特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野06 大利根温泉行きと道の片っぽだけのバス停 その2

2017年08月30日 21時50分01秒 | 旅行
砂糖の甘さ塩の辛さは舐めた者でなければわからない。
松下幸之助氏の名言の一つですが、無くなってしまったバス路線も同じでありましょう。

今回乗車記を捧げる野06 野田市駅~大利根温泉線は
現在まめバスという野田市ご自慢のコミュニティバスが走っており、そのルートを現在でも探ることはできます。

しかし砂糖の甘みと塩の辛みと、野田の田舎道をドカドカ走り回った東武バスの深い味わいは到底乗った者にしか
わからないでありましょう。



前回、「木野崎入口」まで柏行きと同じルートであるとご紹介しましたが、そこから先がこの路線の真骨頂です。
戦前の地図に手を加えまして、緑色が旧木野崎村で赤色が地図上で村内の「集落」とされている部分です。


まめバスの大利根温泉行きは木野崎入口先交差点を右折してナントカ保育所だとか公共施設を経由して行きますが、
東武時代は寄り道せず交差点をズボっと直進し一路木野崎地区を目指します。当時は本郷経由ではなく「木野崎経由」と称していたのは
これに由来します。




直進するとこの森深き道のうす暗さ。昭和時代はさらに樹木が道路にせまっていました。
昔は交通量が少なかったのですがまれに大型トラックらしきものが対向してくると路肩に寄って一時停止してやりすごし、
沿道の木の枝先が窓ガラスを擦るので、黒板を爪で引っかくと出るあの音が車内に鳴り渡ったものです。
これは同時期よく乗った野12 東宝珠花線も同様のことでした。
おかげ様で学校で黒板引っかかれても嫌悪感を感じない体質になってしまいました。




直進すると「サンカクバラの交差点」と地元では呼んでいる交差点に出くわします。
左折方向に小山経由岩井行きのお話に出た芽吹大橋へ通ずる中央線の引かれた良い道路がありますが
当時は気味の悪いケモノ道のような道でそもそも信号などありません。
十字路ではなく直進か右折しかできないT字路であったことが、手前に今も残る黄色地の道路標識からわかります。

昭和50年代後半、この標識のやや先辺りにバス停留所のポールが立っていました。
道路は狭くセンターラインなども無く、舗装も完全なものではなく路肩はひび割れし欠け落ちてガタガタしていました。
営業妨害するわけではありませんが、右手のセブンイレブンはわたくしの記憶が確かならば当時は『お墓』でした。
ここより先、出くわすバス停のポールは道の片側にしかありません。
当時ポールは道の左側すなわち大利根温泉行き側にだけ立っていました。





ここにあった停留所は後年「三角原」と改称したようで、場所は異なりますがまめバスにも同名停留所が設けられています。
他サイトでもその名前で紹介されていますが、昭和56・57年頃まで停留所名は『木野崎病院前』でした。
後代の方がこれを見たら誤った歴史を伝えないようぜひご記憶いただければと思います。


木野崎病院は道路左側の奥に今もあります。
どうして引っ込んだところにあるのかは取り扱ってる疾患をご覧いただくとおのずと理解されると思います。


交差点をさらに直進するとちょぼちょぼ店舗が並んでいるのが見えてきたものです。ここいらが前掲の地図の『集落』にあたります。


 当時からあるヨシバさんというお店。昔はコンビニやらなんやら皆無の時代ですからこういう商店が地域生活の中心になるのです。
昔は「吉葉屋商店」と漢字表記を伴ったファンタかコーラのロゴの大きめの看板があったように思いますが年月を経て佇まいが変わったように見えます。
子供の頃は何を見ても大きく見えるものです。

現在まめバスのバス停「木野崎新町」がご丁寧にも道路両サイドにありますが、
東武時代はお店右隣の小道を過ぎてすぐの所、当時は何か資材置き場のような空間でトタンのような壁というか塀があって、
その塀に沿うように木野崎が付かないただの「新町」という名前の東武バス名物オレンジ色ダルマ型停留所ポールが立っていました。
道の反対側、野田市駅行きが走る方には何も設けられていません。


ところで、道の片っぽにしかバス停が立ってないと、人はどう解釈するでしょうか。
道路整備の行き届いた都会生まれの人なら「バスが片道しか来ない」と思うかもしれませんがそうではありません。

例えば、この「新町」から野田市駅行きに乗るならば、ポールの反対側道を挟んだ真向かいでバス待ちをするのです。
バス停が立っていない所でも概ねその向かい側辺りで待っていれば、親切さのかけらもなかった東武バスと言えども停まってくれるのです。

この慣習と言うか、バス停が道の片っぽにしか無い、という光景は
わたくしの記憶する限り、野田・関宿じゅうのセンターラインがない道路を走るバス路線全てで見ることが出来、
川向こうの岩井市の野田市駅~小山~岩井車庫線もそうでした。




バス停ポール上部の円板は記憶を頼りにわたくしめが不細工に再現するとこのような標記になっていて、往路復路両方の行先が一緒に書かれていました。
系統番号を包む楕円と「東武バス」だけはなにか雲形定規に沿って書いたような字体で、他は全て弘法大師の生まれ変わりではないかと思しき職人さんが書いた流麗な筆書きです。
上例はちっとも流麗じゃありませんが。

ポールの立つ側に待っていると野田市駅ゆきと大利根温泉ゆきのどちらが来るのかは地元民やマニアなら判断できますが、
他所からたまたまやって来た人にはなかなか判断付かないでしょう。
今改めて振り返って見ても、まあ不便だと言われてもしょうがないと思いますが
個人的には大好きなスタイルで、昨年わざわざ某アニメの聖地、静岡県沼津までこのようなバス停を見に行き、無事バスに乗れました。



時刻表板はオレンジ鉄板一枚にこんな感じのがボルトでオレンジ色したパイプにナットで留められていました。
青枠以外の全てがやはり弘法大師様の手書き。上例は俗人が書いてますけど。
系統が一つしかなく大した便数ではないので野06の場合、柏03と合する途中停留所「三ツ堀」でセンターライン付き県道に入るまで
全停留所に狭幅のものが取付けられていました。

通例なら左右を平日・休日に分けますが往・復に分けます。どちらが右でどちらを左に書くのかは忘れてしまいました。
こういう路線は大抵、平休日同ダイヤなのです。
どうしても平日のみ、とか休日のみを記したいのなら数字右上に添え点を付し「・ 休日運休」などと下部凡例欄に記します。
野12も小山経由岩井車庫行きもこの形式です。



人の往来が多い場所では混乱しないか?という疑問が沸いてきますが、この辺の人の往来なんてたかが知れてますので、
何も無い道路の路肩で人がぽつねんと立っていたら「この人、バス待ってんだな」ということが誰でも分かるのです。

高齢者とか当時のわたくしのような子供ならば、バスが見えたら喜んで手を上げて運転士に知らせますが、
問題はめったに人が乗ってこない停留所でなおかつ、ポールの無い側に格好つけてボーっと立ってるだけの人です。

秋冬の夕方となると日没が早まりバス停も暗がりになります。
何もアクションしないのでバスも通過間際にやっと気づき、急ブレーキで車内は阿鼻叫喚となります。

幸いこの「新町」は人の乗降りが比較的よくあった停留所で、赤ちゃん抱いた奥さんとその家族連れ、
どこかの中学か高校のジャージ着たお姉さん2人組とかネクタイ締めた営業マン態のおじさんなどが
乗ってきたのを覚えています。

この新町停留所から北方に歩いて行けば木野崎城というささやかな、しかし緑麗しい古城跡があります。
木野崎城下に出来た新しい城下町ということで当地は「新町」と言うのだそうです。
いやぁ路線廃止が実に惜しい、よくまめバスが復活してくれたと思います。

また「日の出保育園」というわたくしの弟が通っていた保育園も同地にありますが、残念ながら弟には東武バスの記憶はないそうです。


本郷経由ですがその「本郷」は新町の次の停留所です。まめバスでもそのようになっています。
本郷も新町もともに運賃区界停留所で東武時代は幕式運賃表示器に地名が挙がります。
道の片側にしかバス停が設けられていない路線というのは間違いなく停留所毎の離隔距離が大きいのです。

①愛宕神社 愛宕駅(なぜか並列標記)→②下町→③野田車庫→④中根→⑤紫ゴルフ場入口→⑥大殿井。ここまで柏03と同じ。

⑦新町→⑧本郷→⑨福田小前→⑩三ツ掘→⑪大利根温泉。で終わりです。
本郷~福田小前間は大人が歩いても大変な距離ですが少なくも昭和56・57年頃は運賃区は同じで運賃表示器にもそう書かれていました。

野田市駅を出ても野田車庫に戻ってくるので柏03と同じく乗客はみな野田市駅4番のりばから乗ってきます。

「⑥大殿井」は電建第一住宅経由との分岐点をなし、「⑨福田小前」は路線図では・・・・・・・・



覚えていること全部書こうとしたらスッチャカメッチャカになりましたのでここで区切りとし、
次回は何とか新町から終点大利根温泉までしっかりお話したいと思います。

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