朝のテレビ対談で、日野原医師と三国連太郎をやっていた。
かくしゃくとした日野原氏。100歳過ぎまでの講演の予定がびっしりあり、それに向けて日々準備をしているとの事。たいしたものだ。三国連太郎は、同名の役柄で映画に出演して以来その芸名にしていると母が言う。
日野原氏の話の中に、ヘルマンヘッセの話が出てきた。
もう一夏、もう一冬・・・というのはヘッセの言葉。
朝のテレビ対談で、日野原医師と三国連太郎をやっていた。
かくしゃくとした日野原氏。100歳過ぎまでの講演の予定がびっしりあり、それに向けて日々準備をしているとの事。たいしたものだ。三国連太郎は、同名の役柄で映画に出演して以来その芸名にしていると母が言う。
日野原氏の話の中に、ヘルマンヘッセの話が出てきた。
もう一夏、もう一冬・・・というのはヘッセの言葉。
昭和26年。2回目の転居。あいまいな記憶だが、住所は愛知県東春日井郡守山町瓢箪山。「ひょうたんやま」という名鉄瀬戸線の駅がある。数年前、おじの葬儀の時に五十数年ぶりにその駅に降り立った。もう少し東へ行ったところに尾張旭市がある。自家用車の件で何度かその町へ行ったときにはただ通過したことはある。駅舎もすっかり変わり、町並みも面影はまるでない。ただ、駅から南へ向かう細い道は当時のままだ。
ひょうたん山というのは形が瓢箪に似ているからだろうが、実際は古墳だ。前方後円墳だ。4年生か5年生の時、夏休みの課題でこの地区の古墳を調べたことがあった。
新しい家の大家さんは今吉さん。すぐ前の家は相馬さん。相馬さんは私に鉱石の見本が沢山入った標本のようなものをくれた。どこかにしまってあると思う。大家さんの南の庭先には芋の苗床があった。長方形で、高さは数十センチくらいで藁でかこってあるかんじだ。大家さんの思い出は他にもあるが・・・。
昭和27年。小学校へ入学。一年生の担任の先生は近藤信子先生。隣の席の女の子は黒岩のりこさん。一番前の席だった。初めて写真屋さんで撮った写真。ハンカチを胸にとめていた。
通知表。旧漢字「國民の祝日」が懐かしいが、示偏の「祝う」がワープロで見つからない。
10円玉が出たのが昭和26年。ギザ10だ。
歌:ミネソタの卵売り、アルプスの牧場、僕は特急の機関士で、
上海がえりのリル(船を見つめていーたー、浜のキャバレーにいーたー・・・・)
雪山賛歌、高原の駅よさようなら、テネシーワルツ、憧れの郵便馬車
食べ物:キャラメルがでた。うまかった。
生まれたところから転居した年。現在の愛知県の瑞穂区。住所がはっきりしないが、大家さんは松田さん。この家には一年ほどいた。朝は大家さんのおつとめの「どんどんつくつく」という音で目が覚める。6畳一間の間借りであった。家を東に向かうと瑞穂グラウンドがあり、親に連れて行ってもらってよく遊んだものだ。この家は小川の横にあり、低地なので大雨のときは大変だった。部屋の入り口に並べてある靴、ぞうりがプカプカと浮かんでいた覚えがある。
小川の橋の上に「きりぎりす」を売りに来ているおじさんがよくいた。キリギリスは自分で捕ったので買った覚えはない。
この家は他人の家の横の細い路地を通らないと入れない。現在の家に住むまでほとんどこのパタンだ。他人様の家の前をこっそりと通らないと我が家につけない。写真が残っていたが、とても小さいものだ。2×3センチほどの白黒写真だ。
昭和25年は朝鮮戦争が始まった。 貧乏人は麦を食え!と池田氏が言った。流行歌は熊祭りの夜(いよまんてー 燃えろかがり火~ だったかな? 伊藤久夫?)、星影の小径、桑港のチャイナタウン(サンフランシスコのチャイナタウン~)。お風呂は10円だったそうだ。
とりあえずはここまでとしよう。