本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

賢治の身の処し方

2015-11-22 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 賢治の身の処し方
 さて、特高等のすさまじい「アカ狩り」によって、昭和3年夏8月頃に賢治と親交のあった八重樫は北海道は函館に、賢治のことをよく知っている小館長右衛門は同年8月に小樽にそれぞれ追われたというし、そういえば賢治の母校盛岡中学の英語教師平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった<注1>。よって、この年の10月に行われる陸軍大演習(陸軍特別大演習)を前にしてその8月頃にはとりわけすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていたであろうことが容易に想像できる。
 となれば、そのような社会情勢下では賢治も官憲等からの強い圧力が避けられなかったであろうことも当然予想できる。それは、賢治が実家に戻った時期がまさに昭和3年のその8月であったことが如実に物語っているからでもある。

 とはいえそれは、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであったということが考えられるのではなかろうか。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(投稿者略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。宮沢さんは、ご自身でも何度も署へ足を運ばれて、署長と……。
              <『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし著、)133p>
 たしかに伊藤の「科白」のとおりであり、父の政次郎は花巻の名士で実力者の一人だったし、しかも、この陸軍大演習の最初の演習が行われた10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』によれば
 大演習南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将の統率の将校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅団長中川金蔵少将は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という報道があり、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていたというのだ。ということであれば、花巻警察署は「宮澤マキ」や政次郎にはそれなりの配慮もしたであろうことは十分にあり得る。

 そんな折り私は、豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることを知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
              <『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113pより>
これは浅沼自身が著した『私の履歴書』に基づいて豊田が述べたもののようであり、あの浅沼の言うことだから、この話に嘘はまずなかろう。つまり、
 浅沼は特高から「検束されたくなければ実家に戻って謹慎していろ」と迫られ、大正12年10月に実家のある三宅島に帰った。
ということはほぼ事実であった、と言えよう。そこで私は、あの浅沼でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。そしてなにより、
    特高は当時、危険分子と目した人物に対して「謹慎か検束か」という取引策も用いていた。
ということはほぼ確実であり、この取引策によって万やむを得ず「謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを知ることができた。

 一方で、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I(投稿者イニシャル化)盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員の金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は勾留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(投稿者イニシャル化)盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転機を孕んで来た。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~より>
ということであり、当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家も少なくなかったということも私は知った。

 そこで閃いたのが、
 賢治の場合には、捕まえることなどはしないからその代わり、この10月に行われる陸軍大演習では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまでは頼むから実家で静かにしていてほしいと花巻警察署から懇願され、それに従って賢治は自宅謹慎した。
という可能性を否定できないということだった。
 言い換えれば、次のような有力な仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであり、当局から命じられてその演習が終わるまで実家に戻って謹慎していた。……①
が定立できることに私は気付いた。そして、たしかに今まで考察してきた事柄を振り返ってみれば、
 ・当時、「陸軍大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
 ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
 ・賢治は川村尚三八重樫賢師と接触があった。
 ・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない
ということを明らかにできているからこれらは皆この仮説〝①〟を裏付けてくれる。
 その一方で、この仮説の反例となるのではなかろうかと思われるかつての昭和3年の「賢治年譜」の、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
という記述についてだが、先に明らかにしたように
 ・当時の気象データ等に基づけば、「氣候不順に依る稲作の不良」も「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」も共になかった。
ということを示すことができたから、この年譜の記述にはあやかしな点があるので、とても反例たり得ない。
 また、現時点ではその他にこの仮説の反例となり得るものは見つかっていないはずだし、前述したように
 昭和3年夏8月頃八重樫は北海道は函館に、小館は8月に小樽へ、平井も8月に盛中教師の職を追われるというすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていた。
ということを併せて考えれば、この仮説〝①〟はほぼ検証できたと言えるので、なかなか筋のいい仮説だと私は自信を持ったのだった。
 そこで、この件に関しては拙ブログ“みちのくの山野草”において、『昭和3年賢治自宅謹慎』というテーマでかつて投稿したことがあり、その中の〝 「昭和3年賢治自宅謹慎」の結論(最終回)〟において前述したような内容の報告をした。

 そしてこのことに関して大内秀明氏は、論考「労農派シンパの宮沢賢治」(『土着社会主義の水脈を求めて』所収)の中で、
 羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。とくに羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しくを議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 確かに「賢治年譜」には「不都合な真実」を曖昧にする意図が感じられます。もっと賢治の実像が明確になるように書くべきだったし、今日の時点では「真実」が書かれても、賢治にとって「不本意」なことだったにしても、さほど「不都合な真実」では無いように思われます。昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻で天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばないように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村や八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
              <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302p~より>
と論評してくださっていることを知って私は感謝すると共にはっとした。
 それは、このような「病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つ」という身の処し方に私は今までは正直抵抗感があったのだが、冷静に考えてみればそのような身の処し方の是非を今の時代を生きる私が論うことはできないのだ、と。平たく言えば、賢治は警察から睨まれて下根子桜に居られなくなったので仮病を使った実家に戻って謹慎したということが事実であったならばそれは弱虫のすることだと思っていたのだが、大内氏の「「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います」という受け止め方を知って、私の己の狭量さを知ったからだ。

<注1> 金田一京助、平井直衛金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
 『種蒔く人』を初めて持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
               <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37pより>
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。

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