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スピリチュアリズム大霊教 / Spiritualism Taireikyo

/ 世界中に愛を広げる / 大霊、グレートスピリット、霊的真理の10の法則、神道、仏教、世界中の神々と共に

第二章 愛の学びの形 2-5

2008年06月23日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 2-5


質問者。


「 人は、その大我をまこと失うことはない 」 とは、大我を 「 見失う 」 ことはあっても、完全に 「 失う 」 ことはありえないということですか。



昌清霊。


さようじゃ。 現世には、ほとんど小我に近い者もいる。 しかし大我は絶対に消えぬのじゃ。


ぬしらに、傲慢という影の話をしたことがあるな。 人の傲慢は影と同じで、どんなに消しても消えきらないものであると。 この話しの逆であって、光もまた、闇によって消そう消そうとしても、絶対に消えぬのじゃ。


むしろ、闇をすべて光に変えることはできる。 みずからが光になれば、闇はなくなり、すべて光に変わるのじゃ。 しかし光をすべて闇に変えることはできぬ。 人は神の粒子である以上、光を消そうと思うても、まったくすべて消すことはできぬのじゃ。


一点の光を闇が覆( おお )えば光は消える。 しかし、それは長く続かぬ。 なぜならば、大我を持つゆえ、苦しいからじゃ。 光、愛を消そうとすれば、大我、神我は苦しいのじゃ。


となれば、一点の光でもまた作ってしまうのが、これまた人の神性。 それが、落ちこぼれたとしても、人が天使であるゆえんなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


人が 「 神の粒子 」 である以上、大我という光が魂からまったく消えうせてしまうことはない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 2-4

2008年06月22日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 2-4


質問者。


誰もが 「 大我の愛 」 を備えているならば、なぜ幼児虐待をするような親が、後を絶たないのでしょうか。



昌清霊。


幼児虐待に走る者がおるのは、小我がそうさせているわけじゃ。 大我がするべき行為ではない。


自分が子供のために不自由な暮らしになっている、という小我の恨( うら )みゆえ、子に八つ当たりをする。 みずからの小我より出る孤独のあてつけで、暴力という小我の行為に出るわけじゃ。


しかし、虐待をする親であっても、育ててはいる。 その一点だけ、大我なのじゃ。


人は、その大我をまこと失うことはない。 しかし、大我がほとんど見えなくなったときに、大きな問題となるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


近年増えている幼児虐待などの問題は、親の孤独ゆえに小我が大我を見失わせて起こる、誤った表現の一つ。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 2-3

2008年06月22日 | 愛することの真理 Ⅰ 

第二章 愛の学びの形 2-3


質問者。


「 母性愛 」 「 父性愛 」 というものは、人間の魂に、もともと資質として備わっているものなのでしょうか。



昌清霊。


さようじゃ。 もともと備わっているのじゃ。


母性愛、父性愛は誰にでもある。 ただし本当の母性愛、父性愛じゃぞ。 小我ではないぞ。 小我から見る母性愛、父性愛ではなく、大我から出る母性愛、父性愛。 それはあるのじゃ。


それは、母性愛、父性愛が、すなわち大我、神我であるからじゃ。


ぬしらはみな神である。 だから備わっているのじゃ。


――――――――――――――――――――――


母性愛、父性愛は 「 大我の愛 」 であり、本来、誰にも備わっているもの。 なぜなら人間の本性は、みな神だから。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 2-2

2008年06月21日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 2-2


質問者。


一方で、わが子への愛( いと )しさあまって「こんなにあなたのためを思っているのよ」と、過干渉や愛の押しつけに走る親も多いものです。



昌清霊。


それは「小我の愛」。 またその前提に、物質を中心とした価値観があるのじゃ。 子を物質的成功へと急がせようとする親の心が、そうさせるのじゃ。


人はあまりにも急ぎすぎる。 この今生( こんじょう )の中で実らねば不幸と思っておるのじゃ。


経験多き者は、経験の満たない者に対し、つねに腹を立てる。 みずから多く経験を重ねている者には―――それは小我の上での経験じゃぞ。 魂の経験と違う―――、経験乏しき者の結果が見えるのじゃ。 ゆえ、その者が歯がゆく思えるわけじゃ。


ぬしらの世にはよくあることであろう。 親子関係に限らぬ。


たとえば、右に出れば必ず良しと出る。 左に出れば失敗する。 それが経験多き者にはよくわかるゆえ、左、左と行ってはならぬと、経験乏しき者に申すわけじゃ。 右にゆくべきじゃと。 しかし経験乏しき者は、左、左と行ってしまう。 それに腹を立てる。 これは小我なのじゃ。 魂を見ておらぬのじゃ。


魂は今生のみではないのじゃ。 どの者も長き長き魂の年齢、いわば魂の歴史を積み重ねておるわけで、これからまた、行く先も、どんどんと道を広げて進めて行くわけじゃ。


となれば、その者の成長こそ大切であり、今を成功させることが大切なのではない。 今の物質を成功させることではないのじゃ。


大切なのは、その者の目覚め、気づきなのじゃ。


それがたとえ今生でできずとも、来世においてできるのであれば、それはそれで成功なのじゃ。 その者の魂を見据( みす )えるよりほかないのじゃ。


その者を強引にでも変えようと目くじらを立てるのは、物質的価値観。 それがその者にとって良い事と思ってしまうのも、物質的価値観であり、これすなわち小我なのじゃ。


この微妙な違いに気づける者を、大人の魂と申すのじゃ。


――――――――――――――――――――――


わが子を物質的な成功へと急がせるのは 「 小我の愛 」。 ときには失敗をも見守る寛容さこそが、本当の親の愛。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第二章 愛の学びの形 2-1

2008年06月20日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第二章 愛の学びの形 2-1



親の子への愛には、「 大我の愛 」 が一番こもる。 だが、束縛や執着など 「 小我の愛 」 も出やすい。



質問者。


子供に対する親の愛ほど深い愛はないと言われます。 「 親の子への愛 」 について教えて下さい。



昌清霊。


親が子を愛す。 ここにまさに 「 大我の愛 」 が一番こもるわけであるが、されど、わが血を分ける、肉を分けるという物質的価値観を表すことが多い。 これが、個より表れる「小我の愛」なのじゃ。


魂と血肉とは、まったく縁はない。 されど人の小我は弱きゆえ、みずからの肉体、血における連鎖、または関わりを重んずることにより、みずからの孤独、いわば寂しさをも埋めようとしてしまうのじゃ。


そして、その負の意識が多くの障害を生む。 障害とは肉親間の争いであったり、無理解じゃ。 しかし障害から孤独を得ることにより、みずからのまことの愛のあり方を知るわけじゃ。


はじめに申したように、親の子への愛は 「 大我の愛 」 にもっとも近い。 いざ大いなる障害に当たったとき、親の愛は子を無条件にかばおうとする、守ろうとする行動に出るわけじゃ。 子が自分自身にどれだけの事を与えてくれるかは、その場には存在せず、ただがむしゃらにわが子を守ろうという情に走るわけじゃ。


そしてまた逆もあり、子はわが親を守ろうとする。


その情は、小我から出るものもある。 しかし、何一つ条件を持つことなく、ただ魂の感動として身内を守ろうとする行動、いわば魂の行動に走るとき、それはまさに大我および神我を表すわけじゃ。 そこで人は、肉体を越えた、物質を越えた、まことの愛を見ることとなるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


親が子を思う愛には、無条件に相手を守り慈しむ 「 大我の愛 」、魂の感動が、もっとも表れやすい。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  4-5

2008年06月19日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  4-5


質問者。


「 愛することの真理 」 へと、私たち人間が少しでも近づけるよう、最後のお言葉をお願いします。



昌清霊。


ただただ、つねに、みずからがいかようにして生まれ、いかに生きるか、その意義を感じてゆくことじゃ。


日々だけを見つめておれば、日々より外に目が向かぬのじゃ。 ゆえ、みずからの魂を、いずこへ向ってゆくのかと、つねにつねに見きわめること。 ただそれのみじゃ。


現世のみに目を向ければ、現世における価値しか見出せぬ。 魂の喜びにはほど遠くなる。


なぜこのような霊言( れいげん )があるのか。


無智を智に変えるためじゃ。


この世になぜ不幸があるか。 なぜ悲しみがあるか。


無智であるからじゃ。


無智を智に変える。


これが幸せの道、まことの道であるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


日々だけを見つめていては、魂の行く先は見えない。 無智を叡智に変え、この世の悲しみを消すのが、幸せへの道。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  4-4

2008年06月18日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  4-4


質問者。


愛の反対語は 「 無関心 」 だと言われます。 昌清様のおっしゃる 「 無智 」 と、この 「 無関心 」 は近いものでしょうか。 ( 無智とは、霊的真理を知らないこと。)



昌清霊。


近い。 無智であるから無関心になる。


智をもてば、無関心はなくなる。 当然のことなのじゃ。


そしてまた、無関心でいる限り、無智のまま。


すべての悪は、「 無智 」 じゃ。


――――――――――――――――――――――


「 無智 」 こそが、一番の悪。 無智は無関心を生む。 そして無関心でいる限り、智は得られず無智は消えない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  4-3

2008年06月18日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  4-3


質問者。


私たちが 「 智 」 を得て、「 神我 」 を目指してゆくことは、有限の世界から神という無限の世界まで、領域を広げてゆく、ということですか。 ( 智とは、叡智、霊的真理のこと。)



昌清霊。


その意味、複雑であるな。


魂自体は、もともとは無限なる世界のもの。


神我を目指すとは、魂をより高い次元にすることである。


わしが申す 「 智 」 は、広い世界を知るための 「 知 」 ではないのじゃ。 情報というものの 「 知 」 ではない。


「 智 」 とは、「 叡智 」 とは、魂、愛を知ることぞ。


――――――――――――――――――――――


「 叡智 」 とは、広く情報や知識を得ることではない。 真の愛を知り、世界をより高い次元にすることである。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  4-2

2008年06月17日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  4-2


質問者。


私たちが、この地球で 「 大我の愛 」 を目指して日々を送っていることは、宇宙全体の中で、どんな意味を持つのでしょうか。



昌清霊。


同じじゃ。 この地球だけに神があるわけでもなく、宇宙すべてが同じ。 宇宙すべてが類魂であり、神であり、愛なのじゃ。


無知が智に変われば、愛となるのじゃ。 智に変わり、愛があれば、すべては変わるのじゃ。


無智がある以上、闇なのじゃ。 影なのじゃ。 傲慢なのじゃ。


ぬしらのこの星に限らず、神我へ向かうということが、まったく同じとは言えぬが、宇宙全体で起こっている。


ぬしらが肉体を持って生きているように、魂が物質にこもるということが起こっている場もあれば、そうでないこともある。


この星以上に、高い智を持つ場もある。


そのように階層の違いはあれど、同じなのじゃ。


――――――――――――――――――――――


宇宙の生命すべてが類魂であり、神であり、愛である。 あらゆる無智を智に変えれば、闇は消え、すべては変わる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  4-1

2008年06月17日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  4-1



すべての無智を叡智に変え、人が真に大我を目指せば、この世に本当の幸せが訪れる。



質問者。


人類という種が続いているうちに、本当に人は、「 神我の境地 」 にたどり着くことができるのでしょうか。



昌清霊。


もちろん、それを目指して生まれてきておるわけじゃ。 そうあるべきである。 でなければ、まことの幸せを得ることができぬ。


人が幸せというものをまこと望むならば、必ずその日が来よう。


その日が来れば、この世は大きく変わるであろう。


――――――――――――――――――――――


人類が本当に 「 神我=愛 」 の境地を目指したとき、この世は大きく変化し、本当の幸せが訪れる。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  3-3

2008年06月16日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  3-3


質問者。


小我的な経験を通して、大我を理解してゆく道は、一歩一歩着実に進む、一直線の道ですか。 進んだと思っても、また後退することはありますか。



昌清霊。


ある。 なぜ戻るのか。 その光、核心まで至っておらぬからじゃ。


一度でも核心に至ったことは、戻ることはないのじゃ。


では、なぜ核心に至ることができぬのか。 それは経験が足りぬからじゃ。 まことの経験を果たせば、後ろには戻らぬのじゃ。


ということは、人は徹底して経験すべきなのじゃ。 良くも悪( あ )しくも、徹底して経験すべきであるのじゃ。


経験により大我を見つめ、大我の定義をしかと知り、大我によって生きることがない限り、人は同じ過ちをくり返してゆくであろう。


なぜくり返すか。 理解していないから。 ただただそれのみじゃ。


理解をまことした者に過ちはない。 理解をして過ちをする者は、理解しておらぬという表れなのじゃ。 理解すれば、過ちはないのじゃ。


その大我を広げてゆくために、人はさまざまな経験を重ねるのじゃ。 その経験の痛み、または喜びもなければ、なかなかにして変化は厳しいのじゃ。


――――――――――――――――――――――


中途半端にせず、経験を徹底して積み、一度でも大我の核心を理解すれば、二度と過ちは犯さない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  3-2

2008年06月15日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  3-2


質問者。


私たちは、とかく愛にまつわることに夢中になってしまいがちですが、「 愛 」 の本質は 「 理解 」 という、むしろ冷静で理性的ものなのですね。



昌清霊。


さよう。


されど、生きることには、みな夢中じゃ。


この現世に生( あ )れたことも、向上に対し夢中であるからじゃ。


夢中は、決して悪いことではない。


小我の夢中に、問題があるだけじゃ。


ただひたすらに、叡智に対し、心ふるわせて夢中になることじゃ。


――――――――――――――――――――――


この世に生まれたのは、魂が向上に夢中である証( あかし )。 叡智という目的があれば、軌道を逸( そ )れることはない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  3-1

2008年06月15日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  3-1



「 愛する 」 とは、神の 「 叡智 (=霊的真理 )」 を 「 理解する 」 こと。 一度核心を理解すれば、無智に戻ることはない。



質問者。


「 愛 」 という言葉を、私たちはあまりに誤用していたようです。 より正しく 「 愛 」 の本質を理解するために、「 愛 」 を表す別の言葉があれば、教えて下さい。



昌清霊。


「 理解する 」 という言葉じゃ。


愛とは 「 叡智 (=霊的真理 )」。 叡智を理解する道じゃ。


何のために愛を学ぶか。


合いは理解してこそ、与えるもの。 また、与えられるもの。


神の叡智を知ること。 神の叡智を理解すること。 叡智を養うこと。 これがまことの愛じゃ。


小我の愛は、甘えの愛。 依存の愛。 無智の愛。


まことの愛は、叡智を知る愛。 理解する愛。 ただそれだけじゃ。


――――――――――――――――――――――


愛するとは、理解すること。 神の叡智を理解してこそ、本当の愛を与えることも、受け容れることも出来る。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-7

2008年06月14日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  2-7


質問者。


私たちが他人を判断するときに生じやすい歪んだ評価は、相手を称賛しているときでも、その賛美の中に混じっているのでしょうか。



昌清霊。


さようじゃ。 なぜならば、そこに依存心があるからじゃ。


ある者を称賛し、崇( あが )めたてまつるのみであるならば、その心の中には 「 すべてその者にまかせておけばよい、みずからはまるで関係なし 」 という依存心がある。 いわば、他人ごととしてとらえているのじゃ。


ある者の大我の行動を、まこと賛美するならば、いかにして、みずからそれを支えようかとするはずなのじゃ。


そこに、みずからの大我を注いでゆくはずなのじゃ。


ただ賛美するは、阿呆( あほう )の口でもできるのじゃ。


――――――――――――――――――――――


称賛の気持ちには、その人への依存心がこもりやすい。 真に賛美するなら、相手を支える行動に身を捧ぐべき。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )



第三章  叡智に至る道  2-6

2008年06月14日 | 愛することの真理 Ⅰ 
第三章  叡智に至る道  2-6


質問者。


自分の日々の 「 動機 」 も正しく認識できない私たちに、まして他人の行いの 「 動機 」 についての正しい判断ができるものでしょうか。



昌清霊。


人は、この現世に同じく営む同胞たちに対して、裁くという傾向がある。 それはなぜかと申せば、目に映ることだけを重んじているからじゃ。 その者の 「 動機 」 を思うところまでゆかぬがほとんどじゃ。


それ自体が間違いなのじゃ。 すべては 「 動機 」 なのじゃ。


要するに人は、みずからの小我で測ることばかりであるのじゃ。 他人の 「 動機 」 に対しても、みずからの小我で測ろうとする。


たとえば、隠遁( いんとん )もしくは出家などにより学ぶ者を、小我とたとえるか、大我とたとえるか。 このこと一つとっても、すべて、思う人間、思う魂の 「 思い癖 」 が表れるのじゃ。


たとえば常日頃、みずからが小我でもって、世捨て人を気楽に思っているならば、みずからが被害妄想という中にある証( あかし )なのじゃ。


人を判断するときに大切なのは、みずからの魂に喜びがあり、幸せであるかどうかじゃ。 みずからが不幸なもの―――小我によって不幸である者―――には、大我の行動の良し悪しを、論ずることができぬのじゃ。 それが現世ぞ。


現世になぜ、非難、中傷が飛び交うか。 それは、非難、中傷する者たちの小我がそうさせているだけなのじゃ。 相手がたとえ大我であれ、小我であれ、みずからの小我に反応し、小我が苦しむことを、表に表しているだけなのじゃ。


妬み、嫉み、嫉妬などもみな同じ。 みずからにあるものしか映らぬ。 みずからに嫉妬心というものがなき者は、人の嫉妬を見たところで嫉妬と思わぬのじゃ。


――――――――――――――――――――――


自分の魂が幸せならば、他人の 「 動機 」 を理解できる。 魂が不幸な人は、非難や中傷、嫉妬しか示さない。




( 江原啓之  スピリチュアルメッセージⅢより )