本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(20p~23p)

2016-02-15 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私はその金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論行かず、そのまま十字屋に帰(ママ)して来た。蓄音器は実に立派なもので、オルガン位の大きさがあつたでしょう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
<『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会)11p >
というものである。はたして似たようなことが2度もあったのか、それとも千葉恭の記憶違いなのか現時点では明らかになっていないが、少なくともどちらかの1回はあったと判断しても間違いなかろう。そしてその売却代金は上京費用の捻出のためであったと判断してもほぼ間違いなかろう。
 †「持寄競売」売上金
 この「持寄競売」については次のような二つの証言がある。
 「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。
   <飛田三郎「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」(『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房、284p~)>
 また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
  <伊藤克己「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、396p)>
 ではどうしてこの「持寄競売」売上金が上京費用捻出のためであったと判断できそうだと言えるのかだが、上京前の11月22日に賢治が「これを近隣の皆さんに上げて下さい」(「地人協會の思出(一)」(『イーハトーヴォ6号』(宮沢賢治の會))と言って伊藤忠一に配布を頼んだ案内状の中にこの「持寄競売」に関して具体的に書かれているからである。さらには、このような「持寄競売」を他日にも行ったという証言は残っていないから、この周知を図った「持寄競売」には何等かの狙いがそこにはあったと考えられる。しかも、賢治は12月1日に開いた「持寄競売」のなんと翌日に即上京しているようだから、常識的に判断してそこにその狙いがあったということになろうからである。
 †父からの援助
 このことについては、滞京中の政次郎宛書簡(222)から明らかになる。
 さてこのようにして賢治は上京費用を調達して、周知のように一ヶ月弱の滞京していたわけだが、故郷のこの時の旱害の惨状をどのように彼は認識していたのだろうか。この時の滞京に関しては、『新校本年譜』によれば、
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』326p>
ということだし、父政次郎に宛てた当時の書簡によれば、
・築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。(12月12日付書簡221)
・おまけに芝居もいくつか見ました(12月15日付書簡222)
・止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送(12月20日前後書簡223)
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
ということだから、オルガンやエスペラントのことはさておき、もし賢治が旱害に苦悶する赤石村等のことを知っていれば、巷間「貧しい農民たちのために献身した」と云われている賢治ならば、普通これらの3項目は躊躇っていたであろう。
 また、書簡(222)に書いている、「第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました」などというようなことはせずに我慢していたであろう。まして、「どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます」などというようなとんでもない高額の無心は毛頭考えもしなかったであろうし、できなかったであろう。
 しかし実際はそうでなかったということからは逆に、大正15年12月の賢治は滞京中だったので遠く離れた故郷の農民達の大旱魃による苦悶をおそらく知らなかったということも推測される。

〈注六:本文19p〉平成11年11月1日付『岩手日報』は、
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。
ということがわかったと報道しているから、この520円は大正15年6月に支給され、しかもその大金は「高級蓄音器」の購入のためにすぐに使われたと言えそうだ。仮にこれだけの大金520円を上京時にまだ持っていたとすればこの蓄音器を売却する必要はなかったはずだからである。また常識的に考えて、その一時恩給(退職金)がなければ、収入の当てなどまずない「羅須地人協会時代」の賢治はそのような高級蓄音器は買わなかっただろうし、買えなかったであろう。

 当時の旱魃被害の報道
 しかしながら、それを賢治が知らなかったとすればそれはそれでまた問題だ。そもそも彼の稲作指導者としての知見と力量をもってすれば、この年は早い時点から、とりわけ紫波郡内の旱魃被害が甚大になるだろうということは予見できたはずだからその虞(おそれ)を賢治は抱いていなければならなかったということになり、稲作指導者としての賢治の資質と態度が問われることとなるからだ。
 ちなみに、最愛の愛弟子の一人であった菊池信一は「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」という追想の中で、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終わつた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つてゐた日が酬ひられた。
<『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べているから、この「下根子桜」訪問の際に、菊池の住んでいる石鳥谷でも「旱魃に惱まされつゞけた」ということが話題に上らなかったわけがない。あるいは、当時の新聞はしばしばこの年の旱魃関連の報道をしていたのでそのことを賢治は懸念していたはずだ。実際、
◇7月5日付『岩手日報』には
  石鳥谷でやつと田植 北上から上水して 
(石鳥谷)稗貫郡好地村大字好地上口方面水田十七町七反歩は水全滅植つけ出來ないので此度川村與右衛門発起人となり北上川より約四十尺の高地に上水し四日田植ゑを始めた
という記事が載っている。まさに、教え子菊池の家のある好地村の記事だし、この記事は菊池の記述を裏付けてもいる。
 またその後の『岩手日報』の旱害関連記事を瞥見してみると、
◇7月7日
  田植が出來ない所が一千町歩に及ぶ
    北上川の動力上水もホンの一部分 
      紫波數ヶ村の悲慘事
という見出しの記事が載っていて、紫波郡では田植ができない所が一千町歩に及ぶとあり、悲惨な状況に陥っていることがわかる。同記事によれば、赤石村は350町歩もの水田の田植ができないでいる状況にあるということだし、当時赤石村の水田は401町歩だった(18p参照)から、実にそれは8割7分強にも及んでいたことになる。
◇7月25日
  各郡旱害調査
    廿日迄の植付不能水田二千百五十二町歩一反
という見出しの記事があり、同記事によれば植付不能水田について、県下で2,152町歩、紫波郡下で637町歩とあるから、田植のできなかった水田の約3割が紫波郡内に集中していたことがわかる。
◇9月26日
  本縣の稻作 百五、六萬石
    十二年の最凶作に近い収穫高である
という見出しの記事があり、大正15年の県米の予想収穫高は最豊年の14年に及びもつかないどころか、最凶年の大正12年に近い収穫高のようだ、という報道が9月下旬の時点で既になされていたことがわかる。
◇10月27日
  稗和兩郡旱害反別可成り廣範圍に亘る
(花巻)稗和兩郡下本年度のかん害反別は可成廣範圍にわたる模樣…
という稗貫郡と和賀郡に関する旱害被害に関する記事があり、両郡でも旱害被害は広範囲に亘っていたということになる。旱害被害はなにも紫波郡に限ったことではなかったことがわかる。
◇11月9日
  縣米作第二回 収穫豫想高 昨年より大減収
本縣米作第二回収穫豫想高に就いては目下縣統計課に於て十月末日現在にて各町村より報告を取纏めつゝあるが右報告に依れば大体昨年の百十四萬石に比し二割二分二十五萬石の夥しい減少となり實収高九十萬石と見られてゐる之は第一回豫想通り本年は旱害ため出穂が非常におくれたに加へて強霜が例年より早く降り第一回豫想九十六萬石に比し更に約七分の減少を見たは稲熱病が豫想外の蔓延を来たした為である殊に本年は最も大切な収穫期に於て雨量が多く未熟米も相當の數にのぼる見込で、量の減少に加へて質に於ても夥しい影響を來し三四等米のみで生産高の八九割を占めるものと見られてゐる
ということで、その第一回目の予想よりもさらにその収穫高は減少しているという。ほしいと思った降雨がほしい時になく、逆に降ってほしくない時に降雨が多かったという不運、そこへもってきて稲熱病の蔓延で品質も不良のため移出しようとしても三等米、四等米が8~9割を占めそうだという。
◇11月21日
  移出米檢査に半分は不合格
  品質がごく惡い花巻支所の成績
(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻附近から産出する俵米の如きは移出檢査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ…
と、賢治上京直前のこの日には他ならぬ地元花巻の移出米についての深刻な報道もあった。
 つまり一連の新聞報道によれば、賢治が12月に上京する以前のもっと早い時点から、この年の紫波郡は旱害のために田植のできなかったところが相当数にのぼっていたとか、紫波郡のみならず稗貫郡や和賀郡でも旱害はかなりの範囲に亘っていたとかいうことはわかるのだが、この旱害対策のために賢治が奔走したという具体的な証言も客観的な資料も、そしてそのことを詠った詩も私は見つけられずにいる。
さらに、9月末時点でもう15年の稲の収穫高は相当心配されるという予想が、11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想が新聞報道されていたし、紫波郡内の旱害のみならず稗貫郡下でも米の出来は極めて悪かったこともまた同様だったのだから、それこそ巷間伝えられているような賢治ならば上京などせずに故郷に居て、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたはずだ。
 しかし実際はそうではなくて、12月中ははほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、上京以前も賢治はあまり「ヒデリ」のことに関心は示していなかったのだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったと、残念ながら客観的には判断せねばならないようだ。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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