阪神間で暮らす-2

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三上智恵の沖縄撮影日記 第79回:ゲリラ戦を生き延びた少年兵とスパイリストに載った少女

2018-02-07 | いろいろ

より

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ゲリラ戦を生き延びた少年兵とスパイリストに載った少女 ~沖縄裏戦史(次回作)より

 年が明け、名護の市長選挙が今日1月28日、告示された。辺野古基地建設を止める大きな「風かたか」である稲嶺進現市長を守り、11月の知事選挙につなげることができるのか。まさに正念場の政治決戦の嵐が沖縄に吹き荒れている。そんな中、私は同じ北部に通っているが、向き合っているのは73年前の戦争。去年後半から、私は1945年に迷い込んだままだ。

 今年夏に公開すると宣言した沖縄戦長編ドキュメンタリー『沖縄裏戦史(仮題)』の撮影も大詰め。まだ語れない戦争秘話の中に、次の戦争を止める特効薬となるべき大事な話がわんさか眠っている。過去のことをやっていると思われるかもしれないが、私は自信をもって言う。明日を変えるために今この話を知ってほしいと。過去の悲劇でも何でもない、今とシンクロしている恐怖そのものだと。

 まだその全貌はお話しできないが、大事なエピソードの中から、今回は二つ、ロケ報告の形で紹介したい。北部の少年少女たちの物語である。

〈少年ゲリラ兵とカンヒザクラ〉

第二護郷隊 第二中隊 第二小隊
リョーコー二等兵 は
沖縄戦直前の1945年3月
16歳で召集
たった二、三週間の訓練ののち
恩納岳の陣地で
いきなり敵を迎え撃つことになる

元少年ゲリラ兵
瑞慶山良光さん

4月1日
恩納岳から読谷村座喜味まで
偵察に行き
アメリカの艦隊に包囲された海
続々と陸に上がってくる船を見て
言葉を失った

3日後、谷茶の山中で
黒人兵の集団と鉢合わせ
驚いて咄嗟に
銃を水たまりに落としてしまい
そのままそこに潜って
顔だけ水面に出し
自決用の手榴弾を口にくわえ
ガチガチと震えていた

16歳の少年である
あまりの緊張と恐怖に
気を失ったのか
気がつけば彼らは通り過ぎていた

陣地に戻るも
また3日後には
万座毛を埋めるアメリカの戦車に
爆弾ごと突っ込んでいく
戦車爆破隊に任命された

「自分はもう、生まれてこなかったと思えばいいや」
そう思えば気が楽になった

その作戦が失敗に終わり
陣地に戻ったと思えば
また数日後に
今度は東側の屋嘉に
斬り込み隊で出動

リョーコー二等兵の右の頰に
手榴弾の破片が当たり
奥歯4本が砕かれ
頰に穴が空いた

唾液が全部流出し
食事も消化もできず
みるみるやせ衰えて
野戦病院で病人を運んだり
仲間の埋葬を担当した
三日三晩寝ずに
墓掘りをした

6月2日
ついに第二護郷隊は
恩納岳の陣地を捨て
北に敗走していく

傷病兵は
なんとか歩けるもの
友達の肩を借りて動けるものは
移動を命じられ
そうでないものは
自決か 射殺か
二つに一つだった

しかし
どちらも選べない少年がいた
高江洲義英くん
東村高江出身の17歳
怪我が元で破傷風になり
脳症に至ったのか
精神を病んでいた

撤退する夜
少年は毛布を被せられ
軍医に射殺された
はずが
毛布をずらすと
少年はまだ笑っていた
上等兵がもう一度毛布を被せ
2度目の銃声が響いた

少年はもう
動かなかった

義英くんの弟である
高江洲義一さんには
強烈な記憶がある

終戦になり
護郷隊の少年たちは
三々五々 故郷に帰ってくる
義一さんの母は
高江の田んぼのそばで
夕方になると坂を見下ろして
毎日、義英くんの帰りを待っていた

半年ほど待ったか
亡くなったという噂が入り

父親が従兄弟らと
義英くんの遺骨を
恩納岳から回収し
洗骨をして
母の前に持ってきた

「義英よぅ!  義英よぅー! 
なんでこんな姿になったか?!」
母は兄の髑髏を抱きしめて
狂ったように泣き叫んだ

兄の骨にはまだ
毛布が付いていた
まだ小学生だった義一さんは
髑髏の恐怖と
狂気を纏った母
二重の衝撃が今も
脳裏から離れないという

同時に3人の子を失った母は
精神を病んでしまい
高江の村祭りに乱入し
奇声をあげて
髪を振り乱して踊った

義一さんたち兄弟は
なすすべもなく泣いていた
早く、普通のお母さんに戻って
それだけを願っていた

リョーコー二等兵の話に戻るが
その後も辛酸を舐めた彼もまた
戦争PTSDに見舞われ
戦後も苦しんでいた

頭の中が突然戦争になり
見境なく暴れまわるため
家人は座敷牢を作って
彼を閉じ込めるしかなかった

戦後2年を経て
18歳でリョーコー二等兵の心は
パンクしてしまったのだ

時は流れ
リョーコーさんは50歳を過ぎて
キリストと出会い
ようやく穏やかな生活を取り戻した

兵隊幽霊と呼ばれ
周囲から遠ざけられた半生
あの戦いと
埋葬した少年兵たちと
その世界から抜けられずに
生きてきた73年

リョーコーさんは自宅裏の山に
亡くなった少年兵の数だけ
桜を植える決意をする

沖縄独特の
濃い桃色のカンヒザクラは
はらはら散るソメイヨシノとは違い
南国の地に生きた
明るい笑顔の少年兵にピッタリだ

19年かけて
リョーコーさんの若桜の園は
ようやく人を呼べるようになった

記念すべき最初の客人は
あの野戦病院で一緒だった
亡くなった義英くんの弟の
高江洲義一さん

リョーコーさんは
好きな桜を選んでください
と促した

今日、1月24日
ムーチービーサと言われる
沖縄で一番寒い日に
凜として咲いている桜を
最も美しかった桜を
義一さんが選び出して
義英くんの桜と
命名された

こんなもの植えてもね
誰も見に来ないよ
いつまでも戦争の話をして
って、呆れられてる
でも僕はね
亡くなった戦友と
この桜と虫たちに囲まれて
この山の世話をするのが生き甲斐
ちっとも寂しくないんだ

口癖のように
会うたびにそう繰り返した
良光さん

6月に壮絶な半生を伺って
何度も会いに行って
彼にとっての桜は
何なのか
ずっと考えていた

高江洲義一さんも
瑞慶山良光さんも
今日 桜の園で
極上の笑顔だった

今日は最高の1日だった
私は風邪で声が全く出なくて
演出も何もできなかったが
胸がいっぱいだった

こんな瞬間があるから
自分の人生より深く
誰かの思いに触れる瞬間があるから
この仕事はやめられない

初めて
少年兵たちの笑顔を見た気がした
とにかく
最高の一日だった

〈スパイリストに載った少女〉

屋我地島のヨネちゃんは
すらりと背の高い美人だった

17歳の時
憧れの大阪の紡績工場で
バレーボールチームの花形だった

1944年 戦雲が島を覆う中
父が他界、兄も出征しているため
母と弟を看るために
ヨネちゃんは沖縄に帰る船に乗った

ひとつ前の船が撃沈され
命からがら那覇に着くが
彼女を下ろしたその船こそ
帰途、1476人の犠牲者とともに沈んだ
対馬丸だった

自宅の目の前は塩田で
海を挟んだ向こう側は
海軍白石隊の魚雷艇や潜航艇の
秘匿陣地だった

屋我地の少女・女性たちは
勤報隊と命名され
毎日、舟艇に乗せられて
向かいの陣地構築を手伝った

ある夕方、目の前の海に
たくさんの物資を積んだ大きな船が数隻現れた
その船員が、石油の一斗缶をもって
庭先に立ち
食べ物と換えてください、と懇願した
自分たちの分もない中
シンメーナービ(※)に洗ってある芋を分けると
あとからあとから 石油缶を持ってやってきた

※シンメーナービ(千名鍋):沖縄伝統の大きな鍋

翌朝、いつものように海を渡るとき
古宇利島方向から低空飛行の米軍機が
ドドン! ドドン! と爆撃を開始
「海へもぐれ!」
泳げないヨネちゃんも飛び込んだ

あっという間に集積船は砕け散る
夕方、昨日芋をあげた兵隊たちの
足や手で埋まった水路を掻き分け
ヨネちゃんはガチガチ震えながら
引き返していった

いつも腹を空かしていた
対岸の海軍の水兵たちは
夜になると泳いでヨネちゃんのうちにきて
何か食べさせてほしいとせがんだ

「なんでうちにばっかり?」と言うヨネちゃんに
「兄さんたちも戦地でひもじい思いをしているかもしれないさ」
母はそう言って無理をしてでも何か差し出した
母は命がけで兵を匿ったこともあった

魚雷艇は米軍の戦艦に体当たりする特攻艇だ
彼らは遺品をヨネちゃんの家に預けて出ていったという

ある夜、名も知らぬ水兵が
ヨネちゃんの家に立ち
「明日出撃をします。そのことを伝えたくて」と言った
まだ恋も知らぬ水兵が
最後の日に言葉を交わしたかったのは
18歳の彼女だった

やがて猛爆撃を受けて出撃不能になった
海軍白石隊の残党は山に上がり
敗残兵となり
スパイ呼ばわりして住民を虐殺するなど
恐怖の対象に変質していった

そんな夜
一人の水兵が闇に紛れて泳いできて
こう告げた

「ヨネちゃん、殺されるから逃げてください」

ヨネちゃんと母は驚いた
「うちはこんなに海軍に協力してきたのに?
殺すというならここで殺せ」
母は逃げることを拒否した

ヨネちゃんは「スパイ虐殺リスト」に
載っていたのだ

ずっと後になって
戦後になって
世話になったと尋ねてくる元海軍兵から
殺されなかった理由を聞いた

「〇〇中尉が『ヨネちゃんとスミちゃんは殺すな。
彼女たちを殺す奴は俺が殺す』と言ったんだよ」

九州出身の〇〇中尉とは
数回しか会っていないが
ヨネちゃんと弟さんに双眼鏡をくれるなど
交流があった

間もなくその中尉は
隠れ家に踏み込んできた米兵に射殺された
彼のいたグループは
住民虐殺にかかわっていたとみられている

なぜ、ヨネちゃんは
虐殺リストに載ったのか?
それが、最も肝心なところだ
それは次回作で明らかにするが
彼女の経験はまさに
軍隊が駐留する地域の住民が
絶対に避けられない悲劇を
まざまざと今に伝えている

今年92歳になるヨネちゃんと
去年、数奇なご縁でめぐり逢い
勤報隊のこと、海軍のこと
これまで一度も話したことがなかった
怖くて話せなかったことを
初めてカメラの前で語ってくださった

体のことで、何度かロケを断念したが
今日奇跡的に 屋我地島に御一緒できた
慈悲深いお母さんの遺影にも
手を合わせることができた
お母さんの導きかもしれないね、と
ヨネちゃんは笑った

もう、やんばるに来るのは最後かもしれない
彼女は水兵たちが出撃していった水路に
花束を投げた

ワルミ大橋の下
遠く遠く 花は散っていった
穏やかで美しい入り江には
まだ語られぬ悲しい歴史が眠っていた







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