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翁長沖縄県知事の「戦死」が問いかけるもの  (抄)

2018-08-14 | いろいろ

ジャーナリスト田中良紹氏のヤフーニュースのコラムより

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翁長沖縄県知事の「戦死」が問いかけるもの

 翁長雄志沖縄県知事がすい臓がんで亡くなった。訃報を聞いた瞬間フーテンは「戦死」だと思った。がん細胞は誰でもが体内に持っている。それが病気になるかならないかはストレス次第だと言われる。米国ではがんが発症しても手術をせずにストレスをなくして回復させる治療法もある。

 翁長氏は県知事就任以来様々な「敵」と戦わざるを得なかった。しかもその戦いは終始絶望的な戦いであった。米軍基地をなくすための戦いが米軍や米国との戦いであれば、翁長氏は絶望に陥ることもストレスを感ずることもなかったとフーテンは思う。

 しかし戦いの「敵」は米軍や米国より、味方になるはずの日本政府と日本国民であった。戦後、米国の軍政下にあった沖縄を本土復帰させ、日本国に迎え入れたはずの日本政府が米国の言いなりに新基地建設を推進し、一方でかつて本土の米軍基地撤去を激しく迫った日本国民も基地が本土から沖縄に移ると自らの問題にしなくなった。

 それらが翁長知事を絶望の淵に追い込み、がん細胞の活動を強める結果をもたらしたのではないかとフーテンは思う。翁長氏は日本政府と日本国民との戦いで命を落とした。それがフーテンの言う「戦死」の意味だ。

 「戦死」は米国の「一極支配」が終わりをつげ、アジアの冷戦構造が終結を迎える直前のことだった。それがフーテンには悔やんでも悔やみきれない感情を抱かせる。あともう1期知事を務めることが許されれば、沖縄は平和になったアジアの象徴としてアジア各国とつながり、観光の拠点として翁長知事が夢に見た「アジアのハワイ」になりえたかもしれない。

 戦後沖縄の悲劇を生み出したのは東西冷戦構造である。「ソ連封じ込め戦略」を策定した米国務省のジョージ・ケナンは1948年に沖縄を視察した後、「米国は長期にわたって沖縄を保持し、軍事基地を拡充する必要がある」と報告、それがトルーマン大統領によって「国策」となった。

 日本が独立を回復する51年のサンフランシスコ講和条約では、英国やオーストラリアが日本に沖縄を放棄させるべきと提案したのに対し、中国の共産党政権は沖縄を日本に復帰させるべきと主張し、米国は日本の「潜在主権」を認める一方で「米国が唯一の施政権者として国連の信託統治に付す」ことを主張した。

 日本に沖縄の主権を放棄させれば、1.沖縄の住民が主権を持ち「米国を追い出す権利」を持つ。2.ソ連が沖縄の主権を求める。3.国連が沖縄問題を扱うようになる。4.米国が沖縄の主権を事実上獲得したと非難される。つまり日本の「潜在主権」を認めることが米国の軍事支配と両立し米国にとって最も都合が良い。当時のダレス国務長官は戦略的にそう考えた。

 そしてアイゼンハワー政権は「空に雲一つなく、アジアの平和と安全にいかなる脅威もなくなるまで、沖縄は返還されない」と宣言する。これを「ブルースカイ・ポリシー」という。これが沖縄問題の基本構図であるとフーテンは考える。日本政府を間に入れて米国の軍事戦略に常に都合の良い状態を作り出すのが米国の戦略なのである。

 日本の総理で沖縄問題を最初に取り上げたのは岸信介である。岸は沖縄住民が「異民族支配」の下に置かれている状態は日米関係にとって深刻な障害になるとして「10年のタイムリミット」を提案した。つまり10年後に返還させようとした。

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