本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (37p~40p)

2016-01-28 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








 続きへ
前へ 
 “『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
こと食糧管理事務所さえも存在していないということをそこで知るはめになった。となれば岩手の穀物検査所や食糧管理事務所がかつて所有していたであろう資料等はもう存在していないのではなかろうか。したがってこのルートから千葉恭に近づくことはもう無理であると覚った。もう考えられる他の方途は見つからない、一切を諦めるしかないのだろうか。
 しかしもう一人の私が言う、下根子桜時代の賢治の活動の評価や真相解明は千葉恭がかなり重要な鍵を握っているはずなのに、なぜこれほどまでに彼のことが賢治研究家によってほとんど調べられて来なかったり公にされていなかったりしているのだろうか、このことをこのままにしておいていいのかと。そして、自力でもうこれ以上アプローチ出来ないというのならば他人の力を借りればいいじゃないかと。

3 他人の助けを借りて
 いくつかの方途であの「日」及び「期間」のことをここまで探ってきたのだが、「日」及び「期間」どころか千葉恭の出身地さえも全く確定出来ない。もうこなると他人の力を借りるしかない。
 宮澤賢治研究家C氏
 そこで訪ねたのが宮澤賢治研究家のC氏である。以前松田甚次郎のこと等に関して教えてもらいたくて訪ねたことがある地元の宮澤賢治研究家の一人であり、実証的なアプローチを大切にしている方である。するとC氏は
「私も千葉恭のことは気になっていて、以前恭が食糧管理事務所盛岡支所長時代に直接本人を事務所に訪ね、取材を試みようとしたことがある。ところが訪ねた時間帯が悪かったせいか体よく恭に取材を断られてしまった」
と打ち明けてくれた。また、
「伊藤忠一に千葉恭のことを訊ねてみようとしたこともあったが、忠一からは言下に『そんな人は知らない』と言われてしまった」ということもC氏は教えてくれた。
 そして、C氏は残念ながらその「日」及び「期間」についてははっきりとは分からないということであった。
 つれない千葉恭本人の取材拒否、にべもない伊藤忠一の返事に対してC氏はさぞかし落胆したことであろうと同情するとともに、もうこうなると他人に頼るという方法は閉ざされてしまったと私は肩を落とすしかなかった。私が知っている宮澤賢治研究家はその当時他にはいなかったからである。
 救世主A氏
 またしても途方にくれてしまった私は、宮澤賢治研究家C氏でさえもかくの如くであったのならば素人の私としてはやはりもう諦めるしかないのだろうかとすっかりしょげかえってしまった。二進も三進も行かなくなった私は先輩のA氏にそのことを愚痴ってしまった。A氏とは私の趣味の一つ「山野草」の師であり、時々近隣の山々に連れて行ってくれる方である。そしてそのA氏は博覧強記、山野草のみならず宮澤賢治に関しても造詣が深い方でもある。そこでその先輩に「千葉恭という人物のことを知りませんか」と訊いてみた。するとそれが思わぬ展開となっていくのだった。A氏は
「待てよ、私の知り合いのDさんならば千葉恭のことを知っているかも知れない、いつかDさんに訊いてみるから」
と請け負ってくれた。私はもう千葉恭に近づくことは絶望的なのだろうかと思っていた頃であり、A氏のこの一言は私に一縷の望みを再び灯させてくれた。
 そしてしばらくしてA氏から嬉しい知らせがあった。
「Dさんから例の件を訊いてみたところ、千葉恭の息子さんのFさんという方が胆沢町に住んでおられるようだから、あとは直接Dさんに連絡してみなさい」
という。A氏が救世主に思えた。やった!これで切れかかっていた千葉恭との糸が再び繋がったと安堵した。
 D氏からの紹介
 私は胸を高鳴らせながらD氏に連絡を取った。するとD氏は
「胆沢町に千葉Fさんという方がいて、Fさんは千葉恭の息子さんです。住所は分からないが胆沢図書館に問い合わせれば分かると思う」
と教えてくれた。切れかかっていた糸が少しずつ太くなって行くような気がした。
 私はA氏とD氏に感謝しながら時を置かずその胆沢図書館に問い合わせた。
「私は千葉恭という人物のことを知りたいと思っている者ですが、Dさんから貴館ならばその息子さんである千葉Fさんという方の住所を知っているはずだということを教わりました。是非教えていただけないでしょうか」
と。すると受話器の向こうから
「しばらくお待ち下さい」
との声。期待と不安を抱きながら待っていると程なく
「それでは調べて後程連絡いたします」
という返事をもらった。私は心のうちで快哉を叫びながら、お礼の言葉を添えて受話器を置いた。おそらく良い報せが届くはずだと確信した。
 それにしても以前訪れた大船渡市立図書館といいこの度の奥州市立胆沢図書館といい、図書館という組織やそこの職員の方々はとても親切で誠意のこもった対応をしてくれるものだとつくづく感心した。また、もちろんC氏、A氏、D氏各位にも感謝したい。いままでは全く近づけずにいた千葉恭にもしかするとかなり近づけるのではないかということになったからである。そして、人の繋がりが大切なんだということも改めて教わった。

4 千葉恭の三男に会う
 切れかかっていた糸がもしかすると繋がるかも知れない…。わくわくしながら胆沢図書館からの回答を待っていると、それは期待通りのものであった。
 千葉恭の三男F氏と連絡が付く
 胆沢図書館からの回答は
「Fさんの住所が判りました。また、Fさんからあなたに電話番号を教えてよいという了解ももらいましたので直接連絡を取ってみて下さい」
であった。私は喜びのあまり抃舞した。もう千葉恭に近づくことはほぼ不可能と思っていたのに三男のF氏の連絡先が判ってしまったではないか、と。
 早速私は教えてもらった電話番号先に電話を掛けた。
「私はFさんのお父さんの恭さんのことを知りたいと思っている者です。お父さんは約半年ほど宮澤賢治と一緒に暮らしたと聞いているのですが、そのことに関して教えていただきたく、近いうちにお邪魔したいのですが宜しいでしょうか」
と。するとF氏は
「それはいいのですが、父が宮澤賢治と一緒に暮らしたとは聞いているが、父はそのことを私達にはあまり喋らなかったし、私も聞きもしなかったので多くのことは知らないのです。それで宜しかったならばどうぞお越し下さい」
というので私はもちろん喜んで、是非お願いしますと言って訪問の日を約束してもらった。
 三男F氏の許を訪ねる 
 さて約束の当日、雪の舞う中を先ずは胆沢図書館に向けて車を飛ばした。今回のF氏紹介のお礼を述べようと思って立ち寄ろうとしただけでなく、実は、もしF氏の自宅へ行く場合には立ち寄ればその場所を教えますからと胆沢図書館の方は親切に言ってくれていたからその好意に甘えようとしたこともあった。図書館に立ち寄ったならば館長さんがわざわざF氏の住所略図を描いてくれた。図書館の有り余る親切に恐縮し、感謝しながらそこを後にしてその地図を見ながらF氏の自宅へ向かった。
 F氏の自宅はその図書館からそう遠くないところにあった。多少緊張しながら玄関のチャイムを押すと私よりやや年配の男性が出てきてくれた。千葉恭の三男F氏その人であった。そしてお聞き出来た賢治に関わる事柄を箇条書きにすれば次のようになる。
・父は賢治のことは多くは語らなかった。
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
・穀物検査所をいつ辞めていつ復職したかは分からない。
・トマトだけ食わなければなかったこともあったと父は言っていた。
・賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも言っていた。
・昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報もらったのだが弔問に行けなかったと言っていた
・昭和20年のフェーン現象による久慈大火の際に賢治からの手紙などは燃えてしまったと言っていた。
・父が集めた資料は残っていない。
・NHKからの取材があったこともあるがその際にもあまり応えなかった。
・昭和28年にNHKの賢治に関わる座談会に出たことがあり、その記念品を持っていた。
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作されたと言っていた。
・父はマンドリンを持っていた。
などであった。
 千葉恭の出身地判明
 さてF氏に会って教えてもらったことはもう一つあり、それが最も嬉しかったことであり、
  ☆千葉恭の出身地は水沢の真城折居である。
ということであった。このことをまずは知りたくてそれまであちこち駆けずり廻って来た訳だがそのことがやっと判明した。なお、現在その実家の建物には誰も住んでいないということも知らされた。また未だ公になっていない千葉恭の写真を見せてもらった。それがこの本の表紙の写真である。昭和10年頃の若かりし千葉恭の写真であり、なかなかハイカラな人である。
 というわけでまとめてみると、F氏に会うことが出来た結果、
千葉恭に関しては
・いつからいつまで下根子桜で生活していたかは不明。
・穀物検査所をいつ辞め、いつ復職したかたも不明。
・久慈大火後に千葉恭が集めたであろう賢治に関する資料は現存せず。
・出身地は水沢区真城折居である。
ということが確認できたことであった。
 これでやっと念願の千葉恭の実家の住所(出身地)が判ったし、私としては2葉目の写真も見ることが出来て一気に千葉恭に近づけたような気がした。そして、私の知る限り、千葉恭の出身地を公に正しく明らかにしている宮澤賢治研究家はいないと思うから、それが判明出来たので大いに満足であった。
 下根子桜寄寓の切っ掛け
 以前、『イーハトーヴォ復刊2号』の中で
「(宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました」
と寄寓の切っ掛けを千葉恭が語っていたことを知った。一方、このことに対してF氏は
「父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもなし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
と私に教えてくれた。そういえば千葉恭は実家の水田は8反歩、畑が5反歩と言っていたはずだからたしかにそれほど田圃は広くはない。まして昔は今と違って、途中で職を辞めることは恥ずかしいことであるという風潮があったはずだから、穀物検査
****************************************************************************************************

 続きへ
前へ 
 “『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』の目次”へ。

 ”検証「羅須地人協会時代」”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿