今宵は寝付かれず今ごろ投稿している。こんなだらだら生活ではいかん。
以前にも書いたが、同じ事を何度書いても怖い思い出だ。
中学2年生(14歳)
岐阜市立加納中学校2年?組 担任岩田匡弘先生。
映画が大好きな数学の先生。柳ヶ瀬ブルースで有名になった柳ヶ瀬で映画館へ入られる姿を見たことがある。私も行っていたことになる。
この歳は一年生のときの成績が維持され好調であった。数学が好きになった。陸上部にも、生徒会活動にも積極的になった。陸上は走り高跳び。生徒会は整美部長。
児島明子というミスユニバース日本代表、世界でミスユニバースになった。
「こじまの~あきこ!」 ・・・・石原裕次郎の「錆びたナイフ」という歌の最後が・・「小島の秋だ」で終わるのだが
このメロディの所だけ「児島の明子」と何度も歌うやつがいた。H君だが、「小島 ○ ○」さんが大好きで、惚れていたようだ。クラスで こじまのあきい+(無音) と冷やかしたものだ。
そうするうちに秋になり
伊勢湾台風から50年(昭和34年9月26日)
夜になると風雨が強まり
借家の玄関に何枚も板切れを父と打ちつけたが
それも、風の強さには叶わない
太い木材を2本持ってきて
玄関の戸が重なる真ん中につっかい棒として
弟と二人で必死に押した
父は 外だ
風が吹くたびに 玄関の戸が吹き飛ばされそうになる
必死に押しているうちに
木材を止めていた敷居がぎしぎしと音をたて曲がり始めた(そり始めた)
この戸が破れたら裏の戸を開け、風を通すしかないと覚悟していた。
どれだけの間押していただろう
ふっと 風が止まった
台風の目に入った 空には星が見えた
また風が強くなったが、吹く方向が違ってくる
もう少しだ
終わった
電気工作が得意であったため
「鉱石ラジオ」という電源が無くても電波の力だけで放送が聞こえるラジオを自作していた。
むろん停電だったので、これが大活躍。情報はしっかりとれた。
「日本海へ抜けました・・・・」 よくこんな家で持ちこたえたものだ。
家が倒壊するといけないので、親がありとあらゆる布団を積み上げて安全地帯を作ってくれた。
小学校の頃の台風のときもそうした。わが子にも教えてある。
その布団をしいてぐったりと寝た。
翌朝は 快晴! 全員無事がなによりだ。家の瓦はスレートなのでよく飛んでいた。から~んから~んと飛ぶ。
我が家のやや南の家が全壊。すぐ裏の家も全壊。 岐阜市で400軒ほどが全壊だと知る。
吉田君が 「学校見に行こう」と誘いに来た。
そうだ、学校だ!
屋根瓦は全部吹っ飛んでいた。床上浸水、校庭は、横を流れる荒田川の泥水やゴミで覆われていて匂う>
壊滅的な状態であった。何日後に授業を再開したか覚えがない。掃除ばかりしていた。
岐阜駅の様子。どこもかしこもひどかった。父はトラックに臨時の船をつくるドラム缶をいくつかと板切れやらなんやら積んで名古屋市の港区の親類へ救出に向かった。
名古屋はさら水害がひどかった。(おじ夫婦は先年他界)
教科書もないやつもいて、とんでもない年だった。写真がのこっているかなあ。卒業アルバムはあったと思うが・・・・・。
伊勢湾台風50年ということで色々な番組が組まれそうだ。
昭和34年9月26日。
中学2年生のときだ。
この台風は太平洋上では890ミリバール前後の猛烈なもの。
名古屋へ上陸して929ミリバールが記録されているものすごさだ。
ごーごーごと今までに聴いたことがない恐ろしい音。
みしみしみしと家が鳴る。
から~んから~んと瓦が飛ぶ。
玄関の戸に太いつっかい棒をしてあるのだが
あまりの強さに、棒が止めてある玄関の上がり小口の(横になっている柱?)
がそりかえって、外れそうになる。
父親は、合羽を着て外を補強している。
私達兄弟は、玄関のつっかい棒を必死で押し、玄関の戸が抜けないよう頑張る。
しばらくして、風がす~っとやむ。
いわゆる台風の目だ。星が見えた。
しばらくして又風と激しい雨だ。
風がまわる。向きが変わる。
行った! 助かった。家が倒れずにすんだ。
借りている家は、岐阜県で有名な「岐阜の和傘」を作っていた仕事場のあとの部屋を借りていた。部屋が小さいので押入れの天井をぶち抜き、屋根裏に弟と暮らせるような場所を作っていたが、そこも無事だった。だから、よくぞ耐えてくれたとおもったものだ。
朝になって便所から北を覗くと「あれ!家がない!」。倒壊していた。
我が家から少し南へ行った家も倒れていた。
当時は 岐阜市で 全壊は約400戸。
さっそく中学校へ行ってみた。
屋根瓦がほとんどない。 グランドは、学校の横を流れる「荒田川」の泥水がながれこんで全面を覆っている。臭くてたまらん。学校はめちゃめちゃだ。
吉田君(退職後他界)も来ており、先生になにか手伝うことはないか聞いていた。
親類(母の弟)が名古屋市の港区に住んでおり救助が必要。自衛隊の援助も始まっていた。父は仕事のトラックの上にドラム缶で作った船をつみ名古屋へ救助に向かった。いろいろあったが台風は傷跡を残して去った。
いまだに、あの恐ろしさは膚から消えない。
どうすればよいか準備は出来る。
「鉱石ラジオ」<電池もいらない小さな音しかでないラジオ>を自分で作って持っていたが、それが大活躍した。日本海へぬけた情報も得ることが出来た。
当時の校長は深浦泰平。
「凛とした眉目のあざやかさ」という色紙を僕にくれた人だ。
いまだに、凛として、あざやかな眉目で暮らしたいと思っている。
24歳の春だ。 昭和43年5月の給料表と、表のあたりにあった100円札2枚。偶然に出てきた。なんでも袋につめる悪い癖があったせいだ。
4月の初給料では親に酒を買って、小遣いも少々もらってもらった。
岐阜県立K高等学校定時制に赴任して2ヶ月目の5月21日のことだ。日曜日なら前日に支給されたはずだ。この当時は土曜日はいわゆる半ドン。定時制も授業はあった。
このころは、先輩につれられて飲み屋さんへ行き、ほとんどお酒に消えてしまった。
また、マージャンでよく巻き上げられたことがある。面子が足らないので、お前やれと言われると体育系的なところがあって嫌だとは言えない雰囲気があった。今から思うといい授業料だった。(おちついたら自分史も書き続ける予定ですが、思いつきで書きました)
さて、こういう表や100円札をどうしようかな。また袋につめそうだ。
昭和26年。2回目の転居。あいまいな記憶だが、住所は愛知県東春日井郡守山町瓢箪山。「ひょうたんやま」という名鉄瀬戸線の駅がある。数年前、おじの葬儀の時に五十数年ぶりにその駅に降り立った。もう少し東へ行ったところに尾張旭市がある。自家用車の件で何度かその町へ行ったときにはただ通過したことはある。駅舎もすっかり変わり、町並みも面影はまるでない。ただ、駅から南へ向かう細い道は当時のままだ。
ひょうたん山というのは形が瓢箪に似ているからだろうが、実際は古墳だ。前方後円墳だ。4年生か5年生の時、夏休みの課題でこの地区の古墳を調べたことがあった。
新しい家の大家さんは今吉さん。すぐ前の家は相馬さん。相馬さんは私に鉱石の見本が沢山入った標本のようなものをくれた。どこかにしまってあると思う。大家さんの南の庭先には芋の苗床があった。長方形で、高さは数十センチくらいで藁でかこってあるかんじだ。大家さんの思い出は他にもあるが・・・。
昭和27年。小学校へ入学。一年生の担任の先生は近藤信子先生。隣の席の女の子は黒岩のりこさん。一番前の席だった。初めて写真屋さんで撮った写真。ハンカチを胸にとめていた。
通知表。旧漢字「國民の祝日」が懐かしいが、示偏の「祝う」がワープロで見つからない。
10円玉が出たのが昭和26年。ギザ10だ。
歌:ミネソタの卵売り、アルプスの牧場、僕は特急の機関士で、
上海がえりのリル(船を見つめていーたー、浜のキャバレーにいーたー・・・・)
雪山賛歌、高原の駅よさようなら、テネシーワルツ、憧れの郵便馬車
食べ物:キャラメルがでた。うまかった。