sweet キャンディキャンディ

伝説のマンガ・アニメ「キャンディキャンディ」についてブログ主が満足するまで語りつくすためのブログ。海外二次小説の翻訳も。

小説キャンディキャンディFINAL STORY テリィ派?

2017年04月01日 | もろもろ
何年か振りにFINAL STORYや水仙の咲く頃を読み返し、キャンディワールドに浸っております。

FINAL STORYが今では高値になっていることなども知り、驚きました。

「あのひと」考察がまだ続いていることも。

そして「あのひと=テリィ」と思ってる人は当然のようにテリィ派、「あのひと=アルバートさん」と思ってる人はアルバート派とされていることについて、改めて考えてみました。

ーそもそもブログ主はテリィ派なのだろうか?

そしてまた少し語ってみたくなりました。

ブログ主は、キャンディが希望を抱き続け、テリィと最終的に結ばれた美しい愛の物語が、この小説の作者がFINAL STORYで描いた世界だと100%確信していて、それゆえに「あのひと=テリィ」を考察してきました。

しかし、それをもって「テリィ派」と言われると、「いやいや、アルバートさんも、アンソニーも、ステア、アーチー、アニー、パティ、ポニー先生、レイン先生・・・そしてイライザやニールでさえも、その世界の中で役割を与えられたキャラクターとして、深く愛してるんだけど(スザナだけはあまりに人間臭すぎて、唯一愛せない登場人物かもしれません)」と、首を傾げたくなるわけです。

アルバートさんは、キャンディにとって救いの存在であったように、ブログ主にも救いの存在です。アルバートさんが登場すると、キャンディが何か大きなものに守られていることが感じられて、ホッと一息つくことができるのです。

なぜそんなに「ホッ」とできるのかというと、アルバートさんには「キャンディの幸せを見守る」という純粋な意図しかないからなのです。恋愛に発展しないからこそ、アルバートさんとキャンディの関係は無防備で、温かく、崇高なのです。

しかし、もしアルバートさんとキャンディの間に流れる感情に愛欲が混じってしまったら、それはもはや「ホッ」ではなくなってしまうと同時に(キャンディですら「誰かを心底、愛してしまったら、きれいな気持ちのままではいられない」と言っているではないですか)、過去の美しい邂逅までも違う意味を持ち始めてしまうのです。

だから、アルバートさんが「あのひと」であるとすると、その美しい愛の物語の世界が、(養”父”・養”子"というタブーを超えるという意味においても)ドロドロとしたものになってしまうことが、ブログ主にはどうにも耐えられないのですよ。

(アルバートさんを綺麗なままにしておいて!)と心の中で叫びたくなってしまうのです。そういう意味において、ブログ主はもしかしたら究極のアルバート派とも言えるのでは!?

たとえひとに「ブログ主さん、ナイーブじゃね?」と言われようが、耐えられないものは耐えられないのです。そしてまた、 原作者さんはブログ主よりももっとナイーブな感性をお持ちだと思うのですよ。そこで、ちょっとばかり、「アルバートさんは”あのひと”じゃない」考察を軽くしてみたいと思います。



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