で多くの人に囲まれ、にぎやかに生きていても、その人が霊的真理を理解していなければ、人生のさまざまな場面で、拭( ぬぐ )いようのない孤独感に苛(さいな)まれるでしょう。


反対に、現世での境遇が、見た目には孤独であっても、その人が霊的真理を理解し、感謝の心を持って生きていれば、その人の魂は決して孤独ではありません。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 1 基本編 2

2008年05月26日 | 愛することの真理 Ⅱ 

応用篇 1 基本編 2


質問者。


自分は 「 愛 」 のつもりでも、相手には 「 憐れみ 」 や 「 同情 」 と受け取られることがあります。


この両者の違いは何ですか。



江原啓之。


「愛」は、神としての自分、つまり自らの 「 神我 」 の反応です。


これに対し 「 憐れみ 」 と 「 同情 」 は、本当の 「 愛 」 に至るまでの過程にある感情です。 「 愛 」 と同様、相手のことを思いやってはいるのですが、イコールで結ぶことはできません。


このうちの 「 憐れみ 」 には、相手を思いやりながらも、みずからは高みに立って見ているようなところがあります。


「同情」は、相手の悲しさにみずからの中の 「 神の心 」 が痛んで、そっと手を差し伸べたくなること。 相手の気持ちを自分のことのように思い味わっているわけですから、「 憐れみ 」 よりは 「 愛 」 に近いと言えます。 ただし、それは人間としての人情、情けと呼ぶべき段階のものであり、類魂を理解した上での究極の 「 愛 」 にはまだ遠いのです。


「同情」にはまた、相手も気持ちそのものを味わっているというよりは、自分自身の中にある、相手と同じ経験やトラウマが反応して生じている場合もよくあります。 したがって、「 神我 」 の反応である 「 愛 」 よりは鈍いものと言えるのです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



応用篇 1 基本編 1

2008年05月22日 | 愛することの真理 Ⅱ 
応用篇 1 基本編 1


質問者。


他人を自分と同じように、あるいは自分以上に愛するには、どうすればいいのですか。



江原啓之。


「 類魂の法則( グループ・ソウルの法則 ) 」 を理解すればいいのです。


「 すべての魂は、究極的には一つのまとまりである 」 というこの法則を真に理解したとき、肉体は別であっても、他人はすべて自分自身であり、同時に神であるということがわかります。 そうなれば、一見、自分と切り離されて見える他人を自分と同等以上に愛することが、当たり前のこととしてできるようになるでしょう。 これこそが究極の愛の形で、イエスや聖フランチェスコ、そしてマザー・テレサが生きた道です。


愛というテーマを考えるとき、すべての問いと答えの核心は以上に尽きると言っても過言ではありません。 愛を理解するとは、類魂を理解することとイコールなのです。


愛を本当に理解するためには、経験と感動を数多く積むしか道はありません。 昌清霊も 「 小我の愛 」 という道程( みちのり )を経てこそ 「 大我の愛 」 に至ることができると、本編の随所で語っています。


相手への思いやりも、類魂の理解と、自分自身の経験と感動から生まれます。 「 自分がつらい経験をすると、他人の心の痛みがわかる 」 と言われるように、人間と言うのはどんなに頭で理解していても、その裏付けとなるさまざまな経験を味わっていないうちは、究極の愛にたどり着くことは難しいのです。


もちろん、あらかじめ類魂を 「 頭で知っておくこと 」 は無駄にはなりません。 類魂を魂から理解できるような経験をしたときに、「 ああ、このことだったのか 」 とすぐさま気づき、魂に速やかに浸透させることができるからです。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )