本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(92p~95p)

2016-03-04 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************

第三章 伊藤ちゑと高瀬露
 
 まずは、『宮沢記念館通信第112号』に載せてもらった拙論「伊藤ちゑからみた賢治」を以下に転載する。

 「伊藤ちゑから見た賢治」
 意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)の中には次のようなことが述べられている。
 それは、伊藤ちゑと宮澤賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対してちゑは、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とか、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
という哀願や批難を森宛書簡の中に書いてあるということが、である。
 しかもそれだけではなく、まだあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中においても、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋(〈注十七〉)花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしている。
 したがってこれらのことから、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということがもはや否定できない。巷間、賢治が結婚したかった〈聖女〉ちゑと云われているというのに何故だったのだろうか。
 実は、当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていた。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに『同園八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 そして、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があるという。
 ところで、昭和3年6月の大島訪問以前に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知なかったことによる誤解だった。
 なぜなら、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくるからである。
 すなわち、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたと。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言であったと考えられる。
 またそれゆえに、先の森宛書簡に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも。
 そして、もしこのような解釈の仕方が実はその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。

〈注十七:本文92p〉伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近一人歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。
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 以上が、平成27年3月31日発行『宮沢賢治記念館通信第112号』に載ったものである(一部変更あり)。
 思考実験「悪女にされた切っ掛け」
 その後、私は賢治研究家B氏から、
 伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった。
と宮澤清六が直接B氏に証言したということを教えてもらった(平成27年9月20日、花巻F館にて)ので、これと先のちゑの藤原嘉藤治宛書簡の記述とを併せて考えれば、
 伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ断定できるだろう。そしてそれは奇しくも、
(賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p >
と高瀬露が遠野時代の同僚に証言しているが、その「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後のことであったということになる。
 したがって、この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることに気付かせてくれたからだ。
 さて、先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、賢治研究家M氏から過日、
 露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうね。
と問われた。
 たしかに、拙論で検証したみたところでは、露が〈悪女〉であるという客観的な根拠は何一つ見つからないから彼女は巷間言われているような悪女では決してなく、それどころかどちらかといえば聖女の如き人だったということを同拙論で実証できたものの、現実には巷間そうされていているわけだからその「理由」は必ずあるはずだ。しかし私はそれは見出せていなかったので、その問いに対して、
   その点に関してはわかりませんでした。
とお答えするしかなかった。
 実際、この点に関しては誰一人として公には言及していないはずだ。そして実は私もそこに踏み入るつもりはそれまではあまりなかった。露が巷間言われているような〈悪女〉でないということは、ある程度賢治と露のことを識ってしまえば常識的に明らかなことだったからそれを仮説として、その検証をし、できれば実証したいという一心だったからだ。
 しかしそれをやり遂げた今、その「理由」を賢治研究家から問われて無責任だったかなと反省してみた。少なくとも拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上は、その点に関しての私見を一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えてみた。
 そんな時にたまたま教えてもらったのが上述の清六の証言だが、そのことを知ってあることに気付かせてもらった。それは、先に引用したように、
 露が「下根子桜」に賢治を訪ねていたのは昭和2年の夏までであった。
ということと、
 伊藤ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのはほぼ昭和2年10月であると言える。
ということの時間的な推移から示唆されることである。
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 では、ここからは思考実験に切り替える。
 巷間、賢治は高瀬露を拒絶するために幾つかの奇矯な言動をしていたと云われている。しかも、昭和2年10月に見合いのためにちゑが花巻を訪れたとなれば、それ以前に見合いの話は既に進んでいたと考えられる。すると、この時間的な流れはあまりにもタイミングが合いすぎているので、普通に考えて、
 昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合い話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するためにそのような奇矯な言動をするようになった。
ということの蓋然性が高い。
 ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
 大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>
というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
   私は(伊藤ちゑさんと)結婚するかも知れません――
とほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に私と話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)104p~>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを当時真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言えそうだ。
 ちょうどその頃のちゑは、二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていて、まるで聖女の如き女性であり、しかもモダーンでかなりの美人でもあったということだから、東京に住むそのようなちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もないとも考えられる。
 しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合いのために花巻に一度は行ったものの(〈注十八〉)、この章の始めの「伊藤ちゑから見た賢治」で明らかにしたように、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になってやっと初めて覚ったと考えられる(まさに昭和6年10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒)。
 とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対す
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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