本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

賢治に関して新たにわかったこと

2017-01-20 12:00:00 | 常識でこそ見えてくる






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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
   賢治に関連して新たにわかったこと
 約10年程をかけて今まで賢治に関する検証作業を続けてきた。このことを通じて、今まで「賢治研究」という観点からは公になっていなかったことで、多分私が?初めて公に指摘したり、明らかにしたりした主な項目は以下の通り。 

・賢治の甥である岩田純蔵が、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」と証言している。
・「羅須地人協会時代」が「独居自炊」と譬えられるようになったのは『昭和文学全集14宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)以降であり、奇しくも、高村光太郎の随筆集『獨居自炊』(昭和26年)を境にしている。
・賢治と一緒に暮らした千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れたとも言われているが、甚次郎の日記によればそれは嘘で、当日は旱魃罹災した赤石村を慰問している。
・甚次郎の日記によれば、甚次郎は昭和2年3月8日と同年8月8日の二回下根子桜の賢治の許を訪れている。
・大正15年紫波郡内の赤石村・不動村・志和村・古館村等は大旱魃罹災によって飢饉寸前の惨状にあること、この惨状を知って全国から陸続と救援の手が差し伸べられているということなどが連日のように新聞報道されていた。
・「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるが、大正15年の紫波郡内の大干魃による惨憺たるこの凶作から、「ヒデリでも不作あり」という事実を容易に知ることができる。
・和田文雄氏は、「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていたと主張しているが、その典拠としている肝心の『南部藩百姓一揆の研究』にはそのようなことは書かれていない。
・菊池氏忠二氏は柳原昌悦本人から、「一般には澤里一人ということになっているが、あの時(大正15年12月の上京の折のこと)は俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども」という証言を直接聞いている。
・賢治が甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱に、
       草刈
   寝いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
という短い詩が手書きされている(甚次郎によればこれは賢治が詠んだ詩だという)。
・恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・恭は賢治から実家の田圃の「施肥表A」〔一一〕等を設計してもらった。
・恭はマンドリンを持っていたと、恭の長男・三男が証言している。
・N氏が直接平來作本人に取材した際に、來作は下根子桜のあの楽団でたまにマンドリンを弾いていたということ、恭も一緒にマンドリンを弾いたということを証言している。
・阿部晁の『家政日誌』からは「羅須地人協会時代」等の花巻の天気や気温を知ることができる。
・高瀬露の生家のあった場所は〔同心町の夜明け方〕に詠まれている「向ふの坂の下り口」(向小路の北端)だった。
・露が当時勤務していたのは旧寶閑小学校であり、現「山居公民館」の東側にあった。
・寶閑小学校勤務当時の露は、交通事情が悪かったので現『鍋倉ふれあい交流センター』の近くに下宿。それも、賄いがつかなかったので自炊だった。
・当時の鉛電鉄の時刻表等によれば、露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための往復所要時間は約4時間だった。
・森荘已池が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では昭和2年の秋」となっているが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれにおいても昭和2年以外の年としている。
・『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森が露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…」となっているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
・昨今、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはおそらく間違いで、昭和2年の秋10月であることが、清六の証言とちゑ本人の書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が下根子桜訪問を遠慮し出した昭和2年夏の直後のことになる。
・昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)中の、「演習が終るころはまた根子へ戻って…」の「演習」とは同年10月に行われた「陸軍大演習」のことである。
・昭和3年10月の「陸軍大演習」の際に第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていた。
・「ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった」という証言があり、この「鍛冶町のけんじ」とは八重樫賢師と判断できる。
・賢師に関してはその他に、
*昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館に奔った。
*函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
*花巻農学校の傍で生徒みたいなこともしていた。
*頭も良くて、人間的にも立派だった。
*賢治の使い走りのようなことをさせられていた。
*昭和3年当時、賢師の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを賢師の隣人が言っていた。
などという証言がある。
・『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」における澤里の証言が、それが単行本化された際(昭和32年頃、つまり父政次郎が亡くなった頃)に著者以外の何者かによって改竄がなされた。
・同じ昭和32年頃を境にして、かつての「宮澤賢治年譜」におしなべてあった、
*昭和2年:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
*昭和3年:一月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
という記述が年譜から突如消え去ってしまった。
・高瀬露が次女に対して「〔昭和7年に〕賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある」と言っていたと、その次女が露の教え子の妹に話している。
・高瀬露の上郷小学校の勤務形態は
  昭和7年3月31日 上郷高等尋常高等小学校訓導
  昭和8年3月31日 休職
  昭和9年3月31日 復職
  昭和9年3月31日 達曽部尋常高等小学校訓導
であり、露の上郷小学校勤務は昭和8年~9年の2年間だが、昭和8年度は休職しているし、昭和9年度には復職しているが同日に達曽部小学校に異動しているから、実質的な勤務は一年間だけだった。おのずから分校勤務もないと判断できる。
・平成15年に発見されたという関徳弥の『昭和五年 短歌日記』には露に関する記述があるが、その日付欄の「曜日」が何者かによって消されている。
・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。
・賢治宛来簡が現在も存在している。
《『松田甚次郎大正15年の日記》
***************************** 以上 ****************************

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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