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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第三章  叡智に至る道  2-5

2008年06月13日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  2-5


質問者。


漠然と考えごとをするだけの 「 内観 ( ないかん )」 には意味がなく、どういう視点で自分の 「 内 」 を 「 観 」 るか、これが大切だということですね。



昌清霊。


さようじゃ。 内観とは、ただうつろに考えることではないのじゃ。 ただ座禅することでもない。


では、内観とは何か。 それは、みずからの小我に対し、つねに厳しく管理することなのじゃ。 みずからの魂のあり方をしかと管理することであるのじゃ。 それが内観にござる。


みずからが選ぶすべての道、すべての判断、それらをしかと魂の目、大我の目で見据えて判断することが内観なのじゃ。 内観の 「 内 」 とは、どこを 「 観 」 ることか。 みずからの神我より、みずからの小我、影を観るのじゃ。


たとえば、ぬしらが日々放っている言霊( ことだま )。 言霊というものは、実に恐ろしいのじゃ。 みずからの中が表れてしまうのじゃ。


その言霊を、では表さぬように注意すればよいか。 いや違う。 出でた言霊をすべて流してはいかんのじゃ。 みずからの口から出た言霊に誤りがあれば、徹底してその言霊がなぜ表れたかを知らねば成長なく、これぞ内観と言うのじゃ。


――――――――――――――――――――――


「 内観 」 とは、自分自身の行いや判断を一つひとつ大我の目で見つめ、誤ちの原因を厳しく解明してゆくこと。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-4

2008年06月13日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第三章  叡智に至る道  2-4


質問者。


自分の行いの 「
動機 」 が、大我か小我かを見つめ直すために 「 内観 (ないかん)」 することは、私たちの成長を促すのではないでしょうか。



昌清霊。


言葉の上では、確かにぬしの申すとおり。


しかし、それには前提がある。 その前提とは、大我とは何か、小我とは何かを、しかと定義できているということじゃ。


大我、小我、内観と、言葉だけで語ってみても、その大我がいかなるものか、小我とはいかなるものかをしかと心得ていなければ、ただ言葉遊びに時間を費やすだけなのじゃ。


厳しいようであるが、しかし、それが学びなのじゃ。


まず、大我、小我とは何かをしかと学ばねば、内観もできぬ。 なぜならば、照らし合わす大我も小我もなくて、内観はできぬからじゃ。


内観して葛藤することが、ただ正しいか。 いや、わからずして葛藤しているなら、わからぬとまったく同じなのじゃ。


中途半端な理解であれば、まったく理解をせぬ者と同じ、ということなのじゃ。 理解をしているということ、していないということで分ければ、同じこととなってしまうのじゃ。


実に酷( むご )いと思われるやもしれぬが、それが真実なのじゃ。


――――――――――――――――――――――


大我、小我の定義を正しく理解していなければ、自分の行いの 「 動機 」 を内観しても何の成長ももたらさない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-3

2008年06月12日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第三章  叡智に至る道  2-3


質問者。


行いの 「 動機 」 が、小我によるならば、いくら言葉で 「 愛 」 を語ろうとも、必ずそれが結果に表れるということですね。



昌清霊。


さようじゃ。


人は影と同じく、傲慢( ごうまん )を持っている。 その傲慢とは小我であり、どのように大我に満たされていると思うても、小我はあるのじゃ。


となれば、大我の中にも小我はちょこちょこと顔を出す。 そしてつねに、小我との戦いとなるのじゃ。


しかし、小我は必ず結果として表れる。 大我が基本であっても、さまざまな問題が起きるのは、その中に一点でも小我があるからじゃ。 これはやむをえぬことじゃ。


――――――――――――――――――――――


大我から行っているつもりの行為でも、その 「
動機 」 に一点でも小我が混じれば、必ずその一点が結果に表れる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-2

2008年06月12日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  2-2


質問者。


「 無償の愛 」 の本質とは何ですか。 ある種の自己満足ではないかと考える人もいるようですが。



昌清霊。


神我より出る愛、すなわち 「 大我の愛 」 と、「 小我の愛 」。 この二つをつねに考えねばならぬ。 ただの言葉に振り回されては真理、いわばまことが見えぬ。


ぬしの申す 「 無償の愛 」。 これは言葉じゃ。 本( もと )つ 「 動機 」 がすべてなのじゃ。 言葉でいかように語ろうとも、すべての判断は 「 動機 」 なのじゃ。 「 無償の愛 」 が自己の満足となるならば、それは、その本つ力が小我より出るものであったということの結果なのじゃ。 大我より出る 「 無償の愛 」 であるならば、自己満足ということはありえぬのじゃ。


ということは、「 無償の愛 」 すなわち自己満足と、一概に言うこと自体がおかしい。 すべては、魂の 「 動機 」 如何( いかん )にござる。


しかし、この現世においては 「 無償の愛 」 という言葉が力を持ってしまうゆえ、その本質である魂の 「 動機 」 が見えぬのじゃ。


大我より出る 「 無償の愛 」 は、神我である。 これがまことの愛じゃ。 さらど現世においては、どのように大我をふくらませたところで、しょせん小我が混じるのじゃ。


ゆえ、大我、小我がどれだけの割合にあるかということが、「 無償の愛 」 と呼べるのか、はたまた自己満足という結果となるのかの、分かれ道となる。


また、もう一つ、その結果を判断するには、すべては 「 動機 」 如何にござる。 どのように言葉をたくみに操ろうとも、その行動が伴っていなければ、大我と語ろうとも、結果は小我にござる。


――――――――――――――――――――――


「無償の愛」は、言葉ではなく、「 動機 」 こそが本質。 大我を伴わない美辞麗句ならば、自己満足に過ぎない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-1

2008年06月11日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第三章  叡智に至る道  2-1



人の行いの価値は、表面では判断できない。

その 「 動機 」 が、大我か小我かで決まる。



質問者。


具体的な 「 行動 」 をとることと、心に 「 思い 」 を持ち続けること、どちらが真実の愛への近道でしょうか。



昌清霊。


残念ながら近道はない。 そのどちらの道も同じじゃ。


なぜならば、魂の働きは目に映ることばかりではない。 一番大切なのは、本( もと )つ魂の思い、力なのじゃ。


または 「 動機 」 なのじゃ。


もちろん、目に見える行動を起こすことは、尊重されるべきことではあるが、しかしそう断言もできぬ。 なぜならば、これまた行動を起こすということが、正しいか否かは、時と場合にもよるであろうから。


そして、その行動をとることが正しいか否かの判断もまた、それが大我から出る行動か、小我より出る行動なのか。 これにより分かれるわけじゃ。


大我より出る行動であるならば、その行動は正しく、小我より出る行動であるならば、その行動は間違いであるとなる。


また、「 思い 」 ――― 「 思い 」 もまた行動であるのだが ――― のみであっても、思いのみで行動をとらぬ理由が小我のみによるものであるならば、これは間違い。 大我より出る理由による、「 思い 」 のみということであれば、それは、思うという力のほうが正しい。 つまり、行動をとらぬことが正しいということにもなる。


目に映ることは、実に頼りないことなのじゃ。 すべて基本となるは、大我より出る思いであるか否かということなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


どのような愛の行動や思いも、その 「 動機 」 が、大我によるか小我によるかによって、意味も結果も違う。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-6

2008年06月10日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章   愛とは何か   5-6


質問者。


頭では 「 霊的真理=大我 」 を理解したつもりでも、現実には同じ過ちをくり返してしまうのは、自分の中の小我が、まだまだ勝っているということですか。



昌清霊。


さようじゃ。 また、それだけ小我を理解するのは難しいということじゃ。


みずからの小我をまこと気がつけば、小我を捨てていくはずじゃ。 解き放つはずなのじゃ。


学びの道も光と影。


大我を知る上では、大我、大我とかざすも一つの道じゃ。 大我を深める、関心を深めることも大切じゃ。


がしかし、小我を小我と自覚することは、なお大切なのじゃ。


まこと自覚していれば、小我を脱却していくはず。 しかし、「 わかったわかった、理解した 」 と言いつつも、小我から離れられぬのは、わかっておらぬ証( あかし )だということじゃ。


すべてを理解できたかできないかは、何により判断できるか。


それは行動にござる。


行動のほか何もないのじゃ。


大我、大我と目指すだけでなく、みずからの小我を、まず自覚すること。


いつとて光と影。 両道でもって、探ってゆかねばならぬのじゃ。


――――――――――――――――――――――


霊的真理にかなう生き方を目指すことは大切だが、自分の中の小我を見つめ、深く自覚することこそ出発点。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-5

2008年06月10日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   5-5


質問者。


ものごとの表面だけを見て、判断しない姿勢も、魂の成長の一つの証( あかし )だということですか。



昌清霊。


さよう。 それが成長であり、そこに感性が表れるのじゃ。


魂がどこまで成長しているか、それを感性というものが表すこととなるのじゃ。


この現世には、小我を乗り越えるさまざまな学びがある。


その対応の仕方、対処の仕方を見ていれば、その者の魂がどれだけ輝き、理解しているかが一目瞭然( いちもくりょうぜん )なのじゃ。


――――――――――――――――――――――


経験により多くを学んだ魂の成長度は、物事への対処法、判断力などの感性として表れる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-4

2008年06月10日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   5-4


質問者。


「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 を区別するのは、本当に難しいです。 どのようにすれば見分けられますか。



昌清霊。


小我、大我は紙一重。 光と闇とが交叉( こうさ )するごとく、大我がときに小我へ変わり、小我がときに大我を持つ。 その大我、小我、光と闇をはっきりと見分けられるかどうかで、魂の成長の度合いを測ることができよう。


魂が幼き者ほど、大我、小我の明暗がはっきりしている部分しかわからぬ。 微妙な小我、大我の交叉は見えぬのじゃ。


たとえば、殺すはいかん、親切はいい。 これ、実に大雑把( おおざっぱ )な光と闇。 このように明暗のはっきりと表れることは、幼き魂でもわかることじゃ。


殺すは、相手が痛かろう、苦しかろう。 相手の人生を閉じることは、干渉しすぎるいけない行為であろう。 相手への親切は、相手が気持ちよく喜んでくれる事だからいい。


これは実に大雑把な光と闇であり、誰でも理解できるのじゃ。


幼き魂であればあるほどに、そのようなはっきりとした色合いのみに反応するのじゃ。 されど、高き魂に進んだ者は、微細な光と闇を感知することができるのじゃ。


細かな光と闇を見分ける感性を持つ。 これは、魂の成長に委(ゆだ)ねるほかない。


――――――――――――――――――――――


小我と大我は、光と闇のように微細に交叉しており、違いを見分ける感性は、魂の成長に従い身につく。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-3

2008年06月09日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   5-3


質問者。


「 小我である肉体 」 を持って生きる私たちが、「 大我の愛 」 で他人を愛するとは、どのように愛することですか。



昌清霊。


まことの愛は、みずからを思わず、相手のみをただひたすらに愛することにある。


これをまた間違ってとる者は、相手の奴隷になることと聞くであろう。 そうではないのじゃ。 なぜならば、相手の奴隷になれば、それは相手の物質欲、すなわち小我を、ただただ依存させるだけになってしまうであろう。


みずからが、ひたすらに愛するということは、相手の闇、小我をも愛すわけじゃ。 であるゆえ、相手の小我の欲求を受け容れてはいかんのじゃ。 愛するゆえに、受け容れてはならぬのじゃ。


または、相手をひたすら愛するゆえに、みずからの我欲をもってしてはならぬのじゃ。


しかし、そこに小我が加われば、相手のため、相手のためと、最後のとどめまで「 愛 」 という名をかざした小我が、むくむくと顔を持ち上げて、障害をもたらしてしまうのじゃ。


――――――――――――――――――――――


大我の愛とは、相手のすべてをひたすら愛すること。 ただし、隷従して相手を依存させる事ではない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-2

2008年06月09日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章   愛とは何か   5-2


質問者。


相手への 「 愛 」 と 「 憎しみ 」 の間を行ったり来たりする感情を、「 本当の愛 」 をよんでいいのでしょうか。



昌清霊。


ぬしの言う 「 愛 」 と 「 憎しみ 」 は、同じじゃ。


どう同じか。 実は、どちらも 「 憎しみ 」 なのじゃ。


憎しみを伴う愛は小我であり、小我以外の何者でもない。 それに、ぬしはただ 「 愛 」 という言葉を借りているだけじゃ。


愛をまねているだけであり、まことの愛でない 「 愛もどき 」 であるということじゃ。 愛の仮面をかぶった小我、我欲、憎しみであるのじゃ。 憎しみを伴う愛は、偽りであり、愛ではない。


現世の者たちは、よく 「 愛が途中から憎しみに変った 」 などと申す。 だがそれは、はじめから 「 愛 」 ではないのじゃ。 愛もどき、偽りじゃ。 まことの愛は、はじめから終わりまで憎まぬもの。


ときに、さまざまな苦難を経て、愛もどきが愛へ変ることもある。 しかし、それは憎しみから愛へ変わっただけ。


「 愛がより深い愛に変わった 」 と言うなら、それは言葉のみの美辞麗句じゃ。 正確には、「 憎しみが愛に変わった 」 「 小我が大我に変わった 」 と言うべきじゃ。


――――――――――――――――――――――


憎しみに変る愛は、愛の仮面をかぶった欲にすぎないが、憎しみが苦難を経て 「 真の愛 」 に変ることはある。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   5-1

2008年06月08日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章   愛とは何か   5-1



「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 は、表裏一体なもの。 この世では、「 双方のバランスをとるこ
と 」 が大切。



質問者。


同じ相手に対しても、そのときによって、「 大我の愛 」 から接しているときと、「 小我の愛 」 で接しているときとがある気がします。



昌清霊。


「 大我の愛 」 の出( いず )るときは、そこに喜び、感動がある。


しかし 「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 は、つねに紙一重。 表裏一体なのじゃ。 わずかな心のゆるみでも 「 小我の愛 」 が出るのじゃ。


恋愛などは、まさにそうじゃ。 親子もそうであろう。 相手を思う。 子を思う。 それらが大我からであるとしても、ほんのわずかでも小我の視点があれば、わが子を思う、相手を思うが、束縛( そくばく )という愛欲へと変わってゆくのじゃ。 これは 「 小我の愛 」。


なぜならば、相手のためと言いつつも、みずからの自己満足をかなえるがためであるからじゃ。


まことの愛を、みずからの欲得に変えてはならぬのじゃ。 我を持ってはならぬのじゃ。


――――――――――――――――――――――


大我の愛も、わずかな心のゆるみから小我の愛に転じる。 「 相手のため 」 のつもりで、自己満足に陥ることもある。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   4-4

2008年06月08日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   4-4


質問者。


「 大我の愛 」 を理解し、実践する。 そこに至るのは、私たちに小我がある限りとても険しい道程ですね。



昌清霊。


愛はときに、みずからに都合の悪いこととなる。 みずからとは小我。 小我にとって都合の悪いことも愛なのじゃ。


喜びとて、物質の喜びと、魂の喜びは違うのじゃ。


「 愛されることを望む者 」 は、物質の喜びを望んでいる者たちじゃ。 目に見える笑顔、目に見えるような態度、耳に聞こえる優しき言葉、耳に心地よい慰め。


しかし、まこと魂にとって心地よい言葉とは、厳しき言葉でもあるのじゃ。


魂の喜びと、物質の喜び、いわば小我の喜びは、まったく違う。 となれば、さまざまに、魂、もまれる生き方をしている者が、一番愛されている者となる。


逆に、物質的な快楽のみに浸っている者、またそれができる者は、愛なき者、または愛に飢えた者、愛に乏しい者となる。


物質的視点と霊的視点は、まるで反対なのじゃ。


――――――――――――――――――――――


物質的な快楽を追ううちは、愛に満たされない。 成長を促す困難な経験や厳しい言葉にこそ真の愛がある。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   4-3

2008年06月08日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   4-3


質問者。


この世で私たちが用いている 「 愛する 」 「 愛される 」 という言葉の定義自体が、実は愛の真実と、かけ離れているのでしょうか。



昌清霊。


さようじゃ。


ぬしらは、闇にも光にも 「 愛 」 という言葉を使っておる。


正しきことに 「 愛 」 という名称を使うならば、ぬしらの言う愛に、「 愛 」 を用いてはならぬのじゃ。


または、ぬしらの言う愛を 「 愛 」 とするならば、まことの愛は、「 愛 」 という以外に言葉の呼び名を変えなければならぬ。


――――――――――――――――――――――


私たちは 「 大我の愛 」 と 「 小我の愛 」 を同じ 「 愛 」 という言葉で呼ぶが、本来はまったく違う性質のものである。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   4-2

2008年06月07日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第一章   愛とは何か   4-2


質問者。


愛を請うのではなく、他人を愛することばかりを望むほうが、生きる姿勢として正しいのでしょうか。



昌清霊。


「 大我の愛 」 ならば、ぬしの申すことは正しい。


しかし、「 小我の愛 」 ならば、これも同じ誤りじゃ。 これもまた愛ではない。 身を守る小我でしかないのじゃ。


「愛することばかりを望む者」が仮にいるならば、相手を憎まぬものじゃ。 相手を憎むということは、いわば愛されたい、物質的意味で愛されたい気持ちがあるということなのじゃ。


愛されることと愛することは、表裏一体であり、陰と陽、光と影である。


「 愛されることばかりを望む者 」 は、先に申したように、小我を満たすことばかりを望む者じゃ。


「 愛することばかりを望む者 」 も同じなのじゃ。 「 ありがとう 」 という感謝の言葉ばかりを望み、それにより、みずからの物質的小我の寂しさを埋めてもらおうとしている者じゃ。 「 愛されることばかりを望む者 」 と同じように、小我を満たしたいという打算があるのじゃ。 小我を与えることにより、小我に見返りを求めている者、というだけのことなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


本当の愛は、見返りを求めない。 
感謝の言葉を求めて愛するのは、自分の寂しさを埋めたい打算があるから。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第一章   愛とは何か   4-1

2008年06月07日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第一章   愛とは何か   4-1



この世の 「 愛 」 の大半は、小我の喜びを満たすためのもの。 真の愛からは、ほど遠い。



質問者。


愛するよりも愛されることを、より多く望んでしまうのは、間違っていますか。



昌清霊。


「 愛される 」 ことを望むとぬしは言うが、それは、物質的にみずからが得することを望んでおるということじゃ。 したがって、それは 「 愛 」 ではない、小我なのじゃ。 それをぬしは  「愛 」 と語っておるだけなのじゃ。


なぜならば、まことの愛を望んではおらぬからじゃ。 わかるかな。


ぬしが言う通り、現世には 「 愛されることを望む者 」 が多いな。 愛されることのみを望んでいる者も多い。 しかし、その者たちが望んでいる愛とは、自らに都合のよい愛、みずからの小我に喜びを満たすだけの愛なのじゃ。


たとえばぬしが、愛を、愛されることのみを望むとしよう。 それは、わしから賛辞や言霊( ことだま )による慰め、もしくは物質的慰め、地位、名誉を与えてもらうことを「 愛 」 として望んでいるわけじゃ。


だが、まことの愛であるならば違う。 ぬしを突き放し、必要あらばぬしを手伝わぬ。 転ばすことも愛。 厳しきことを言い放つも愛じゃ。


まことの意味で愛するとは、相手を徹底して受け容れ、徹底して向上させようとする法なのじゃ。


ぬしの言う 「 愛されることを望む者 」 たちは、そのようなことは望んでおらぬであろう。 己にとって都合のよいことだけを望んでいるわけであろう。 それは小我。 愛でなく、物欲と同じじゃ。 いわば物質を望んでいるのじゃ。 物質としての言葉、物質としての慰め。


ということはすなわち、「 愛されることを望む者 」 は、まことには少ないということじゃ。


愛の定義が間違っているゆえ、ぬしらはそのように言う。 ぬしらはつねに間違った愛を語っているのじゃ。 現世では、「 愛 」 という言葉が、あまりにも誤用されているのじゃ。


――――――――――――――――――――――


この世では、「 愛 」 という言葉があまりに誤用されている。 多くの人が望む 「 愛 」 は、小我を満たす物欲に近い。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )