本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(48p~51p)

2016-01-08 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
少なくとも三か月は滞在する
 さて、これで「通説○現」の典拠は「沢里武治氏聞書」であるこ
とがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「通説○現」
からは抜け落ちている、賢治の言ったと思われる「少なくとも三か月は滞在する」の「三か月」に関連して少しく考察してみたい。
 まずは、この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、通説となっている「現年譜」にはたして時間軸上で当て嵌るかということを調べてゆきたい。
 ではそのために、「新校本年譜」を基にして「大正15年12月2日」前後の賢治の動きを拾ってみよう。
【大正15年】
11月22日 この日付の案内状発送、また伊藤忠一に配布依
     頼。
11月29日 羅須地人協会講義
12月1日 定期の集りが開かれたと見られる。
12月2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送ら     れて上京。
12月3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼。
12月20日  〃 に重ねて二百円を無心。
12月23日  〃 に29日の夜発つことを知らせる。
【昭和2年】
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪。中野新佐久往訪。
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤     直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日    〃    「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農     村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月27日 「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書発送。
2月28日    〃       〃  下部。
<「新校本年譜」(筑摩書房)より>
となっている。
 これら及び前掲の【表4】~【表5】から判断して、どうみても3ヶ月間は滞京できない。もし当て嵌めるとすれば、この大正15年12月2日上京の際の滞京期間として12月内の一ヶ月弱はさておき、それ以外のある期間、東京にいる賢治と岩手にいる賢治の二人の賢治が存在することになるからである。
 もちろん賢治はその上京の際に「少なくとも三か月は滞在する」と言っただけのことであり、実際そのとおり滞京していたとは限らないという可能性もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、澤里は引き続いて
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と証言している。澤里はこの「三か月」を再びここで駄目押ししていて、澤里の証言は一貫しているのである。したがって、先ほどの「可能性」はほぼ否定されるだろう。
 ここは合理的に考えるならば、澤里の証言するところの約3
ヶ月間の賢治の滞京は、現在通説となっている「宮澤賢治年譜」
には時間軸上で当て嵌めることがどう考えてもできないことが
明らかになった。それゆえ澤里のこの証言「○三」がもし正しい
とするならば、言い換えれば、「沢里武治氏聞書」を「通説○現」の典拠とするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を
大正15年12月2日とすることにはかなり無理があろう。
 それとも「新校本年譜」や「旧校本年譜」担当者には、それ以外
の部分についての澤里の証言は正しいのだが、この証言「○三」
の部分だけはは澤里が偽っているとでもいう確証等を掴んででもいるのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれらを我々読者の前に明らかにして欲しい。

2 当時の賢治の心境上から
 さて、当て嵌めることができないという点で言えば何も時間軸上のみならず、賢治の心境上から考えても当て嵌めることができないのではなかろうか、と私は推測している。
 当時の賢治の心境を忖度
 先に、大正15年12月2日の通説、すなわち「通説○現」の典拠
は澤里の証言であることが明らかになったから、もし澤里の証
言に基づくとするのであればとりあえず「通説○現」は次のよう
に修正されたものでなければならない。
 大正一五年
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 
つまりこのように、「少なくとも三か月は滞在する」が削除されていない形に修正されねばならない。なんとなれば、澤里はこう言っている訳だし、この文言は極めて重要なことを語っているからである。
 (ア) 〔集会案内〕
そこで、まずは当時の賢治の心境を探ってみよう。
 さて、大正15年の旧盆16日(8月23日)に賢治は羅須地人協会を発足させたと一般に言われてはいるようだが、実際にはその日に特別のことを協会員と共に行ったということはなさそうである(『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)167pより)。
 その具体的な最初の賢治の動きは、それからしばらく経った同年11月22日にあの〔集会案内〕を下根子桜の宮澤家別宅の隣人伊藤忠一のところに持参した上で配布を依頼したことであろう。それは謄写版刷りのものでその内容は次のようになっているという。
一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も來ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。
二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協会で開きます。日も短しどなたもまだ忙しいのですから、お出でならば必ず一時までにねがひます。辨当をもってきて、こっちでたべるもいいでせう。
三、その節次のことをやります。豫めご準備ください。
    冬間製作品分擔担の協議
    製作品、種苗等交換賣買の豫約
    新入会員に就ての協議
    持寄競売…本、絵葉書、楽器、レコード、農具、    不要のもの何でも出してください。安かったら引    っ込ませるだけでせう、…
四、今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まづ次のことをやってみます。
    十一月廿九日午前九時から
    われわれはどんな方法でわれわれに必要な科(◎)学     をわれわれのものにできるか    一時間
    われわれに必須な化(◎)学の骨組み   二時間
  働いてゐる人ならば、誰でも教へてよこしてください。
五、それではご健闘を祈ります。       宮沢賢治
<『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)86pより>
 前述したように、一般には旧盆に立ち上げたと言われている羅須地人協会ではあるが、その後は農繁期で忙しかったためなのであろうか特別に羅須地人協会としての活動はなかったようだ。が、やっとのことで(いよいよ農閑期が近づいてきたからだろうか?)具体的な活動を始めようとしてこの〔集会案内〕の配布を依頼したのであろう。
 ところで今まで私は、この案内状は配布を依頼された伊藤忠一が近隣の人に配っただけであろうと認識していたが、賢治はもっと手広く案内していたということを新たに知った。それは、たまたま見ていた『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報 第16号●黄水晶』によってである。
 そこには栗原敦氏の「宮沢賢治資料24/書簡(四通)」が載っていて、次のようなことが述べられていたからである。
Ⅰ〔大正十五年十一月〕佐々木実あて封書〔集会案内〕
二重封筒…消印は「岩〔?〕・〔花〕巻 15・11・〔?〕后0-〔?〕」。…従来、羅須地人協会関係稿中の〔集会案内〕として知られてきたものと同じ謄写印刷物であり、掲出は省略するが、この年十二月の上京の直前、それも十一月中に作られたことも明らかで…本書簡で実際に投函されていたことも確かめられたわけである。
<『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報第16号
●黄水晶』19pより>
 という訳で、この〔集会案内〕は郵送もされていたのだった。この宛先の八重畑村の佐々木実とは、同会報によれば大正十四年三月卒業の花巻農学校四回生であるという。また「八重畑村」とは現在の石鳥谷八重畑のことだろうから、下根子桜から遠隔の地にいた佐々木のような教え子のような場合には郵送で案内したということなのであろう。
 よって、以上のことから当時の賢治の心境を忖度すれば、いよいよこれで念願の「定期の集り」を開催し、農民講座の講義ができる時機が到来したということで賢治は相当意気込んでいたと言えるのではなかろうか。それはこの〔集会案内〕の中身からだけでなく、近隣の教え子や篤農家に広くその〔集会案内〕を配布しようとしたのみならず、遠くの教え子にはそれを郵送していたという事実からも窺える。
 (イ) 講義予定表
 さらには、『イーハトーヴォ第六號』の中に伊藤忠一の回想「地人協會の思出(一)」があり、その後半部分にに次のようなことが記されていてる。
 又講義に對する豫告表はインクで厚い用紙の裏面に印刷されたものでした。此の中に書かれた日割や時間は全く忘却して記憶にありませんでしたが、高橋慶吾様が、大切に現存さしてゐるので拝借して次に掲載しました。
 一月十日(新暦)農業ニ必須ナ化學ノ基礎
 一月廿日(同上)土壌學要綱
 一月丗日(同上)植物生理要綱上部
 二月十日(同上)同上
 二月廿日(同上)肥料學要綱上部
 二月廿八日(同上)同上 下部
 三月中 エスペラント地人學藝術概論
 午前十時ヨリ午後三時マデ参觀も歡迎昼食持參
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
37pより>
 このような綿密な講義プランを立てていたということからしても、賢治はこの当時は相当熱い想いで協会員等に対して農民講座を計画的に開こうとしていたと考えられる。
 (ウ) いくらなんでも
 かつて私は次のように解釈していたこともある。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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