本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(72p~75p)

2016-02-28 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
  <鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p~>

 八重樫賢師について
 さて、この時の「アカ狩り」で函館に追われたという八重樫賢師ついてだが、上田仲雄氏の論文「岩手無産運動史」の中に、
 五月以降I(筆者イニシャル化)盛岡署長による無産運動え(ママ)の圧迫ははげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員は金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は拘留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(筆者イニシャル化)新盛岡警察署長により無産運動家の大検束が行われた。この大検束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p >
ということが論じられていて、この時に「一週間以上~一日内外」の検束処分にされた者の注釈が前掲書の68pにあって、花巻署管内では
    川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ) 
という二人の名前の記載があり、おそらく正しい名はそれぞれ川村尚三、八重樫賢師であろう。したがって、八重樫は昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた大検束の際に検束処分にされたと考えてほぼ間違いなかろう。
 一方、この八重樫賢師は「羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者」でもあるということなのでそのことを確認しようと思ってあちこち尋ね廻ってみたところ、平成25年3月6日にD氏(当時約80歳)に会うことができて、八重樫賢師に関して次のようなこと等を教えてもらえた。
・賢師は、昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ行った。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしていたという。
・頭も良くて、人間的にも立派な方だったと聞いている。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたという。
・昭和3年当時、八重樫の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを八重樫の隣人から教わった。
併せて、私はそれまで八重樫賢師の〝賢師〟の読み方はついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたのだが、D氏からその時に〝けんし〟ですよということや、名須川溢男が訪ねて来てD氏の義母から聴き取りをしていた際に、その傍にいてそのやりとりを聞いておりましたということなども教えてもらった。
 私はD氏のこれらの証言などを聞きながら、昭和3年の夏に花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そして、八重樫は昭和3年8月頃に官憲に追われて函館へ奔り、程なく客死していたということはほぼ事実であったのだろうということもである。
 あるいはこれとは別に、私の先輩T氏からは、
 私のおばが、『ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』と言っていた。
ということを教えてもらった(平成26年2月19日、花巻市I館にて)。私はそれを聞いてすぐに、その「鍛冶町のけんじ」とは昭和3年に函館に追われた「八重樫賢師」その人に他ならないと確信した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」だからである。そしてこのことは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」中の、
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき…
<『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p>
という記述も裏付けてくれる。
 よって、
・八重樫賢師は宮澤賢治とかなり親交が深かった。
・八重樫賢師は「下ノ畑」の傍で農園を開いていた。
ことはほぼ間違いない事実であった判断してよさそうだ。なお『新校本年譜』の310pには、八重樫賢師は花巻農学校で行われたあの国民高等学校の聴講生であったという記載もある。
 以上、これらのことに基づけば、昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であり、同年8月頃に八重樫は特高から追われて函館に奔ったということはほぼ事実であったと判断できる。
 また、前出の小館長右衛門についても、
 労農協議会に属し、最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
〈注:傍点筆者〉
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と、上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」で述べている。そこで、賢治が実家に戻った時期がちょうどその「八月」だったということに特に注意すれば、当時のそのような社会情勢と賢治の労農党との親和性に鑑みて、賢治も特高等からの強い圧力は避けられなかったことはもはや疑いようがなかろう。言い換えれば、賢治が実家に戻ったことが昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして起こったすさまじい「アカ狩り」と全く無関係だったとはもはや言えなかろう。

 警察からの圧力と賢治の対処
 さて、特高等のすさまじい「アカ狩り」によって、昭和3年夏8月頃に賢治と親交のあった八重樫は北海道は函館に、賢治のことをよく知っている小館長右衛門は同年8月に小樽にそれぞれ追われたというし、そういえば賢治の母校盛岡中学の英語教師平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった(〈注十六〉)。よって、この年の10月に行われる「陸軍大演習(陸軍特別大演習)」を前にしてその8月頃にはとりわけすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていたであろうことが容易に想像できる。
 となれば、そのような社会情勢下では賢治も官憲等からの強い圧力が避けられなかったであろうことも当然予想できる。それは、賢治が実家に戻った時期がまさに昭和3年のその8月であったことが如実に物語っているからでもある。
 とはいえそれは、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであったということが考えられるのではなかろうか。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(筆者略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。宮沢さんは、御自身でも何度も署へ足を運ばれて、署長と……。
<『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし著、新潮文庫)133p>
 たしかに伊藤の「科白」のとおりであり、父の政次郎は花巻の名士で実力者の一人だった。しかも、この「陸軍大演習」の最初の演習が行われたのは花巻においてであり、10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』によれば
 大演習南軍の主力部隊、第三旅團長中川金藏少将の統率の將校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅團長中川金藏少將は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という記事があり、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていたというのだ。ということであれば、花巻警察署は「宮澤マキ」や賢治の父政次郎にはそれなりの配慮もしたであろうことは十分にあり得る。
 そんな折、私は豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることを知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。もし、また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
<『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113p>
これは浅沼自身が著した「私の履歴書」に基づいて豊田が述べたもののようであり、実際にその「私の履歴書」を見てみると、
(早稲田警察の特高から)『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。
<『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
ということである。そこで私は、あの人間機関車でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。そしてなにより、
 特高は当時、危険分子と目した人物に対して「自宅謹慎か検束か」という取引策も用いていた。
ということはほぼ確実であり、この取引策によって万やむを得ず筋金入りの大闘士でさえも「自宅謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを知ることができた。
 一方で、先にも引用したのだが、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、…(筆者略)…。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~>
ということであり、当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家も少なくなかったということも私は知っていた。
 そこで閃いたのが、
 花巻警察署から、検束などはしないからその代わり、この10月に行われる「陸軍大演習」では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまではどうか実家で静かにしていてほしいと懇願され、それに従って賢治は自宅謹慎した。
という可能性を否定できないということだった。
 言い換えれば、次のような有力な仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
が定立できることに気付いた。そして、たしかに今まで考察してきた事柄を振り返ってみれば、
・当時、「陸軍大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
・賢治は当時、労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在だった。
・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えな
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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