本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「かつての賢治年譜」の検証

2015-11-18 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 「かつての賢治年譜」の検証
 それではここでは、「かつての賢治年譜」の昭和3年の中におしなべて記述されていた、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
について分析して検証してみたい。

 まず、
 (1) 心身の疲勞を癒す暇もなかった。
について考えてみる。
 さてこの「心身の疲勞」とは一体何を意味するのか。それを癒す暇もなかったということだし、8月10日から賢治は実家に戻っているということであれば、その時よりもしばらく前に蓄積した「疲勞」と考えられる。まして、賢治自身が「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで」と先の書簡(243)にしたためていたことに鑑みれば、この「疲れ」こそがこの「心身の疲勞」に当たるとほぼ言えるだろう。 
 一方、伊藤七雄あて1928年〔7月はじめ〕書簡(240)の下書(二)の中には
こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
                <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)>
とあって、「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました」と書いているから、帰花後も賢治は心身共に相当疲れが残っていたと思われる。
 ところが、時期は〔7月はじめ〕という推定ではあるものの、1928年7月始めに賢治が「いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」とその下書に書いてあったというのであれば、この時の上京の際の疲れは7月初め頃はもうすっかり取れていたと推測できる。ちなみに、次表は
《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》

              〈『昭和三年 阿部晁の家政日誌』より〉
であり、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に付記してある天気を抽出した一覧表だが、伊藤七雄宛1928年〔7月はじめ〕書簡(240)の下書に、
 こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)>
という一文があるということなので、この書簡(240)が書かれた日は、「一昨日までは雨でした。昨日今日は…」に注意すれば上掲の天気一覧表からその日は7月5日であるとほぼ判断できるから、先の推測を裏付けてくれる。そして、この頃から賢治は「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たということになろう。
 したがって、少なくとも7月上旬には「東京行」の際にたまった「疲勞」は癒されていたとほぼ断定できるだろう。しかも、この他に考えられる「心身の疲勞を癒す暇もなかった」というような「疲勞」は考えられないということもまた一方では言えそうだから、この〝(1)〟は賢治がこの手紙を書いたであろう7月上旬から約一ヶ月も経った後の8月10日頃に家に戻った直接の理由にならないことはほぼ明白であり、この〝(1)〟は単なる「枕詞」だったということもあり得る。

 次に
 (2) 気候不順に依る稲作の不良があった。
についてだが、上掲一覧表を見た限りにおいてはそんなことはまずなさそうだと判断できる。それどころか、この時期としては願ったり叶ったりの水稲にはふさわしい天気が続いているということが判るからだ。もちろん、これだけ雨が降らなければ干魃の心配はある。がしかしこの時期であれば、田植え時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はそれほど心配なかろう。まさに、この地方の言い伝え「日照りに不作なし」を農民は諳んじながら稔りの秋を楽しみにしていたと考えられる。実際、この昭和3年に岩手が干魃によって水稲が不作だったという記録もない。
 がしかし、水稲はそれでいいとしてもこのような気候であれば陸稲が心配だ。ちなみに、『昭和3年10月3日付岩手日報』によれば
    県の第1回予想収穫高
   稗貫郡 作付け反別  収穫予想高  前年比較
   水 稲  6,326町歩   113,267石    2,130石
   陸 稲   195町歩     1,117石   △1,169石
であった。なんと、陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減だから予想収穫高は前年の半分以下であろうことがわかる。とはいえ、当時の稲作における稗貫地方の陸稲の作付け面積は、
   195町歩÷(6,326+195)町歩=0.03=3%
だから、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかる。しかも常識的に考えて、この195町歩の陸稲のために賢治一人だけが東奔西走したとは考えられない。
 それからもう一つ、この時期賢治は稲熱病のことを心配していたということのようだが、その病気は高温(稲熱病の菌糸の発育適温は25℃)多湿の場合に起こりやすいものであり、仮に稲熱病にかかった水稲があったにしても、この年の稲作期間は雨の日が殆どなかったのだから少なくとも多湿とは言えないのでそれが猖獗したということは起こり得ないし、実際、県南地方に予想されたというイモチ病の被害はそれほどではなかったと当時の新聞は報道している。しかも、この年の岩手県の稲作は不良などではないし、稗貫のその作柄も平年作以上であったとほぼ断定できるということは既に明らかにしたところである。
 したがって、この年は夏に40日を超えるような「ヒデリ」が続くという意味での「気候不順」はあったのだが、それは「ヒデリに不作なし」という場合の「ヒデリ」であったから歓迎されこそすれ憂うべきものではなかったはずだ。また、このような天候だったので稲熱病が猖獗することはなかった。つまり、この年は「気候不順に依る稲作の不良があった」とは言えないだろう。

 では今度は、賢治は
 (3) 風雨の中を徹宵東奔西走した。
についてだが、この上掲表に従えば、帰花後~8月10日の間に「風」が吹いた日は7月26日の一日だけあったが、それは晴れた日にである。「風雨」の日は一日もない。そしてそもそも「雨」が降った日でさえも、賢治が帰花後活動し出したと思われる7月5日以降は殆どないし、特に7月28日~8月10日の間にはそのような日は全くない。これではいくら賢治が「東奔西走」しようとしても、それが雨の中でということはほぼ不可能であったということがこれで明らかである。
 しかも、稲熱病の蔓延も、大干魃による水稲の不作も共に心配のない年であったのだから、賢治がそのようなことを心配して「徹宵東奔西走」する必要もまたなかった。したがって、〝(1)〟の場合と同様、実はこの〝(2)〟や〝(3)〟も賢治が8月10日頃に実家に戻る理由にはなり得なかったと判断するのが妥当であろう。

 となれば、その理由は最後の
 (4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した。
ためだったとなるのであろうか。
 このことに関しては、賢治は昭和3年8月8日付で佐々木喜善宛に書簡(242)を出しているが、その本物を遠野市立博物館の平成25年度夏季特別展『佐々木喜善没後80年記念事業 佐々木喜善と宮沢賢治』において見ることができて、その書簡の中身は以下のとおりであった。
《表》上閉伊郡土淵村 佐々木喜善様 侍史
《裏》昭和三年八月八日 稗貫郡下根子 宮沢賢治
お手紙辱けなく拝誦いたしました。旧稿ご入用の趣まことに光栄の至りです。あれでよろしければどうぞどうなりとお使ひください。前々森佐一氏等からご高名は伺って居りますのでこの機会を以てはじめて透明な尊敬を送りあげます。
   昭和三年八月八日
                                  宮沢賢治
 佐々木喜善様
 私はこの手紙の現物を目の前にして、筆致には勢いと力強さがあり、なおかつ訂正個所が一ヶ所もなくしかもその文面から推して、8月8日時点では賢治はまだそれほど重症であったとは感じ取れなかった。これで、賢治が実家に戻ったのは8月8日以降であることははっきりはしたが、その2日後に急に「遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す」となるとはとても思えなかった。
 さらに、菊池忠二氏が次のようなことを述べている。
 私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
 「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の具合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
 つまり伊藤忠一の証言によれば、少なくとも伊藤の目からはその時の賢治の病状はそれほど極端に悪化していたとは見えなかった、と言えそうだ。しかも、菊池氏はこの日のことについては宮澤清六自身からも直接訊いており、前掲書において
 初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。
              〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37pより〉
と述べている。したがって、賢治が実家に帰った時はそれほど重篤であったわけでもなかったということを弟の清六が証言しているということになる。
 以上のことから判断して、〝(4)〟は賢治が8月10日に豊沢の実家に戻った理由にはならない可能性が高いということを知った。

 つまるところ、「かつての年譜」を分析して〝(1)〝~〝(4)〟を検証してみたところ、これらの全てのいずれもが皆あやかしな点があるので件の理由にならない可能性が高そうだから、賢治が下根子桜を撤退して実家に戻ったのにはもっと別の大きな理由があったと考えることはおのずから導かれる道理であろう。
 そして、そのヒントとなるのではなかろうかということで私の頭の中で閃いたのが、先に少し触れた件の書簡中の「演習が終るころはまた根子へ戻って云々」の「演習」である。もし賢治がまた下根子桜に戻るとするならば、愛弟子の澤里武治に宛てた手紙には「病気が治ったならばまた根子へ戻って云々」とに書くはずだが、そうではなくて「演習が終るころ」に戻ると賢治が書いていることがそのことを私に示唆してくれた。

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