じつは、『悟り』などという専門家のお坊さんでもなかなかそう簡単に『開く』ことが出来るものではない…境涯を
私などが云々している時点で失笑ものなので、自称『馬骨』居士を名乗って、恥じらいながら『悟り』について書いたりしている。
何故なら、『悟り』は遠い処にあるものではなく、もって生まれた心の中に『郷里サトリ』として誰もが行くことが出来る『場所』
である事…だけは、間違っていない、という確信を持っに至ったからである。
なにより『悟り』は先ず『己自身を救う…道』だと思うので、苦しみながら全く正反対の方角を向いている人々に、意識を『郷里サトリ』に
向けて欲しい…と、ただただ願う、思いなのだ。
で、『悟り』とは…と改めて考える時、私もこれまで何冊かの本を読んだり、老師による『語録』の提唱に耳を傾けたりしたところによると
『ある日、忽然と大悟・・・』というような場面を沢山見聞するにつけ、『悟り』とは、『瞬間的な閃き』のようなイメージが
私にもあったし、一般的にも同様なイメージが定着しているのではないかと思う。
しかし、私自身の禅修行をよ〜く振り返ってみるに、そういった『瞬間』を迎えるまでには、(・・・そんなものは一度もなかったが)
『悟り菌』をじっくり時間をかけて『発酵』させるイメージがより現実なのではないだろうか。
ワインではないが、『悟り』という『成熟した味や香り』は焦らずに時間をかけ、じっくり発酵を待った結果、何時ともなく現れてくる性質のものだろう。
『禅修行』という『長時間』ただひたすら坐るだけで、何を勉強するわけでもないのに、知らないうちに自分の何かが自然深まっている感覚…は
同時期に修行を始めた仲間達の面構えを観ただけでも感じるものだ。
学問としての仏教は、全く勉強していないから何にも知らないけれど、言葉にならない仏性については『自家発酵』を確かに感じている。
時間をかけて発酵させ、熟成させる…そこにこそ修行の尊さがあるに違いない。
発酵させるには『悟り菌』へ意識を向け、ひたすら『無』に突入し…『いま、ここ』の現実を精一杯生きることに全力を傾ける・・・
そうした過程の中で自己の『悟り菌』は自己発酵、自己熟成するのではないだろうか。
優れた禅書は『発酵・熟成』具合を自己チェックする目安となる。
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