気の向くままに

KLOの風の吹くまま気の向くままの日常雑記 

奈良:東大寺大仏殿

2013-11-17 04:30:29 | 
シリーズでアップしている奈良旅。
今回は東大寺の大仏殿へ。



大仏の境内の前には鹿公園が広がり、
境内の中にも沢山の鹿が居るのはあまりにも有名だ。
鹿せんべいをあげると、
そんなに腹が減っているのかと思うくらい、
勢い良くよって来てはあっというまに食べ尽くしてしまう。
普段、鹿等見る機会は殆どないが、
修学旅行いらい久しぶりに見る鹿は、
とっても可愛かった。







いざ、大仏殿へ!
でかい、あまりにもでかい!!







人の大きさと比べると、そのでかさがよくわかる。







上手いのか下手なのかわからない、
大仏殿の入口の看板。







そして入口を入ると、正面に大仏が!
でかい、やはりでかい!
そして、やわらかい表情で出迎えてくれている。
いまでこそでかい建造物は数多あるが、
当時、この大仏を見た人は、
その圧倒的なでかさに言葉を失い、
そしてひれふしたことだろう。
バチカンのサンピエトロ寺院に入った時と、
似た様な感覚を味わう。







台座の睡蓮に泊まる蝶ですらかなりでかい。







金堂の中には大仏以外に幾つかの像があるが、
中でも大迫力なのは多聞天と広目天。
画像の広目天は江戸時代の作というが、
なんの迷いもなく彫られたであろうと感じる彫り込みは、
尋常ではない。







金堂の入口には、
その赤ずきんが表情の怖さをいっそう引き立てる、
賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が。
神通力の達人だが、酒断ちができずに、
こうして金堂の内陣にはいれずにいるとか。



東大寺大仏殿に、
繊細な風情をもったものはひとつもない。
すべて豪快であり大きい。
これもまた衆生を救うひとつの形だと教えてくれる。

奈良:玄

2013-11-15 00:46:20 | 
シリーズでアップしている奈良旅。
今回は蕎麦屋さんの『玄』へ。



奈良一の蕎麦とうたわれる手打ち蕎麦の『玄』
食べログでも3.98という驚異的な評価を得ている蕎麦とはどんなものか、
一度食べてみようと思い、訪れた。







小民家の風情をそのまま生かした落ち着いた店内。
席から見えるつぼ庭もまたいい感じだ。
ちなみに昼はせいろ40枚の限定生産で、
要予約となっている。
サイト・クルージングでは量がかなり少なそうなので、
とりあえずせいろを2枚、注文しておくことにした。







せいろのバリエーションはいくつかあるが、
予約が必要なのはせいろの枚数で、
どのせいろにするかは、店で決める事ができる。
品書きに『梅たたきの水蕎麦』とあったので、
興味をひかれて注文した。

出て来た蕎麦猪口にはなんと水が!
しかも、まずは水だけ付けて食べて欲しいという。
言われて通り水に浸して食べてみると、
なんと、これまで一度も食べたことのない蕎麦の味。
水は喉越しを手助けする役割をにない、
蕎麦そのものの味わいが口に広がる。
水以外には岩塩と梅だれ。
塩は普段から蕎麦に付けてよく食べるが、
これもまた両者が引き立て合って美味。







次に、
店に入ってから追加で注文したそばがきが来た。
おうおうにしてずっしりとした食感のものが多いが、
この店のそばがきは軽やかでかつふわふわ。
これもまた山葵と岩塩がよく合う。







最後に出て来たのはいなか蕎麦。
つけだれと塩で食べる。
これはこれで美味しいが、
これまで食べたラインナップと比べると、
一番普通のそばだった。

なんといってもこの店を印象づけたのは、
梅たたきの水蕎麦だった。

また、そばの味はとてもいいが、
つるつると流し込む喉越しを蕎麦にお求めの方には、
お薦め出来ない。



奈良:今井町

2013-11-14 01:42:15 | 
シリーズでアップしている奈良旅。
今回は奈良に残る江戸の街、今井町へ。



古代の面影が色濃く残る奈良の街。
しかし前回アップした橿原神宮および神武天皇陵の近くには、
江戸の街並も残っていて、
関西の歴史的時間の奥深さを感じる。

関東には小江戸と呼ばれる川越等、
江戸情緒のある街があり、
それらを訪れると古の旅の感覚が味わえるが、
千何百年もの歴史を今に残す奈良で江戸の街を見ると、
全く古さを感じないのが不思議だ。







そんなに古い物ではないと思うが、
こういった道しるべもまた風情がある。













もともと、どこまで残っていたのかは知らないが、
近年、街ぐるみで大規模な開発が行なわれたのだろう。
江戸時代から残る街並に併せて、
歯科医の外観も、消化器の箱も、郵便ポストも、
すべて街並にあわせて造られている。

国内で、こういった街造りは、
観光地では良く見かけるが、
一般の住宅街ではなかなか見られない。
是非、一般の街もこういった精神を反映して欲しいものだ。







前情報無しで訪れた今井町は思いのほか規模が大きく、
ぎっしりと並んだ江戸の街並は圧巻。







この建物は造り酒屋だが、
全ての建物が商店というわけではなく、
どちらかというと、
一般の民家として使われているものの方が多い。







一通り一周ぐるっと見て回ったが、
画像の様に剝落した壁面や劣化した木部を持つ建物は、
ごく一部に過ぎず、
殆どの家屋は、壁が真っ白で、
木部にも殆ど痛みが見られなかった。

定期的にメンテナンスされているのか、
あるいは冒頭で書いた様に、
近年、大規模な修復が行なわれたのかはわからないが、
いずれにせよ、ちょっと造り込まれすぎた印象をうけた。

もうすこし時間の積み重ねを感じる街であって欲しくもあった。

奈良:神武天皇陵と橿原神社

2013-11-10 04:17:39 | 
シリーズでアップしている奈良旅。
今回は神武天皇陵へ。
神武天皇陵は、
言わずと知れた日本初代の天皇の陵。
初めて訪れる天皇陵に期待も膨らむ。



天皇陵は、御陵を守る橿原神宮の裏にあるので、
まずは橿原神宮のお参りを。
神宮へ行く道すがら趣のある建築に出会う。
元々「中和農業共済組合」用の建物だったのかは知らないが、
その作りからして昭和の初期から戦前にかけてのものだろう。
エントランス・ホールの造りが、特に気になる。







中和農共を過ぎると、埴輪の店が。
この一帯は、古墳時代の遺跡が多い土地であることも、
改めて認識する。







そして橿原神宮へ。
鳥居は木造なものの、その雰囲気は、
東京九段の靖国神社などに通ずる、
凛とした印象をうける。







橿原神宮は、神武天皇を祀るために、
明治時代に建立された神社なため、
それほど歴史はない。
門柱の横に掲げられた、
「皇紀二千六百七十三年」の板が、
天皇家所縁の神社であることを、
強烈に物語っている。







境内はひたすらなにもなく、
玉砂利が枯山水の模様に整備されているだけだ。
勿論社殿のそこかしこに垂れ下がる幕には、
全て菊の紋章が染め抜かれている。







拝殿や回廊の雰囲気は、
靖国神社というよりはどちらかというと明治神宮に近い。
ただし明治神宮は、拝殿に向かって右側に、
現在ではドコモタワーが聳えているが、
橿原神宮の本殿は、同じ位置に畝傍山が見える。
神宮越しにケータイ会社の巨大ビルが見えるのも、
それはそれでいいが、
大和三山を背にした神宮は、
やはり荘厳な印象をうける。







そして神武天皇陵へ。
森が深く濃い。







ほどなく玉砂利の道を進むと、
深い木々の裂け目の先に、
鳥居が見えてくる。







これが神武天皇陵だ。
素木の鳥居が三重に造られ、
その奥は見えそうで見えなず、
暗がりへ消えて行く印象に造られている。



もともとこの地はほんの小さな塚だったが、
幕末の頃に神武天皇陵と定めて整備し、
現在の形になったという。
そして戦後、
神武天皇は架空の天皇になってしまった。
そう考えると、神武天皇の果たした役割は、
幕末から昭和の戦争時代を牽引する象徴として、
祭り上げられた天皇だったのかもしれない。

気持ち的には、神武天皇には、
実在していて欲しいのではあるが。

奈良:藤原京址

2013-11-06 01:42:37 | 
シリーズでアップしている奈良旅。
今回は藤原京跡へ。



藤原京の最寄り駅、畝傍御陵前駅。
畝傍御陵(うねびごりょう)…
この名前を聞いただけでも、やられてしまう。
関東にも、お江戸以降の面白い歴史はあるが、
それよりも千年以上も歴史のある関西は、
東京生まれの自分にとっては高値の花だ。







駅越しに見える畝傍山。
天香具山、耳成山とともに大和三山の1つで、
大和三山で唯一の男山。(一節には女山とも)









途中、旧薬師寺跡を見ながら藤原京へ。







ほぼ枯れ川状態の飛鳥川。
しかしその周辺の雰囲気は、
かつて奈良の写真家、入江泰吉が愛して止まなかった、
古の香りを漂わせるものだった。







飛鳥川を渡ってほどなくいくと、
藤原京から南に伸びるメインロード、
朱雀大路跡がある。
今ではその一部が残るばかりだが、
道を掘り割り状に造る当時の名残が見てとれる。







上画像の位置から藤原京の中心部を眺めると、
残念ながら朱雀大路は繋がっておらず、
一面田んぼがひろがっている。
それも悠久の時の流れか。







畦道伝いに大極殿跡の方角へ進む。
途中、趣のある苫屋がポツンと佇んでいた。
どうやら田んぼへ送り出す井戸のポンプ小屋らしい。







大極殿へ進む間中、前方(北)に見えている山は、
大和三山の1つである耳成山。
横から見てもきれいな三角形で、
地図で見ても円形をしている、
非の打ち所のない山は、なるほど神の山だ。

ちなみに画像に写る赤い列柱は、
南大門や大極殿の南門などの柱の位置に造られている。
また、赤い列柱の奥、耳成山より手前の、
小高く盛り上がり木々が茂る場所が、
かつ大極殿があった場所だ。







視線を右(東)に向けると、
耳成山よりだらだらとした傾斜の天香具山が見える。
これも大和三山の1つ。
耳成山よりもはっきりとした形はしていないものの、
百人一首にも収録されている持統天皇の歌で読まれるくらい、
その存在は大きい。
「天香具山(あまのかぐやま)」は、
「畝傍御陵」に負けず劣らず、
決して関東にはない単語だ。







大極殿の更に北には、
「持統天皇文武天皇藤原京址」と彫られた、
大正4年建立の石碑が建っていた。
しかし、石碑の前面には大きな木が茂り、
もはや石碑の役には立っていない。

平城京に移る直前の都、藤原京。
白鳳文化を花開かせた都の址だったが、
猛暑のため気もそぞろで、
しっかりと感じることが出来なかったのが残念だ。


奈良:せんとくん

2013-10-26 06:32:23 | 
今年のお盆は大阪での用事のついでに奈良へ足を延ばしてみた。
記録的な猛暑だった2013年の夏。
盆地の奈良はことのほか暑かった。



奈良駅の旧駅舎。
昭和初期建築の、
ご当地のイメージをふんだんに取り入れた鉄筋コンクリート製の駅舎は、
学識者の方々の保存せよ!の一声で、
現在の場所にまるっと移転されたような。
現在は観光案内所として使われている。







旧駅舎の中にはあのせんとくんが。
映像や画像では沢山みていたものの、
生で実物を見るのは初めて。
実際に見るせんとくんは、
奇妙なイメージではなく、
奈良を背負ってPRするオーラに満ちていた。







上画像のせんとくんは、
元祖せんとくんの体のバランスがおかしい、
ということから修正されたものらしい。
こちらが元祖せんとくん。
たしかに元祖のほうが体にパースがかかっているようだ。







観光案内所の中にはこんなせんとくんも。
めっさご機嫌じゃないですかぁー!







街のいたるところにせんとくん。

よく芸能人が、
「メディアで見るより実際見ると○○」と言われるけど、
メディアで見る印象とは違うせんとくんもまた、
芸能人のオーラをもった逸材かも。。。


芳味亭@人形町

2013-10-25 00:46:16 | 
この記事の前にアップした記事が、
去年の12月の日付だった。
気がついたら約1年も更新してなかったことに気がつき愕然とするも、
また気が向いたら更新していけばいいか。。。

打ち合わせがあって人形町へ。
人形町は殆どなじみがないアウェイだが、
以前にアップした越中島などと同様、
下町の風情が色濃く残る街。
夕暮れひとときをぶらっと散歩することにした。







お茶の専門店の店先にはほうじ茶の製造機がしつらえられ、
年の中心地ではもはや薫ることもなくなった、
ほうじ茶を煎る妙なる香りが漂っていた。







薬局の軒先にも、
サトウ薬品のワンコインの乗りものが健在。
これまた昭和の薬局の軒先には、
必ずと言っていい程あった代物だが、
気がつけば薬局はドラッグストアに姿を変え、
乗り物も街から消えていた。







人形町と言えば、親子丼で有名な「玉ひで」はじめ、
そうそうたる老舗料理店が軒を並べる街でもある。
そんな中、洋食の芳味亭(ほうみてい)を訪れることにした。
看板に「洋食」という文字がなければ、
天ぷら屋かそば屋にしかみえない外観。







店内も完全に和風建築で、
テーブルに載る鎌倉彫の爪楊枝入れや灰皿など、
どこをとっても洋食という言葉とはかけ離れた、
昭和まっしぐらの店構え。







本来、ビーフスチュー(メニューには「スチュー」と書いてある)
などがお勧めのようだが、
それほど腹は減っていなかったので、
ちょっと奇妙な組み合わせだな、と思いつつも、
コンソメスープとイタリーエヌスパゲッティを注文。
コンソメはさっぱりとした野菜ベース(かな?)のコンソメ。
ちょっとくせがあるものの、美味しいコンソメスープ。
ただ画像にも写る様に、
人参一切れ、インゲン一本、それにウズラの卵が入ってるが、
これはなくていいのでは。。。







そしてこれがイタリーエヌスパゲッティ。
ようはナポリタンですな。
しかし「イタリーエヌ」とは。。。?
安っぽくない味、
というのがどのようにして作られるかは分からないが、
これだけシンプルにもかかわらず、
たいがいのナポリタンにつきまとう安っぽさはない。
それがいいか悪いかは、好みの分かれるところだろう。
ちょっとバターが強すぎた。

もしそれぞれ半額だったら、下町万歳というところだが、
スープが700円、ナポリタンが1,000円という値段設定には、
少々無理を感じた。







店を出てから柳屋のたいやきで〆。
ついでに小倉アイスも食べてしまった。






今日のにゃんこ

2012-12-18 04:35:56 | 動物



猫は距離感の名手。
たとえ、ごろにゃんと近づいてすりすりしていても、
どこか距離をもってすりすりしている感じ。
かといって警戒しているわけでもない。
程よい距離感。
しかしこの二匹は、ちょっと距離を取り過ぎか。

中の島@隅田川

2012-12-16 19:14:32 | 
東京下町エリアの象徴の一つ、隅田川。
浅草流域の春の花見や夏の花火などで知られる川だが、
その河口付近に、河川唯一の水上公園である<中の島公園>がある。



中の島は、東京湾の中でも古来の埋立地である、
月島と越中島を結ぶ相生橋のたもとにある。
鉄骨トラスが美しいこの橋の歴史は、
明治36年(1903)、中の島を中継地点に、
佃島(月島の最北端)側に相生大橋、越中島側に相生小橋
という二つの木造の橋がかけられことに始まる。
両橋は関東大震災で焼失したが、
その後昭和2年(1927)に再建された時に、
中の島も水上公園として整備されたという。







島の中央を、相生橋を通る清澄通りが貫通し、
島はほぼ上下(南北)に分断されている。
まずは島の北側から。
月島方面から相生橋を渡りきると、
島へ降りる緩やかなスロープがあり、北部へと降り立てる。
島へおりるとまず目につくのは、様々な石造りの遺構。

テーブルと椅子の構造とも、砲弾の土台とも、
はたまた噴水跡とも、ストーンサークルとも、
様々な解釈ができそうな石の遺構だが、
周囲になんの説明板もないので、
果たしてこれがなんの目的で作られたかはわからない。







その他にも、古墳内部の石造りの遺構とも、
また単に、道路工事の際の古い石堤の残骸を並べただけとも見える、
やはり何の為に置かれているのか分からない石が沢山ある。







画像は島の北部から越中島方面を見た様子。
中の島は川の中央より東寄りに位置するため、
ご覧のように中の島と越中島の間はそれほど距離がなく、
かつて相生小橋が掛かっていた場所は、
現在は完全に塞き止められ、
その上は相生橋から続く清澄通りとなっている。







島の北部から月島方面を見ると、
相生橋の下を通って中の島の南側へ抜けられる道が作られている。
道といっても平坦なアスファルトではなく、
円柱状のコンクリートが飛び石の様に作られた道で、
奇妙な印象を受ける。







島の南側へ抜けると、
石で囲まれた池や、隅田川の航行の為の小さな燈台、
そして高台には展望台が設置される等、
こちらは公園らしく整備された雰囲気だ。
底に僅かに水が残る池は「感潮池」というもので、
潮の満ち引きにあわせて池にも潮が出入りする池だそうだ。
この付近は東京湾がすぐ近くなので、
川といえど、干満の影響を受けるのだろう。
先ほど通過して来た飛び石の通路も感潮池の一部らしく、
潮が満とると、飛び石の効果が発揮されるようだ。







再び相生橋へ戻り、橋のたもとから南部を見た光景。
昭和の初期に、水上公園として整備された時は、
その珍しさから大変な賑わいだったという。
当時は、月島と越中島が最も海に近い埋立地だったので、
中の島の南からは東京湾が一望できただろうが、
現在では晴海、豊洲、お台場と、
その先に幾つもの埋立地が並び、
とても当時の光景を追体験することは出来ない。







相生橋を再び月島方面へ向かって渡り、
橋のたもとからほどないところにある、
『ひさご屋阿部』に立ち寄って、
レバーフライを一枚頂く。
下町の子供たちのおやつとして、
メディアなどでもよく紹介される店。
ハムカツの中身がレバーになったようなものだが、
レバーの臭みがなく、ジューシーでとても美味。






寿人遊星

2012-12-13 02:21:01 | 
九段下を歩いていたら、何やら奇妙な彫刻を発見。



銘板には『寿人遊星』
説明によると、1986年のハレー彗星地球接近を記念して、
人々の清福を祈願して、星と縁の深い寿老人を模して制作されたそうだ。
寿老人は中国の道教に登場する、南極星の化身とも言われる架空の神。
本来の寿老人が連れている鹿はボディー背面に彫り込まれ、
長い頭のてっぺんには彗星の彫り込みもある。
この角度だとお顔が拝見出来ないので、
少し前へ回り込んで、







南極星はシリウスの次に明るい恒星。
確かに長寿の願いをかけるには適材な星かもしれないが、
ほぼ氷のような彗星に願う長寿は、いささか寒そうだ。
よく見るとヒゲも彫り込まれているが、あまり判別できず、
ぱっと見には老人というより赤子の表情にもみえる。

SF映画の名作『2001年宇宙の旅』の最後は、
宇宙旅行の果てに胎児に戻る話で終わるが、
この寿老人ももしかしたら、宇宙旅行の果てに辿り着く、
赤子を表してるのかもしれない。

ともあれ、ただの寿老人の像があるよりは、
こういった彫像の方が、いろいろ想像をかき立てられて、
楽しいことには違いない。