阪神間で暮らす-2

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三上智恵の沖縄撮影日記 第81回:文子おばあ、石垣島へ

2018-06-05 | いろいろ

より

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文子おばあ、石垣島へ



 文子おばあがノーベル平和賞にノミネートされた! 想像してもみなかった展開である。

 2006年、初めて彼女にインタビューした時、のっけから「なんね? あんたは。私は戦争の話はしないと言ってるの!」と怒られた。それでも、以後なんだかんだと私は文子おばあにまとわりついた。

 南部で地獄のような戦場を彷徨い、戦後は辺野古に住む文子さん。彼女にフォーカスした理由は、戦争と、基地問題で揺さぶられ続ける辺野古をつなぐ貴重な存在であるということにとどまらない。その短気で直感的な感性の持つ魅力、情に脆く、涙もろく、人を拒むように見せていながら自分の傷を隠そうとしない、意地と弱さのバランス。わたしが惹きつけられる要素をいくつもいくつも持っている女性だった。

 「あんたは不思議だね。怒られても、喧嘩しても、また『おばー』といって、ここにくるんだからね」

 呆れたようにそういう島袋文子さんとわたしの奇妙な関係が、あれから12年続いているわけだが、まさかノーベル賞委員会からノミネートの知らせを受ける存在になるとは、思ってもみなかった。まあ、正確にいうと、70年余り平和運動に取り組んできた沖縄の人たち、という位置付けで、翁長雄志知事や山城博治さんを含む8氏2団体がグループで推薦されて、見事ノミネートに至ったというもの。文子さんはワンノブゼム、である。

 2018年のノーベル平和賞には330の個人と団体がノミネートされているというから、10月に見事受賞という運びになるかどうかは大変狭き門である。が、沖縄の人たちの平和を希求するたゆまぬ努力が国際社会で認知されていることは、何より勇気づけられる事実だ。その中でも、我らが文子おばあが大切な存在だと認められているのも、勝手な身内感覚ながら誇らしい。

 その文子おばあは先月上旬、体調を崩し入院していた。相当きつかったようで、あとで聞いたのだが、入院中、わたしもいよいよこれまでかなと思ったそうだ。ところが退院してすぐにわたしに電話があり、唐突に「八重山に行きたい」と言う。なんでも、石垣島の山里節子さんが、おばあのためのとぅばらーま(八重山伝統の抒情詩・唄)をいくつも作ってくれているのだが、新たな一作が手作りのサーターアンダギーとともに届いて、文子さんはその内容に涙して、節子さんに会いに行きたい、と訴えているのだ。

 その歌詞の内容は、私の感性で現代語訳すれば

 「水は流れて行くけれど、堰き止めることだってできる。だから文子おばあも、時間の流れを堰き止めて、もう年をとらないでいてください。ずっと今のまま、元気なまま、私たちに力をくださいね」

 という、節子さんらしい、お茶目で尊敬と愛が溢れている歌だった。私は、自分の二つの映画のそれぞれ主人公である二人の女性が相思相愛になって行く様を、とても嬉しく見ていた。しかし、突然石垣に行きたい、と言われても……。

 ちょうど、5月16日に自衛隊配備について予定地に近い於茂登で市長と住民の意見交換会があり、私は一泊で行くつもりでいた。でも、車椅子を押しながら撮影は出来ない。逡巡しつつも、私は一泊で来週行くけれど、と伝えると「私は行くならば、一泊というわけにはいかんさ。二泊はしないと」とケロっという。えーと、私も予算も時間も厳しいんだけどな、と言いかけたが、恩返しをするチャンスでもある、と思い直して「よしわかった。航空券も宿も任せて。体調次第でドタキャンも覚悟で段取りします」と言った。

 自衛隊のミサイル基地に抗う地元の人たちを応援したい、こんな機会は願ってもないと、文子さんは於茂登に行く気も満々だった。辺野古の、数えで90になるおばあが現地に来てくれたと、喜んでくれる人もいるかもしれない。早速相談すると、幸い山里節子さんも大歓迎。あっという間に受け入れ態勢を作って下さった。そしておばあのお世話をしながら石垣まで同行してもいいというSさんのご厚意も得て、80代、60代、50代の女3人の珍道中となった。

 大好きな文子おばあの前では少女のように無邪気になる石垣の節子さん。彼女がおばあのために用意していたプログラムは完璧だった。八重山古謡の会に招いたり、手作りの晩餐会を開いたり、節子さん自らハンドルを握りつつ、観光案内に加え、要所要所に古謡やわらべ歌や即興曲が挿入される。歩くように気ままに停車するその運転は、きっと私だけではなく他のドライバーもドキドキさせたと思うが、それも石垣島ならではで、クラクション一つ鳴らされなかった。私も、お手伝いもしながらで撮影に徹することは出来なかったが、なるべくこの奇跡的な旅の一部始終を記録すべく頑張った。その様子は、いつか何かで出したいけれど、あまりに中身の濃い時間だったので「文子おばあとセッちゃん」というテーマは今回は出し惜しみをすることにする。動画は、自衛隊配備の現場の話だけを編集した。

 でもその前に一つだけ、節子さんの魅力に痺れたエピソードを紹介する。

 風光明媚で石垣観光のハイライトである川平湾に文子おばあを案内したときのこと。エメラルド色のグラデーションの海を間近に眺めてもらおうと、白砂の上まで車椅子を移動させると、文子さんは足で白砂を掻き分けながら、「なんて綺麗な砂だろう! 真っ白で柔らかくて。ビニール袋がなかったかね、少し持って帰りたいけれど」と言った。

 Sさんと私は袋を探したけれどなかったのでなす術なく立っていると、節子さんがサッと浜に自生する植物の大きな葉っぱを2、3枚ちぎり、いたずらの準備をする小学3年生の少女のような顔をして、重ねて広げた葉の上に砂を集め始めた。そして首にかけていた白い手ぬぐいで葉っぱごと白砂を包み込んで縛り、器用に持ち手まで作って大きなおにぎりほどの包みを作った。そして得意げに私たちに見せて、目をキラキラさせながらおばあにプレゼントした。

 80歳の節子さんから89歳の文子おばあへの贈り物は、川平の白砂の葉っぱ包み。この、1円もかからないけれどおばあの最高の笑顔につながるギフトをとっさに繰り出す技を、この砂だけではない、旅のいろんな場面で私は見た。

 誰かを自分のフィールドに案内して喜ばせたい、という状況に誰でも立つことがあるだろうが、今回、節子さんはじめ八重山の人たちが文子おばあに見せた歓迎は格別だった。数えきれず訪れたこの島だが、おばあと同行したからこそ、その底抜けの情けの深さに唸らされた旅だった。

 さて、本題はここからだ。奄美も宮古島も新たに配備される陸上自衛隊のミサイル部隊の基地建設が着手され、どんどん進んでいく状況の中、予定地の住民が結束して抵抗している石垣島が今や最後の砦となっている。しかし、容認派の中山市長が再選され、包囲網はジリジリと狭めらる中で、市長が「意見交換会」なるものを於茂登、開南という2地区を対象に今月16日に実施すると通告してきた。

 この問題が持ち上がった3年前から、地元ではまず、国や防衛省を交えずに市長と住民で話し合いたいと要望していた。それがついに開催された。しかし、この日参加者はたったの7人。ほとんどの住民が、遅きに失した「意見交換会」をボイコットした。これだけの報道を見れば、話し合いを望んだのに拒んだのは反対している住民、と早合点しそうだが、経緯は全く逆だった。

 おととしの暮れ、「年明けに住民と意見交換をする」と言ったはずの中山市長が、その年内に自衛隊基地建設をめぐる手続きの開始を許可してしまった。住民軽視に憤る公民館長らは、まずは約束を破ったことを謝って、手続き開始を撤回して、ちゃんと市長として住民と向き合ってほしいと訴え続けた。ところが謝罪も撤回もなく、面会もままならず、こじれにこじれた末に「公民館という自治組織が話し合いに応じない」からと、行政の力で地域の学校の体育館を借りて意見交換会なるものを強行した。これには学校の父母らも反発した。賛成反対はさておき、学校施設を政治的なことに利用するのはやめてほしいと要請。しかし全ては無視され、このイベントは強行された。出席すれば、手続きは踏んだとしてアリバイに使われる。出席しなければ、意見を聞くために地域に出かけて行ったが住民は応じてくれなかったという構図が作られる。

 思案の末、住民らは、このやり方自体がおかしいと会場の外で訴えながら、地域を限定せずに広く市民と意見交換ができる場を作って欲しいと要請書を市長に手渡すことにした。しかし、動画にある通り、中山市長は完全に無視して会場に入ってしまった。

 『標的の島 風かたか』の主人公の一人である、元於茂登公民館長の嶺井善さんの苦悩の表情に、胸が締め付けられる思いだった。この3年で、農業に誇りを持って地域をリードしてきた精悍な顔つきだった嶺井さんが、眉間の深い皺、覚悟を決めた目つき、深い悲しみや怒りを宿したオーラを放っていた。誰が、彼をここまで追い込んできたのか。何がこの地域を分断させようとしているのか。いばらの道を団結力で乗り越え歩んできた開拓団の村を、今さらに苦しめようとする力を私は心の底から憎む。

 20年以上、辺野古の基地建設に抗ってきた文子おばあは、この集会で「これは八重山の問題ではない。私たちみんなの問題です」と切り出した。沖縄が今またどんな残酷な運命に引き込まれようとしているのか、彼女にはよく見えているのだ。

 「73年前、日本の軍隊が沖縄に入ってきた時、私たちを守るものだと信じて自分たちの食べ物もみんな差し出したけど、軍隊は住民を守るものではなかったんです」

 沖縄戦を一言で総括するなら、毎度同じことを書いていると言われようが、おばあの言う通り「軍隊は自国民を守るものではなかった」という一言に尽きるのだ。第32軍の幹部だった神直道参謀は戦後、インタビューに答えてこう暴露している。「沖縄戦で、住民を守るということは、作戦に入っていなかった」と。では、自衛隊はどうなのか。悪しき日本軍の伝統を引き継いだのか、断ち切ったのか。そんな一番大事な沖縄戦の失敗が繰り返されないという確信を、容認している人たちは本当に得ているのだろうか。

 「私は悔しいです」。文子さんは言った。

 「皆さんのお爺さんお婆さんは、もう戦争がわからない世代です。あの苦しみを伝えられなくなってる。生き残った私には、それが悔しいんです」

 なぜ、たくさんの血を吸ったこの島で、戦争の教訓が学ばれないのか。文子さんはギリギリと悔しがっている。心配、ではなく、くやしい、のだ。あのおびただしい死は無駄だったのか。いっそ死んでいた方が楽だと繰り返し思った戦後の苦しみは、意味がなかったのか。またも魔の手が忍び寄る石垣島に、死ぬ前に一度行って伝えることは伝えておきたい。節子さんに会うことだけでなく、おばあが切羽詰まって私に石垣に連れて行けと行ったのはこのことだったのだと、文子さんの一途な執念にまたも圧倒された瞬間だった。



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