質問者。
漠然と考えごとをするだけの 「 内観 ( ないかん )」 には意味がなく、どういう視点で自分の 「 内 」 を 「 観 」 るか、これが大切だということですね。
昌清霊。
さようじゃ。 内観とは、ただうつろに考えることではないのじゃ。 ただ座禅することでもない。
では、内観とは何か。 それは、みずからの小我に対し、つねに厳しく管理することなのじゃ。 みずからの魂のあり方をしかと管理することであるのじゃ。 それが内観にござる。
みずからが選ぶすべての道、すべての判断、それらをしかと魂の目、大我の目で見据えて判断することが内観なのじゃ。 内観の 「 内 」 とは、どこを 「 観 」 ることか。 みずからの神我より、みずからの小我、影を観るのじゃ。
たとえば、ぬしらが日々放っている言霊( ことだま )。 言霊というものは、実に恐ろしいのじゃ。 みずからの中が表れてしまうのじゃ。
その言霊を、では表さぬように注意すればよいか。 いや違う。 出でた言霊をすべて流してはいかんのじゃ。 みずからの口から出た言霊に誤りがあれば、徹底してその言霊がなぜ表れたかを知らねば成長なく、これぞ内観と言うのじゃ。
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「 内観 」 とは、自分自身の行いや判断を一つひとつ大我の目で見つめ、誤ちの原因を厳しく解明してゆくこと。
( 江原啓之 スピリチュアルメッセージⅢより )