共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解
共産党は,第5回全国協議会(昭和26年〈1951年〉)で採択した「51年綱領」と「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」に基づいて武装闘争の戦術を採用し,各地で殺人事件や騒擾(騒乱)事件などを引き起こしました(注1)。
注1) 共産党は,「(武装闘争は)党が分裂した時期の一方の側の行動であって,党の正規の方針として『暴力革命の方針』をとったことは一度もない」(3月24日付け「しんぶん赤旗」)などとしていますが,共産党自身が5全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」と認めています(第7回党大会中央委員会報告,昭和33年)。
また,不破哲三前議長と上田耕一郎元副委員長の共著「マルクス主義と現代イデオロギー」 では,当時の武装闘争について,次のように述べています。 「たんに常識はずれの『一場の悪夢』としてすまされることのできない,一国の共産党が全組織をあげ,約2年間にわたって国民にさし示した責任のある歴史的行動であった」後略 http://www.moj.go.jp/psia/habouhou-kenkai.html
日本学術会議、破防法にも反対声明を出していた
昭和27年(1952)には声明「破壊活動防止案の成行に重大な関心をよせる声明」、声明案「破防法廃止案を求める」が日本学術会議内から出されていることが、日本学術会議の「安全保障と学術に関する検討委員会」における第7回(平成28年12月16日)の資料にて確認できます。
そして、この表を見ると「福島要一」氏が声明・声明案の立案の中心人物として登場していることが分かり、「福島要一を中心として共産党に支配されていた」という指摘の信ぴょう性がまた一つ強くなる事情が伺えます。https://www.jijitsu.net/entry/habouhou-nihongakujutsukaigi
「日本学術会議 首相、『6人任命せず』は当然
1980年代の学術会議はまるで共産党の運動体だった。定員数は同じ210人。これを30委員会に振り分けるから一委員会7人ずつである。会員は学会に加わっている人の選挙。この中で常に選ばれる人物に福島要一という人物がいた。彼は第5部(原子力関連の委員会)に属していたが他の6人は福島の能弁に誰も反論できなかった。その様を見て桑原武夫氏(京都大フランス文学)がある雑誌に「3人で210人を支配する方法」という皮肉な随筆を書いた。桑原氏によるとこの委員会は最初7人全員が参加していたが、福島氏が一日中喋っているから嫌気がさして、次回は3人になる。結局福島氏に2人は説得されて部会一致の採決をしてしまう。学術会議は50年と67年には「戦争に関わる学問には協力しない」と宣言した。一連の運動は共産党の行動方針そのもので、改善策として人選のやり方を全く変えることにした。福島要一氏は農水省の出身で、共産党系学者に号令して毎回、当選してきた。この農業経済学者が日本の原発政策を主導したのである。加藤寛氏(慶大教授)の提案で投票は学会員たちだけにし、会員を選出する方法に改めた。一部抜粋http://www.jfss.gr.jp/article/1334
10月12日のTBSグットラックでは橋下弁護士に加え政治を語るyouTuberの若い女性が出演して菅首相の任命拒否問題を議論?していた。任命云々のみを語り合い本質の日本学術会議の話は何ひとつ上がる事はなかった。テレビしか見ない人には学術会議がどんなものかも知らないだろうし興味を持つこともない、ただ言えるのは菅総理の独断専行としか思わないだろう。今日の橋下氏には正直失望した。彼なら学術会議の本質を正すこともできたろうがやはりテレビ関係者でしかない。ディレクターの指示でそこから先は言わないのだろう。
私は毎日雨後の筍のように出てくる学術会議の真実の顔が日本を崩壊させる共産党の顔にしか見えなくなってしまった。80年代まで共産党の配下、当時の中曽根総理は学術会議の任命は儀礼的なものと発言、その後学術会議は人選の方法を変えたと言います。この中に出てくる福島要一
こちらで東大・ICU名誉教授の村上陽一郎氏と屋山太郎氏の弁から、日本学術会議は7期連続で委員を務めた福島要一氏を中心に共産党の支配下となっていたことが指摘されていることを提示しました。https://note.com/nathankirinoha/n/n5f61fde6c666
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