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明日もやりたいようにーmiddle60

切り折り紙、釣りなど
全身遊び心の日々・・
もっともっと忘れたい
なぜなら
どんどん新しいことが入ってきそうだ

24年思い出

2007年08月02日 | 自分史

1 家の裏が川(片知川)であったので、台風で大水が出るととても怖かった。「ごろごろごろ」と大きな岩が川の中を転がる音がするのだ。ものすごく怖かった。

2 この頃から「虫」にも興味を持った。西側の家におばあさんが住んでいた。そのおばあさんは、毎日、「みつまた、こうぞ」の木の皮を、人差し指と親指の間に何か糸か紐のようなものが張ってあるもので、「シャッシャッ」と背中をまるめて剥いていた。美濃和紙の本場だから、和紙を作る工程のいくつかは記憶に残っている。剥いだ樹皮を釜で煮る匂いがいまだに鼻に残っている。紙を漉いたあと、貼り付けておく板がある。写真の板がそれだ。このおばあさんが、紙に包んだ虫をもってきてくれた。コガネムシとかは覚えている。

Resize0095 この写真が最も古い写真。耳に指を突っ込んでいるのは「中耳炎」のため。未だに左耳が聞き辛い。そういえば耳鳴りがするのも左耳だ。

足元に注意!なななななんと「わらじ」である。写真屋さんが怖くて逃げ回っていたそうだ。せっかくもう少しいい服を着て撮影する予定だったそうだが逃げ回り、普段着のこの写真となった。記録としてはこの方がいい。


昭和24年 釣り

2007年07月22日 | 自分史

Resize0094 朝から晩まで川にいた。板取川の支流片知川のほとりに住んでいたので自然に川に親しむようになった。絵で描くとすぐわかるのだが、父親が川の流れの遅く、わりあい浅いところに沢山の頭ぐらいの大きさの石を使ってまるでプールのような場所を作ってくれた。子どもの膝ほどの深さしかない。当時は水中眼鏡は高価だったので、気の箱の底にガラスをはったいわゆる『箱メガネ』を使って川の中をじっと覗いていた。流される心配はないので親はいない。一人で魚を採った。30センチほどの竹の枝の先に、鮎つり用の針と短い糸をつけたものが道具だ。どんこ(よしのぼり)の口先へそろりそろりとその針を持っていって、サッとひっかける。採るか、逃げられるか、この緊張感がいまだにある。採ったものは洗面器の中へいれ時々水を替える。川の中ばかり覗いているので、背中は真っ黒だ。飽きもしないで時を忘れて一日中川にいた。現在私が釣りキチになった原点がここにある。


昭和23年 恐怖の記憶は脳に刻まれる

2007年07月21日 | 自分史

Photo「とーる!はよー首につかまりゃー!」

昭和23年6月28日。福井大震災が発生。マグネチュード 7.3 死者4000人近く。

(原稿執筆の前に勃発した平成19年新潟県中越沖地震はM6.8)

母は両腕に私の弟妹を抱え、私を首に背中からつかまらせて家の裏へ非難。すばやい動きだったと思う。家の裏には「竹やぶ」があるからだ。竹は根が深くて丈夫だから、しっかり掴っていれば大丈夫だからだ。岐阜の田舎でもこれほど揺れたわけだ。

「ぞりは?ぞりは?」とおばあさんが言う。「はだしでいいんや!」<母の談>

身寄りのない老人を我が家で面倒を見ていたのだ。無事だったのだろう。地震で死んだとは聞いていない。

「ごー」という音とともにものすごく揺れた。この時はたった3歳である。でもこの恐怖の記憶は未だに消えていない。裏の戸を開けて飛び出していった母親の背中にいたわけだがその感触が残っている。人の恐怖体験はいつまでも残るのかもしれない。人の心のありようまで知らぬ間に決定付けるひとつの要因になるのかもしれない。

そのおばあさんは・・・弟のうどんを取った。おばあさんにもうどんをあげたのに、まだ食べていないとでもいうのか、弟の茶碗を取り上げようとして、弟はわあわあと泣き叫ぶ。この風景も怖い記憶として残っている。畑仕事に母が出かけている間、弟、妹は家の柱に長い紐で縛られていた。お仕置きではなく、遠くへ這っていってしまわないように縛ってあったわけだ。その二人を見ているのが私の役目。なにかしら、この記憶も残っている。

備忘録:サマータイム実施。(母からその様子を聞いた) 帝銀事件

歌:君待てども、東京ブギウギ、ブンガワンソロ、長崎のザボン売り、フランチェスカの鐘、湯の町エレジー、異国の丘、憧れのハワイ航路、カチューシャ・・・なぜだろう?すべての歌が口をついて出てくる。ずっと歌われ続けた歌だからだろうか。憧れのハワイ航路に憧れハワイに行ったのは28歳。

憧れのハワイ航路 へのリンク

http://8.health-life.net/~susa26/natumero/21-25/akogarenohawai.htm

作詞の江口夜詩は岐阜県の養老に記念館があり訪れたことがある。

はがき:2円。


「かぼちゃの芽」買ってきて

2007年07月13日 | 自分史

「かぼちゃの芽のついたやつを買ってきて」  と4歳ころに言われて買いに行ったことを覚えている。ネットで探したらかぼちゃの芽がついている物があったあった。おそらくこれだろう。買いに行くのが嫌だった。

         Hikari5    Sinsei5     

                                                          「ひかり」の空き箱を組み立てて敷物にしたこともあったなあ。両方とも両切りの10本入りだ。ピース人はこの値段が21年は7円だが23年は60円とあった。間違いではないか?26年には40円に戻っている。・・・・・・・・・・・・

おじいさんが、煙管でタバコをすぱすぱやっている風景を思い出すが、この後、たばこについては大学生になるまで まるで無縁のものとなった。                           


昭和21年~22年

2007年07月13日 | 自分史

1歳~2歳。記憶がある天才ではない。まるでない。
生まれたところは長良川の支流、板取川沿いにある。合流点を少々上流へ行ったところにある。

「局裏」と言えばその家の場所がわかる時代であった。「門前」とか「一本松下」とか住所の代わりにあたりまえのように使った時代であった。局とは郵便局のことである。家は郵便局の裏手にあった。家の3メートルほどの道をはさんだ西側には白い壁の蔵を持つ店があった。カキ氷を売っていたことを思い出す。それを売っていたことしか覚えていない。                            

2091   

「おかくさん」というおばさんが、暗いところにおいてある氷式の冷蔵庫から氷の塊を持ち出してきて、「鞘ぬか」まみれになったそれをサッと水で洗い流して、氷かきの台の上にひょいと乗せたかとおもうと素早く「カシャカシャカシャ」と手際よくかく。二枚のイチョウの葉を重ね、端と端が留め金でとめてあるような銅製のもの、大きな貝がぱっくりと口を開けたようなものの中へ氷をかいて、ほどよいところで氷をかくのをやめ、その貝のようなものの真ん中に「竹串」をいれ「きゅっきゅっ」と締めて「はいよ」とばかり手渡してくれる。小学生の頃この故郷へ帰るたびに「おかくさん」のところへ通った。そのころの記憶だ。(写真はメロウ伝承館より。冷蔵庫の周りが銅で覆ってあるものもあるが、おかくさんのところのものはこれだった。明治時代からそこにあるような代物だった。)

明日のための備忘録:
ラヂオ・・・英会話教室(聞いたことはあるが名前をど忘れしている)。ラヂオ体操、尋ね人、話の泉(これは長寿番組だったなあ。堀内敬三、サトウハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎・・・後日書こう)22年には「鐘の鳴る丘」が始まった。緑の丘の~・・・これも後日。歌:港が見える丘、星の流れに、啼くな小鳩よ・・・音楽シリーズでも書いてみるか。
タバコ:光、新生・・・父親に買いにやらされたことがあるので両方とも覚えているなあ。これも写真も探してみようか・・・人生論ノートが出版されたのはこの年なのか。手にするまでに20年近くかかっているなあ。