阪神間で暮らす-2

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一怯の怯え 質問時間巡る与党画策に絶句

2017-11-20 | いろいろ

より

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一怯の怯え(いっきょうのおびえ) 質問時間巡る与党画策に絶句 = 浜矩子

 国会での質問時間を「与党5対野党5」にしたい。自民党がこう言い出した。結果的に「与党1対野党2」で折り合った。この方式で、11月15日の衆院文部科学委員会の質疑が行われた。これを先例にするわけではない。そのように、与野党でひとまず合意したようである。だが、今後の展開から目が離せない。

 自民党は、全くもって何ととんでもないことを言い出したものか。良識とか、慎みとか、節度とか、大人の感性とか。そのようなものを、この人たちは全く持ち合わせていないのか。「いくら何でもこれはまずいよな」「さすがにこれを言うと大ひんしゅくを買うだろう」。このような思いが、ほんの瞬間でも頭をよぎる場面はなかったのであろうか。いやはや。おやまあ。絶句という言葉を、ここまで実感することもあまりない。

 「議席数に(時間配分も)応じるのは国民からすればもっともだ」。菅義偉官房長官がこう言った。ここでまた絶句。国会とは、一体何をするところだと心得ているのだろう。議院内閣制の下で、政府と与党は限りなく一体だ。よほど仲間割れが著しい与党なのでなければ、与党議員が政府に向かって質問するのは、形式主義的自問自答に過ぎない。

 しかも、自民党には「事前審査」の慣習があるのだという。与党の議員たちには、政府からあらかじめ政策や法案について説明を受ける機会がある。その上なお、「議席数に応じて」国会の場で質問時間を確保して、何をどうやり取りするというのか。そこから、何が得られるというのか。

 「議席数に応じて」という考え方は実に不心得だ。数の力を絶対視している。勘違いも甚だしい。意図的・作為的勘違いの可能性もある。そうであれば、極めて悪質だ。多数を占める者たちは、何をしてもいい。多数を占める者たちは最も声高に、最も大きな顔をしていていい。こんな子供じみた論理で議会制民主主義を運営できると思っているのか。本気でそう思っているのだとすれば、絶句も極まる。

 さすがに、海外の事例などに照らして、この「議席数に応じて」的発想を非難する指摘は多い。ご指摘の通りだ。だが、海外の事例に目を向けるまでもない。議院内閣制における政府・与党というものは、ごく当たり前の人間的知性に従って、より多くの質問時間を野党に使ってもらおうとするはずだ。

 そのような知恵と見識が働かない者たちに、議会構成員となる資格が果たしてあるか。たとえ日本を除く世界中で「議席数に応じて」主義を取っていたとしても、日本はそういうことをしない。日本では、野党に十二分の質問時間を取ってもらう。そんなであれば、どんなに爽快であることか。どんなに、日本の議会制民主主義に礼賛・絶賛の拍手を送りたくなることか。

 たとえ、野党議員がたった一人しかいなくとも、その人に10のうち8の質問時間を付与する。それくらいの構えがなければ、議会という場はその機能を真っ当に果たしているとはいえないだろう。内輪で質疑のまねごとをしていて、そこから何が生まれ来るというのか。絶句に次ぐ絶句で、呼吸困難に陥りそうである。

 学位論文に関する口頭審査が行われる時、審査対象者の指導教員は、司会役に徹する。審査対象者に対して質問するのは、審査員に任命された他の先生たちである。当たり前の話だ。審査の場で、身内である指導教員が質問を発したのでは、話にならない。審査としての意味がなくなる。

 むろん、審査対象者に対して投げかけられた質問に、指導教員が代わって答えてしまうのも論外だ。どんなに代わってあげたくても、そこはぐっと我慢しなければならない。これもまた、あまりにも当たり前のことである。

 国会の場において、政府は審査対象者だ。与党は、その身内である。審査員を務めるのが、野党の役割だ。質問を発するという仕事は、基本的に野党に帰属する。そのはずである。この辺の認識がしっかり出来上がっていない人々には、国会の議場に足を踏み入れてほしくない。

 それにしても、なぜ、彼らはここまで野党の質問を封じ込めたいのか。こんな調子で行くと、「国難突破」などと言って、野党の質問時間をゼロにしようとし始めるかもしれない。国難の今、政府の政策に異を唱えるとは何事か。そんなことさえ、言い出しかねない。そのように思えてしまう。

 「議席数に応じて」主義こそ、「一強のおごり」にほかならない。そのように感じられる向きは多いだろう。それは誠によく分かる。だが、本当にそうかなとも思う。

 ここまでして質問から逃げようとするのは、おごりゆえなのか。何をどう、どんなに延々と聞かれても、いくらでもお答えいたします。そのように受けて立てないのは、なぜか。実は、そこに怯(ひる)みと怯(おび)えがあるからではないのか。

 これは「一強のおごり」ではない。「一怯(いっきょう)の怯え」だ。卑怯(ひきょう)者がおじ気づいて、追及から逃げようとしている。それが、「議席数に応じて」主義の不都合な真実なのではないか。


 ■人物略歴  はま・のりこ: 同志社大教授。
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