本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(68p~71p)

2016-02-27 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していることなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(筆者略)…
 東京に着いてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気に見えるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(筆者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~〉
という見方である。
 一方、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 (昭和2年の)夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、…(筆者略)…その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起らない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという(〈注十四〉)。
 そうすると、先の佐藤氏の引用文によれば、伊藤七雄は当時労農党員であったということでもあるから、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうなので、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。
 それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~〉
からも裏付けられるだろう。
 そういえばこの昭和3年とは、3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月11日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという年だ。となれば、前頁で述べたような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃避したということは十分にあり得る。さらには、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、『(賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが』と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からはそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたことはほぼ疑いようがない(後述「論じてこられなかった理由と意味」、83p~参照)から、なおさらにあり得たことだろう。
 しかも、これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に半月以上もの期間花巻を留守にしてしまったのだから、帰花後賢治はそのことを気に掛けながら、早速周辺の農家の水稲の生育状況等を大車輪で見廻っていたはずだ。ところが賢治は、花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていた(65p参照)と言える。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に半月以上もの間上京していて花巻を留守にしていたから、結局その農繁期に稲作指導等をまったくしない計約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この点からいっても、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに頷ける。しかもこの時期、当時の賢治は高瀬露との関係でトラブルをかかえていたからそこからも逃げ出したかったという可能性も否定できないので、「東京への逃避行」はなおさらにあり得た。

〈注十四:本文68p〉名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長には泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)219p~>
ということも述べている。

 「演習」とは「陸軍大演習」のことだった
 さて前頁の川村の証言によれば、賢治は昭和2年、川村との「交換授業」が一段落した時に、『日本に限ってこの思想による革命は起こらない』『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町をまわったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。
 ところがあながちそうとばかりも言えなさそうだ(後述84p参照)。それは煤孫利吉によれば、
 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。…(筆者略)…事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談'67・8・8採録)
<『國文學』昭和50年4月号(學燈社)126p~>
ということだし、その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだからだ。
 そしてこのことに関しては、父政次郎も小倉豊文に対して
 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
    <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48p >
ということであり、川村尚三も、
 賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。…(筆者略)…
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋―三間に一間半ぐらい―をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
と語っているというし、しかも『新校本年譜』によれば、
 昭和二年一一月から三年三月の三・一五事件で検挙されるまで「無産者新聞」の「編集局の一員として、各地の支局通信を管理もしていた」石堂清倫は「岩手の花巻支局員は有能かつ熱心なひとで、一カ月に二回は通信をおくってきました、そのなかで宮沢についての報告が二回あいり、一回は無新の輪転機購入カンパニアに応じて彼から金子をもらったとあります。」「二回目の通信には彼が労農党の支部に印刷器(たぶん謄写版でなかったかと思いますが)をカンパしたとありました。」と栗原敦あての書信(平成八年一〇月二九日消印)で証言している。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)361p>
という。よって、もはやカンパの受け取り側の者までもがこのように証言していることになるから、賢治は労農党の強力なシンパであったことはこれで確定的だし、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた『啄木会』の賢治は会員でもあったということを川村は証言しているということになる。
 どうやらこれだけの証言が揃った以上、賢治はかなりの期間にわたって労農党の少なくとも「強力なシンパ」以上の存在であったことは間違いなかろうから、官憲からはかなりマークされていたであろうことはもはや疑いようがない。
 そこでもう少し『啄木会』のことを調べてみようと思って資料を漁っていた時、たまたま手に取った『啄木 賢治 光太郎』の中に、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~>
という記述に出くわした。その途端私は、
 これだっ!、件の「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったのだ。
と直感し、抃舞した。
 そして思い出した。たしか、何かの本に
 八重樫賢師は賢治から教えを受けた若者で、下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていたという。しかもこの八重樫は「陸軍大演習」の直前に要注意人物ということで北海道に所払いとなり、客死した。
というような内容のことが書かれていた(〈注十五〉)ことを。
 それからもう一つ、賢治の教え子の小原忠が論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
<『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p >
と述べていたことも思い出した。もちろん小原が言うところの「昭和三年の大演習」とはこの「陸軍大演習」のことである(それ以外の「昭和三年の大演習」は考えられないからだ)。
 こうなってしまうとただごとではない。「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」で川村が捕まり、八重樫が北海道に追放されたのだから、彼等との繋がりの強かった賢治に官憲の手が伸びないはずがない。そして前述の小館長右衛門は当時戦闘的な活動家だったと聞くが、この時の「アカ狩り」によって彼が小樽に奔ったのも昭和3年8月だった(後述73p参照)はずだが、賢治が「下根子桜」から撤退したのも昭和3年8月だ。となれば、この「撤退」が「陸軍大演習」と無関係だったということはもはや否定しがたい。
 しかもこの「演習」であれば「架橋演習」等とは違って、教え子の小原が知っていたように、このままでも教え子の澤里にも十分意味が通じたであろう(64p参照)。それは、当時の新聞は八月末以降この「大演習」に関してしばしば報道していたからでもある。どうやら、あの「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったとして間違いなさそうだ。

〈注十五:本文71p〉名須川の「賢治と労農党」には次のような注がある。
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えをうけていた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇御幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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