本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

〔わたくしどもは〕(やはり露では…)

2015-12-08 08:00:00 | 賢治の詩〔わたくしどもは〕
 ところで、上田哲は論文「「宮沢賢治伝」の再検証(二) ― <悪女>にされた高瀬露―」の中で、高瀬露の同僚の菊池映一氏の次のような証言を紹介している。
 露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
               <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81pより>
そこでこの菊池氏の証言に従えば、
    高瀬露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏までの約一年間であった。
ということが導かれる。するとこれは〔わたくしどもは〕の詩の中の、
    わたくしどもは/ちゃうど一年いっしょに暮しました
とかなり重なって見えてくる。   
 そしてもう一つ、この詩の日付である「昭和2年6月1日」とくれば、露に関係することですぐに思い浮かぶのがあの「マツ赤ナリンゴ」の登場する葉書であるが、その葉書とは、この日の直後の6月9日付で高橋慶吾に宛てたものであり、そこには小倉豊文によれば、
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113p>
としたためられているという。すると、この書面からは6月9日以前まで二人はとてもよい関係にあったということがわかるが、「女一人デ来テハイケマセン」と言ったようなので賢治はこの頃から露に距離を置き始めていることも教えてくれている。そして一方、露の方はその後の自分の対応の仕方を「アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ」と書き添えているから、その傷心ぶりが伝わってくる。
 そこでもう一度〔わたくしどもは〕
一〇七一   〔わたくしどもは〕      一九二七、六、一、
   わたくしどもは
   ちゃうど一年いっしょに暮しました
   その女はやさしく蒼白く
   その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
   いっしょになったその夏のある朝
   わたくしは町はづれの橋で
   村の娘が持って来た花があまり美しかったので
   二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
   妻は空いてゐた金魚の壼にさして
   店へ並べて居りました
   夕方帰って来ましたら
   妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
   見ると食卓にはいろいろな菓物や
   白い洋皿などまで並べてありますので
   どうしたのかとたづねましたら
   あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
   ……その青い夜の風や星、
     すだれや魂を送る火や……
   そしてその冬
   妻は何の苦しみといふのでもなく
   萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
を読み直してみると、どうも私には「その女」とはやはり露のことではなかろうかと思えてくる。
 それはまず、この詩の字面にに従えば「その女」と賢治は「いっしょになったその夏」から「一年いっしょに暮し」たということだから、これは今回の投稿の始めに述べたように「かなり重なって見えてくる」からだが、「その女は」の「その」という「客観的な意味合いを持つ」指示語に、この時点(6月1日)で「その女」と距離を取っていることが窺えるし、そのあげく、「そしてその冬/妻は何の苦しみといふのでもなく/萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました」という連に、その女性からのあっけらかんとした賢治の「逃避」が垣間見えてしまうからである。あるいは、この詩には時制という点で少し混乱があるようだが、最後には「そしてその冬/妻は何の苦しみといふのでもなく/萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました」と詠んでいともたやすく「その女」を死なせているところに、作者賢治のもう後戻りはしないという決意と心の闇を感じてしまうからでもある。
 というわけで、この詩〔わたくしどもは〕と昭和2年6月9日付高橋慶吾宛書簡の内容はかなり一対一の対応がある。そこでもちろん詩の「非可逆性」を踏まえてのことではあるが、この詩の場合には先に述べたような事柄はある程度還元できるのではなかろうか。

 よって、たしかに、
    「〔わたくしどもは〕」のように物語性・虚構性の強いものが…
という指摘のとおりかもしれないが、少なくとも
   わたくしどもは
   ちゃうど一年いっしょに暮しました
      …(略)…
      どうしたのかとたづねましたら
   あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
の部分は、いままでの考察の結果からはそれなりに還元できるのではなかろうか。たしかに「物語性は強い」としても、少なくとも「虚構性が強い」とまでは言えないのではなかろうか。この詩からは、高瀬露に関わる現実的なことが賢治の周辺には起こっていたのではなかろうか、と私には思えてくる。少なくとも、「その女」とは露をイメージして詠んだ詩であったのでは…。

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