本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

八重樫賢師について

2015-11-21 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 八重樫賢師について
 さて、ここではその昭和3年のすさまじい「アカ狩り」で函館に追われたという八重樫賢師なる青年について調べてみたい。
 まずは、上田仲雄氏の論文「岩手無産運動史」の中に、
 五月以降I盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員の金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は勾留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT盛岡警察署長により無産運動家の大検束が行われた。この大検束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じた。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54pより>
ということが論じられているのだが、この時に「一週間以上~一日内外」の検束処分にされた者の註釈が前掲書の68pにあって、花巻署管内では
    川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ) 
という二人の記載があり、おそらく正しい氏名はそれぞれ川村尚三、八重樫賢師であろう。したがって、八重樫は昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた大検束の際に検束処分にされたと考えてほぼ間違いなかろう。

 一方、この八重樫賢師は「羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者」でもあるということなのでそのことを確認しようと思ってあちこち尋ね廻ってみたところ、平成25年3月6日にAさん(当時80歳)に会うことができて、八重樫に関して次のようなこと等を教えてもらえた。
・賢師は、昭和3年の陸軍大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ行った。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしていたという。
・頭も良くて、人間的にも立派な方だったと聞いている。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたという。
・昭和3年当時、八重樫の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを八重樫の隣人から教わった。
併せて、私はそれまで八重樫賢師の〝賢師〟の読み方はついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたのだが、Aさんからその時に〝けんし〟ですよというこや、名須川溢男が訪ねて来てAさんの義母から聴き取りをしていた際に、その傍にいてそのやりとりを聞いておりましたということなども教えてもらった。
 私はAさんのこれらの証言などを聞きながら、昭和3年の夏に花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そして、八重樫は昭和3年8月頃に官憲に追われて函館へ奔り、程なく客死していたということはほぼ事実であったのだろうということもである。

 あるいは別に、私の先輩T氏からは、
 私のおばが、『ある時、下ノ畑の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』と言っていた。
ということを教えてもらった。私はそれを聞いてすぐに、その「鍛冶町のけんじ」とは昭和3年に函館に追われた「八重樫賢師」その人に他ならないと確信した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」だからである。そしてこのことは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」中の、
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき…
              <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266pより>
という記述も裏付けてくれる。
 よって、
・八重樫賢師は宮澤賢治とかなり親交が深かった。
・八重樫賢師は下の畑の傍で農園を開いていた。
ことはほぼ間違いない事実であった判断してよさそうだ。
 そしてまた、八重樫賢師の友人であった島清次は、
 自分がどのようなことを知っているとか、どんな良いことをしたなどとは決して言わない無口とも言える人であった、宮沢賢治さんのような人だ。
              <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)115pより>
と八重樫のことを評しているとのことである。
 なお『新校本年譜』の310pには、八重樫賢師はあの国民高等学校の聴講生であったという記載もある。

 以上、これらのことに基づけば、昭和3年10月の陸軍大演習を前にして花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であり、同年8月頃に八重樫は特高から追われて函館に奔ったということはほぼ事実であったと判断できる。また、前出の小館長右衛門についても、
 労農協議会に属していて最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~より>
と、上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」で述べている。
 そこで、賢治が実家に戻った時期がちょうどその「八月」だったことに特に注意すれば、当時のそのような社会情勢と賢治の労農党との親和性に鑑みて、賢治も特高等からの強い圧力は避けられなかったことはもはや疑いようがなかろう。言い換えれば、賢治が実家に戻ったことが昭和3年10月の陸軍大演習を前にして起こったすさまじい「アカ狩り」と全く無関係だったとはもはや言えなかろう。

 続きへ
前へ 
 “「「羅須地人協会時代」―終焉の真実―」の目次”へ。

 ”羅須地人協会時代”のトップに戻る。
                        【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】

その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿