本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(96p~99p)

2016-03-05 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
るその背信行為等を恥じ、昭和7年に露に詫びに行ったようで、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという。このことについては、露の遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人K氏から教わった(平成26年7月14日、遠野市)ことであり、彼は、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると語っていた。(これらの詳細については拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい)。
 またもちろん、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったとしても、賢治は露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共になかろう。それは、賢治は露とは少なくともある一定期間オープンでとてもよい関係にあったし、なにしろ賢治は露からいろいろと世話になっていたからである。だからそうではなくて、賢治周辺の誰かが、賢治のために良かれと思って露を〈悪女〉に仕立てたのだろうが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めてしまったという、到底許されざる行為があったということなのだろう。
 おそらくその「誰か」が、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像にはそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。
 あるいは、父政次郎からも厳しく叱責されたという賢治のその幾つかの奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない〈悪女〉に仕立てるしかなかったのである。だから、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で露は犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪だ。
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 以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない〈悪女〉にされたのかの切っ掛けの説明がつく。言い換えれば、有力な次のような仮説〝○☆〟がここに立てられる。
 高瀬露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」は伊藤ちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。……○☆
 とはいえ、この仮説の実証は容易ではない。このことを裏付けてくれそうな証言も資料もまず思い付かないからだ。ただし一つだけその方法論として私が思い付くのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとかたって『校本全集第14巻』が公にした、一連の「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」があるが、これに対応する「賢治宛の露からの来簡」が実在しているというのであればそれを用いる方法である。
 ところで、同巻はその「新発見」の際に、
 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
と34pで述べているが、残念ながらそこにはその根拠も理由も明示されていないから私だけのみならず、一般読者(〈注十九〉)にとっても全く判然としていない。さりながら、それらが全くなくてそう嘯いて活字にするようなことを『校本全集』がするわけがないはずだから、そこには何らかの典拠があってのこと。
 というのは以前、賢治が「下根子桜」で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについて、どうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
 すると私に考えられることは唯一、前述したような「賢治宛の露からの来簡」が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したということである。
 もしそうであったとしたならば、先の仮説〝○☆〟の検証のためのみならず、こちらの「判然としている」の根拠という観点からも「賢治宛の露からの来簡」の果たす役割は大きいと言える。となればその存在や如何?

〈注十八:本文95p〉森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
〈注十九:本文97p〉これは私のみならず、次のような方の指摘もある。
 例えば、 Web上でtsumekusa氏が管理されているブログ〝「猫の事務所」調査書〟の平成20年11月16日付「「手紙下書き」に対する疑問」において、次のような疑問が呈されている。
 …この下書きは文中に相手の名前もなく、内容を読んでみれば相手は女性であるらしいことは判りますが、 誰に宛てて書いていたのか全く判りません。
 そんな下書きが「高瀬露宛て」とまで断定できる理由は何なのでしょうか。
1.「特別な愛」「この十年恋愛らしい……」
  「独身主義をおやめに……」等恋愛や結婚に関する話が出てくるから
2.「慶吾さん(引用者注・高橋慶吾氏のこと)にきいてごらんなさい」という一文があるから(252系下書きその1)
3.「「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。」という一文があるから(252c)
 考えてもこれだけしか理由が挙がってきません。これだけの理由で高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
     …(筆者略)…
 この下書きを「高瀬露宛て」と断定したのは上記理由のみなのか、それとも他に「高瀬露宛て」とできる決め手となった理由があったのか、そういったことを今からでもきちんと公表して頂きたいと思います。
 あるいは、signaless5氏が管理されているブログ〝りんご通信〟の平成21年8月25日 付「書簡 252a,b,c について」においては、
『新校本宮澤賢治全集・第14巻』掲載の書簡252a,252b,252c は、【あて名不明】の下書きであり、昭和52年発行の校本によって初めて高瀬露宛てと判断されたものです。
 252aには他に5点,252cには他に15点の比較的短い下書き群があり本文とされたものと合わせると計22点にも及びます。
 しかし、私はこれらの下書きが、「高瀬露あて」と断定されていることに大いに疑問を持っています。
 新校本に於いてもこれらは、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と書かれているだけでその根拠はひとつも述べられてはいません。
と指摘している。つまりこのお二方とも、「判然」などしておらず、その根拠も明らかでないと断じている。

 賢治宛来簡が実は存在している
 私には、賢治に関して以前からずっと疑問に思っていたことの最たるものの一つとして次のことがある。
 それは、賢治の書簡は下書、いわば反古までもが残っていて公にされているというのに、来簡が一切公になっていないというアンフェアな状態にあるということだ。そしてこの状態は、往簡だけで、場合によってはその下書だけで賢治に関わることを一方的に解釈してしまうことを招きがちだから、それでは正しく物事を理解できていないことが当然危惧されるから好ましい状態ではない。
 にもかかわらず、「賢治宛来簡が一切ない」という現状が近々解消されるという話も聞かない。そしてそもそも、今までにこのことが真剣に公的に論議されたことがあったのだろうか。管見故か、私はせいぜい次のようなことしか知らない。
S 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
T それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁かれ方をしていますが。
I よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
<『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185p>
 とはいえ、これでは始めからこの件に関しては逃げ腰であるとしか私の眼には映らない。ただし、このやりとりからは逆に、賢治宛来簡がないわけではなさそうだということだけは窺える。
 一方このことに関連しては、北条常久著『詩友 国境を越えて』の中に次のようなことが述べられている。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面した時のことに関してであり、
 蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。…(筆者略)…
 そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
 心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
 賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
 心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。
 賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
<『詩友 国境を越えて』(北条常久著、風濤社)204p>
ということである。そうすると、宮澤家宛(父政次郎宛や弟清六宛等)の賢治書簡が残っていてしかもそれらは公になっているのだから、この北条氏の記述とを併せて常識的に考えれば、賢治宛来簡も少なくとも何通かは大切に保管・整理されているとやはり思いたくもなる。
 それからこのことに関連してもう一つ述べておきたいことがある。実は、あの『生徒諸君に寄せる』がはじめて公表されたのは昭和21年4月号の「朝日評論」上にてであることが『校本全集第六巻』で述べられていて、「朝日評論」編集部の解説文には、その発見の経緯等が、
 故宮沢賢治作〝生徒諸君に寄せる〟の詩一篇は、岩手県稗貫郡花巻町の故人の生家に住んで、その作品の整理紹介に畢生を献げてゐる令弟清六氏の手によつてこのほど空爆で罹災した書類のなかから発見されたものである。草稿は故人が晩年、技師として招聘された東北砕石工場との往復書簡の堆積の底から発見されたバラバラのノートの頁何枚かの裏表に、赤インクで書かれてゐる。用紙、筆蹟などから見て一九二七年(昭和二年)の作品らしく、作品番号一〇九〇前後のものと推定される。
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)785p>
と紹介されているからである。
 つまり、昭和20年8月10日の空爆による火災で賢治の生家が焼けてしまった後にも「東北採石工場との往復書簡の堆積」
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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