本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「和風は河谷いっぱいに吹く」と虚構

2017-01-15 12:00:00 | 常識でこそ見えてくる




















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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
 「和風は河谷いっぱいに吹く」と虚構
 ある日、入沢康夫氏から拙ブログ〝みちのくの山野草〟に次のようなコメントをいただいた。
「和風は……」の詩の特異性 (入沢康夫) 2013-03-22 08:51:52
 私もかねてから「和風は河谷いっぱいに吹く」については、一筋縄ではいかない問題があると思っていました。第二集や第三集の作品で作品番号や日付が変わるのは、いずれもきわめて稀ですが、ここではその両方が生じています。(番号は「1093」から「1021」へ、日付は「1927・7・14・」から「1927・8・20・」へ。) この変化は、(晩年使用の黄罫詩稿用紙を使った)「下書稿(四)」で生じたもので、なぜ番号や日付を変え(ねばならなかっ)たのか、その理由をあれこれと推測するにつけ、この作品については、前後の作品との内容の齟齬を含め、興味がますます深まると共に、さらなる検討の必要を痛感しています。
追伸 (入沢康夫) 2013-03-22 10:11:00
 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」機関誌の「宮沢賢治研究Annual」3号(1993)に載った佐藤泰平氏の「『春と修羅』(第1集・第二集・第三集)の〈気象スケッチ〉と気象記録」中で、この「和風は河谷いっぱいに吹く」についてかなり詳しく論じられていたのを、思い出しました。御参考までに書き添えます。
(終わり)
 それは次のような経緯からであった。
 かつては私も、『春と修羅 第三集』の中では「稲作挿話(未定稿)」(〔あすこの田はねえ〕)や「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩が大好きだった。菊池信一と思しき教え子を温かく見守りながら稲作指導をしている賢治の姿に、あるいは一度は倒れてしまった稲田だが賢治の指導よろしきを得て稲は皆元通り立ち上がったということで、その稲作指導の見事さに感心していたからだった。
 ただしそこは念を入れて、その裏付けを取ろうとして「和風は河谷いっぱいに吹く」について調べているうちに、常識的に考えてどうもおかしいぞと直感した。そこで、おおよそ次のような内容の投稿を拙ブログ『みちのくの山野草』においてしたのだった。
  **************〈おおよその投稿内容〉************
 まず、昭和2年8月20日付「和風は河谷いっぱいに吹く」、
   一〇二一
      和風は河谷いっぱいに吹く
                 一九二七、八、二〇、
   たうたう稲は起きた
   まったくのいきもの
   まったくの精巧な機械
   稲がそろって起きてゐる
   雨のあひだまってゐた穎は
   いま小さな白い花をひらめかし
   しづかな飴いろの日だまりの上を
   赤いとんぼもすうすう飛ぶ
   あゝ
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹いて
   汗にまみれたシャツも乾けば
   熱した額やまぶたも冷える
   あらゆる辛苦の結果から
   七月稲はよく分蘖し
   豊かな秋を示してゐたが
   この八月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九〇の六日を数へ
   茎稈弱く徒長して
   穂も出し花もつけながら、
   ついに昨日のはげしい雨に
   次から次と倒れてしまひ
   うへには雨のしぶきのなかに
   とむらふやうなつめたい霧が
   倒れた稲を被ってゐた
   あゝ自然はあんまり意外で
   そしてあんまり正直だ
   百に一つなからうと思った
   あんな恐ろしい開花期の雨は
   もうまっかうからやって来て
   力を入れたほどのものを
   みんなばたばた倒してしまった
   その代りには
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
   森で埋めた地平線から
   青くかゞやく死火山列から
   風はいちめん稲田をわたり
   また栗の葉をかゞやかし
   いまさわやかな蒸散と
   透明な汁液の移転
   あゝわれわれは曠野のなかに
   芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
   素朴なむかしの神々のやうに
   べんぶしてもべんぶしても足りない
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)、110p~>
と、その下書稿の第一形態であるという昭和2年7月14日付
一〇八三
   〔南からまた西南から〕   
                一九二七、七、一四、 南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹く
   七日に亘る強い雨から
   徒長に過ぎた稲を波立て
   葉ごとの暗い露を落して
   和風は河谷いっぱいに吹く
   この七月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九〇の六日を数へ
   異常な気温の高さと霧と
   多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
   その茎はみな弱く軟らかく
   小暑のなかに枝垂れ葉を出し
   明けぞらの赤い破片は雨に運ばれ
   あちこちに稲熱の斑点もつくり
   ずゐ虫は葉を黄いろに伸ばした
   今朝黄金のばら東もひらけ
   雲は騰って青ぞらもでき
   澱んだ霧もはるかに翔ける
   森で埋めた地平線から
   たくさんの古い火山のはいきょから
   風はいちめん稲田をゆすり
   汗にまみれたシャツも乾けば
   こどもの百姓の熱した額やまぶたを冷やす
    あゝさわやかな蒸散と
    透明な汁液の転移
    燐酸と硅酸の吸収に
    細胞膜の堅い結束
   乾かされ堅められた葉と茎は
   冷での強い風にならされ
   oryza sativaよ稲とも見えぬまで
   こゝをキルギス曠原と見せるまで
   和風は河谷いっぱいに吹く
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)、188p~より>
とを比べてみると、常識的に考えれば、これらの2篇の詩に詠まれていることは同一日の気象条件下で詠んでいるとしか思えない。ところがこの2篇の詩の日付は、片方は7月であり、もう一方は8月である。したがって、同一内容と思われるのに月名が異なっているからそこに矛盾が生じていて、この2篇のうちの少なくとも一方は気象上の虚構が含まれたものであるということが考えられる。
 一方で、賢治には昭和2年8月20日付の詩篇が幾つかあるが、その中で「和風は河谷いっぱいに吹く」だけは他の詩篇と異質だと感じたから、はたして、
「和風は河谷いっぱいに吹く」に詠まれている光景はその日(昭和2年8月20日)の実景だったのだろうか。
という素朴な疑問を私は抱いてしまったのだった。
 そこで私は、あの『阿部晁の家政日誌』から当時の天気や気温を抽出して(巻末の資料《「羅須地人協会時代」の花巻の全天候》参照)、「羅須地人協会時代」の7月~8月について一覧表にしてみたところ、次頁の《表1 「羅須地人協会時代」の7月~8月の花巻の気象一覧》のようになった。
 次にこの気象一覧を瞥見してみると、やはりこの「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩には虚構がりそうだと直感した。そこで少し分析的に見てみれば、例えば「雨のあひだまってゐた穎は」及び「ついに昨日のはげしい雨に」という表現に注目すると、前者からは、この詩は晴れている日に詩を詠んでいるはずであり、後者からは前日が雨であることが導かれる。ところがこの一覧表に基づけば、花巻ではこの前日(8/19)には雨が降っていないし、逆に当日(8/20)は雨が降っていることになり整合性が悪いので私はそう感じたのだろう。
 それゆえ、この詩「和風は河谷いっぱいに吹く」にはいくつかの虚構がありそうで、例えば「今日はそろってみな起きてゐる」が

はたして真実であったかどうか疑わしくなってしまう。はたまた、賢治が「べんぶしてもべんぶしても足りない 」と思えるような実態にはたして稲田はあったのかという疑問が生ずる。
   **************〈投稿内容終わり〉************
 そこで入沢氏は拙ブログのこの投稿内容をご覧になって、先のような助言のコメントを下さったのであろう。
 私は入沢氏のご教示に感謝しながら、早速佐藤泰平氏の同論文を見てみたならば、そこには詳細なデータがあり、花巻の降水量や水沢の湿度等も一部加味した緻密な論考があった。
 それではということで、私も盛岡地方気象台を訪ね、当該期間の花巻の残りの日の降水量等を教えてもらい、前掲の《表1》に同論文中の水沢の湿度等を付け足した次頁のような《表2 昭和2年7、8月の気象》を作ってみた。
 そこで、「和風は河谷いっぱいに吹く」の下書稿の第一形態である〔南からまた西南から〕の中の次の連、
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹く
   七日に亘る強い雨から     ……①
   徒長に過ぎた稲を波立て
   葉ごとの暗い霧を落して
   和風は河谷いっぱいに吹く
   この七月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと      ……②
   湿度九〇の六日を数へ     ……③
   異常な気温の高さと霧と    ……④
 小暑のなかに枝垂れ葉を出し
 その茎はみな弱く軟らかく
 多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
 明けぞらの赤い破片は雨に運ばれ
 あちこちに稲熱の斑点もつくり
 ずゐ虫は葉を黄いろに伸ばした
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)>
における、①~④についてそれぞれ考えてみたならば、
①: 直前の7/14、7/13、7/11、7/10、7/8、7/7、7/1の7日間はたしかにかなり強い雨等が降っていたであろうことの蓋然性の高いことが判る。
②:7月14日以前は連日のように雨が降っており、このような気象であれば「やがて雨が降るであろう兆し」である「赤い朝焼け」が「この七月のなかばのうちに/十二」日も続いていると詠んでいることは理に適っている。
③:このことは佐藤泰平氏の同論文にある、「水沢の湿度(90%以上)」との整合性がある(ただし水沢のデータではあるが。なお、盛岡地方気象台には当時の花巻の湿度のデータの記録は存在していない)。
④:この「異常な気温の高さ」については、「昭和2年7月1日~14日」の気温(《前掲表の赤色数値)が前年及び翌年のそれぞれと比べてみれば前々頁の《表1》から、たしかに高い傾向が判るから、整合している。
 したがってこれらのことにより、〔南からまた西南から〕に詠まれている気象に関する事柄①~④がこれだけ当時の気象データと整合していることが判るから、こちらの詩には気象上の虚構はないと判断できるだろう。となれば、その他の内容についてもそ


こには虚構がなさそうだ。
 よって、このことと先の「この2篇のうちの少なくとも一方は気象上の虚構が含まれたものであると判断せざるを得ない」という論理から、常識的にのみならず論理的にも、「和風は河谷いっぱいに吹く」の方にこそ虚構があるということにならざるを得ないだろう。
 言い換えれば、かつての私の場合には、
「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩からは、賢治が駆けずり回った近隣の村々の稲は皆倒れてしまったのに、賢治が指導した稲田だけは彼の稲作指導が優れていたせいで、肥料設計が的確だったせいで一度倒れた稲は奇跡的に再び立ち上がったのでそれが嬉しくてたまらず、欣喜雀躍している賢治の様が目に浮かぶ。
のであったが、ここに詠まれている稲田の様子は昭和2年8月20日の現実のそれではなかったということになりそうだということを覚悟せねばならないだろう。つまり、こちらの詩はあくまでも虚構を含んだ「詩」であり、賢治がこうあって欲しいという「願いや祈りを詠んだ詩」であったということになりそうだ。
 そして、賢治の肥料設計した田は激しい雷雨のために稲が皆倒れてしまった状態で賢治の目の前に拡がっていたというのが、8月20日の真相だったようだ(〈註一〉)。
 それは、同日付の次の二篇の詩、
  〔もうはたらくな〕
   もうはたらくな
   レーキを投げろ
   この半月の曇天と
   今朝のはげしい雷雨のために
   おれが肥料を設計し
   責任のあるみんなの稲が
   次から次と倒れたのだ
   稲が次々倒れたのだ
   働くことの卑怯なときが
   工場ばかりにあるのでない
   ことにむちゃくちゃはたらいて
   不安をまぎらかさうとする、
   卑しいことだ
    …(略)…
   さあ一ぺん帰って
   測候所へ電話をかけ
   すっかりぬれる支度をし
   頭を堅く縄って出て
   青ざめてこわばったたくさんの顔に
   一人づつぶっつかって
   火のついたやうにはげまして行け
   どんな手段を用ひても
   辨償すると答へてあるけ

  〔二時がこんなに暗いのは〕
   二時がこんなに暗いのは
   時計も雨でいっぱいなのか
   本街道をはなれてからは
   みちは烈しく倒れた稲や
   陰気なひばの木立の影を
   めぐってめぐってこゝまで来たが
   里程にしてはまだそんなにもあるいてゐない
   そしていったいおれのたづねて行くさきは
   地べたについた北のけはしい雨雲だ、
     …(筆者略)…
        <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
に詠まれている気象条件の方が、「和風は河谷いっぱいに吹く」のそれよりもはるかに昭和2年8月20日当日の気象と符合してることからも裏付けられそうだ。
 しかも、賢治はこの日にもう一篇〔何をやっても間に合はない〕も詠んでいるから計四篇の詩を「一九二七、八、二〇、」に詠んでいることになる。すると新たな疑問にぶつかる。
 もし、これらの詩に詠まれているようなことが現実に起こっていたというのであれば、この時に賢治の「稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた」ということは現実にはありえないのではなかろうか、という疑問がである。常識的に考えれば、これらの四篇もの詩を詠みながら、なおかつ同時にこれらの詩に詠まれているような稲作指導のために奔走するということは物理的にあり得ないだろうと。
 言い換えれば、少なくとも「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩に詠まれている
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
という目の前の光景はあくまでも虚構であったか、あるいは、そこまで多忙をきわめるような稲作指導を賢治はこの日8月20日にはしていなかったか、あるいはそのどちらでもあったということになるのではなかろうか、と。

 どうやらこれで、賢治は「和風は河谷いっぱいに吹く」において気象上の虚構をしていたということがこれでほぼ明らかになったし、おのずから、「今日はそろってみな起きてゐる」はこのままでは単純には還元できないことが明らかとなった。そうなると、他にも客観的なデータを虚構していたのではなかろうかという不安に襲われてしまう。
 そこで今度はそのことを実際に調べてみたならば、昭和2年7月10日付の〔あすこの田はねえ〕における
    あっちは少しも心配がない
    反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
        <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
の部分は、推敲されて約10ヶ月後に公に発表された「稲作挿話」においては、
    あつちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まつたと云つていゝ
        <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
となっていることを知った。
 あるいはまた、「和風は河谷いっぱいに吹く」の〝下書稿(四)〟の中に次のような連があるということも知った。
   あゝわれわれはこどものやうに
   踊っても踊っても尚足りない
   もうこの次に倒れても
   稲は断じてまた起きる
   今年のかういふ湿潤さでも
   なほもかうだとするならば
   もう村ごとの反当に
   四石の稲はかならずとれる
        <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
 なんと、賢治は「この調子なら村毎に〝反当4石〟は必ずとれる」と高らかに詠おうと思った節もあったことがここから導かれる。
 しかし、当時の米の反収は二石前後であり、「二石五斗」は上等、「三石二斗」なら奇跡、まして「村毎に〝反当4石〟は必ずとれる」は現実的にはまずあり得ない。だから、すっかり賢治の心の内を垣間見てしまった気がする。

 どうやら、「和風は河谷いっぱいに吹く」においては収穫石高も水増しという虚構がなされようとしていたということも私は知ってしまったので、あまり後味のよいものではない。もちろん詩において虚構があることは何ら問題はないのだが、この特に「村毎に〝反当4石〟は必ずとれる」というあり得ないことまでもあの賢治が詠み込もうとしていたということを知ってしまうと、これで完全にこれらの詩から私の感動は潰え去ってしまったということは言える。その詩に詠まれたことがどこまで事実だったということがわからくなってしまったからだ。
 言い方を換えれば、〔あすこの田はねえ〕や「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩の場合は、その内容が皆事実であったと思ったからこそ私は心を揺さぶられていたのだ。もう少し丁寧に言えば、これらの詩には前述したような反収石高の変更等があったということや、「今日はそろってみな起きてゐる」が事実であったとはほぼ言えず、そこには客観的な事実の虚構があったようだということを知ってしまったから、これらの詩に相変わらず「感心」はするものの、賢治にも「あざとい面があった」と言い募ることまではしないにしても、かつてのような感動をそこからは受けなくなった。さらには、〔あすこの田はねえ〕における「二石五斗」という表現までもが現実味の薄れた表現に見えてしまう。
 そしてそんな時に思い出すのが、天沢退二郎氏の、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
   <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)、414p>
という厳しい指摘だ。天沢氏によれば、「これら」、すなわち「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」は「単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟である」という。
 だから私は、幾ばくか安堵する。そして同時に、天沢氏の「〔もうはたらくな〕は失意の底の暗い怒りの詩である」という指摘から、賢治が「和風は河谷いっぱいに吹く」を「べんぶしてもべんぶしても足りない」と締め括ったのは、実はこの「失意の底の暗い怒り」の裏返しであったという想いに私は駆られる。
 そして、ここに至ってどうやら話が逆であったのかもしれないということに私は気付く。賢治は聖人君子、あるいは聖農とか老農と巷間言われているから、賢治の稲作指導は卓越していたと私は思い込んでいたが故にこれらの『第三集』所収の詩篇に私はかつて感動したのであって、それぞれの詩そのものをどこまで解って私が感動していたのかということになるとかなり危ういということに、である。あるいは、それこそまさに私は安易な「単純な実生活還元」をしていたのだと。
 同時に一方で、賢治について詳しいある方が、『賢治の言う通りにやったならば、皆稲が倒れてしまった、と語っている人も少なくない』と私に教えてくれたことがあり、私は不快感をその時感じたが、今となればそれを一概に否定しきれないということにもだ。
 当たり前と言われれば当たり前の話だが、
   賢治の詩といえどももちろん非可逆性がある。
ということを肝に銘じておかねばならないのだ、ということになりそうだ。
 ついつい、この「和風は河谷いっぱいに吹く」を読んでいると、
 賢治は「天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた」
などということが、裏付けを取らなくてもそれが事実だあったかの如くに思い込みたくなるが、残念ながら、それは裏付けが取れた段階や検証された場合にだけ言えることでしかない。いかな賢治の詩といえども、そのどちらもないままに、「単純な実生活還元」などはできない。それが詩のもつ非可逆性というものだろう。
〈註一〉天沢 退二郎氏が特集対談「雨ニモマケズ」において、
 もう台風が過ぎ去ったあとで、自分がちゃんと肥料設計した他の稲がむっくりと起きたと、大喜びに喜んでいる詩があると思うと、同じ日付の別の詩で、稲がもうすっかり倒れてしまったと、絶望して、倒れたところにみんな、「弁償すると答えて行け」というように自分に向かって叫んでいる。つまり彼の現実生活と詩作品とを重ねて解釈しようなんてしても絶対だめなんです。いままでは彼の詩を読んで、それが彼の現実生活そのものだと思って、いろいろ彼の人間を論じていたでしょう。それは考え直さなければいけない。
<『太陽 5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月)、94p>
と主張していたことを私は知って、やはりそうだったのだと安堵した。
***************************** 以上 ****************************

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