特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

女性車掌と木間ヶ瀬経由日枝神社行きと野12系統 東宝珠花行き

2016年09月17日 00時01分12秒 | 旅行
 この路線は2001年9月野田出張所廃止のさらに数年前に廃止されています。
インターネットを使うようになって以来、思い出すたびに検索してますがなかなかナマの乗車記に出会えません。

 昭和55年3月までは野田市駅~木間ヶ瀬~日枝神社、昭和56年4月から野田市駅~木間ヶ瀬~日枝神社~東宝珠花、と延伸されました。
 ワンマン化された後少なくも3回は乗りつぶしたと思いますが今回は懐かしいツーマン時代の記憶も含め後世に残したいと思います。
 

 ところで関宿町の宝珠花界隈は「ぶらり途中下車の旅」で車だん吉が紹介してたように関宿滑空場という施設を備え昭和の昔からグライダーの名所として知られております。
「グライダーが人んちに落ちてきた」というニュースは野田に住んでいた当時よく耳にしたものです。

 昭和55年、当地でグライダーのショーだかお祭りだかがあり、母・弟とともに野田の下町から木間ヶ瀬経由日枝神社行きに乗り終点日枝神社で降りて見に行きました。なぜ下町から乗ったのかは覚えてません。下町のバス停は野田の駅前が未舗装でグチャグチャ道だった頃バス路線網の発着場にもなっていたところで、交差点から東西南北どちらに進むかによってバス停のポジションが道路を挟んで大きく異なるという、極めて難易度の高いバス停でした。


茨急移管前の野07系統 野田市駅行き下町バス停
 
 川間出身の母は迷うことなく川間・関宿方面行き専用のバス停を見出しますが、バス停にたどり着いたとたんに来たのが元関宿まで流山街道をまっしぐらに進む分かりやすい境・関宿線ではなくこの路線でした。

 ツーマンですから中扉ひとつ。ガラス部に自動扉と標記されてるわりには車掌さんがごそごそいじって操作してました。ワンマンは今でも扉の開閉時にビープ音が出ますがツーマンというのはあれがありません。車掌さんがいて、車掌席のブザースイッチを短く「ビビッ」と押して停車・発車を伝達するのです。となりのトトロなどの影響で若い人がイメージしがちの「発車オーライっ」というシーンはもうすでに過去のものになっていました。
 
 客席は前方シートで後部は5人掛けロング、中扉すぐ後ろの車掌席だけ横向き。満員時は車掌席にも乗客を座らせます。わが母子の乗った車両には、噂のチャンネルやってたころの和田アキ子に似た車掌さんがいました。東武が全路線バスのワンマン化達成したのが翌昭和56年4月だそうです。東武で一番最初に多区間整理券方式ワンマンバスが導入された野田営業所における、最後の車掌さんの光景がそこにはありました。
 
 当時の野田商店街はすこぶる殷賑を極めていて、日曜午前の仲町、中央小学校前にはバス待ちがわんさかおりました。が、車掌さんが扉から上半身をせり出して「日枝神社行きです」とか「ごめんねぇ、関宿行かないのよぉ」などと言うと誰も乗ってきませんでした。



愛宕神社交差点を20メートルほど北上すると青いトタン壁の駐車場がある。
当時ここは大きく広い屋根のついた駐車場で境車庫行きのものと日枝神社(後に東宝珠花)行きのものの「愛宕神社前」バス停が2本、路側帯に置かれていた。
たまにダイヤ改正する境車庫線と違って東宝珠花線はほとんどダイヤ改正がないのでその時刻表は古色蒼然としたものであった。



 待ち客の多い愛宕神社前と清水公園入口は逆に乗る前に客から車掌さんに質問が飛びます。「バンショウいく?」「川間の○○に行くんですけど乗っていいですかね?」「あのほれ、フタカワの○○ってとこにいきたいんだけどさ」車掌さんもプロですから片っぱしから即答して必要な人だけ乗せてさっさと発車します。
 ワンマン化されて久しい昭和62年以降に利用したときも境・関宿線と勘違いして乗っちゃう人がいました。
 
 われわれ親子と野田市駅から乗っていて船形あたりで降りたおじさんは、愛宕神社交差点で信号待ちしてる間に清算し乗車券をもらいました。
 客が僅少ならば車掌さんの方から座ってるところまで歩いてきてくれます。馬鹿デカイ黒かばんを腹の前に回し見事なガニ股で歩きやはり和田アキ子に似てるな、と思いました。
 われわれは日枝神社まで行くので車掌さんは「木間ヶ瀬経由なので関宿行きで行くよりも運賃割高になる」旨PRしましたが母は意に介さずしれっと「いいですよ」とだけ答えて支払ってました。
 昭和57年の記憶によると木間ヶ瀬経由かそうじゃないかで大人運賃で40円か50円ほど違ってたように思います。


 境線同様、清水公園を出ればもう乗ってくる人はいません。逆にここまでに降りる人もいません。今の今までまったく車内アナウンスしなかったのに清水高校前から急に車掌がしゃべり始めます。
テープでもなければマイク通すわけでもない、顔に似合わず高いトーンの肉声が響きます。
 降りる人が既知の停留所ではいちいちアナウンスなどせず「はい、蕃昌よ」「あら、もう着いたの」などと会話して降ろしていました。
 

 
 ここからはより精度を上げて後世に伝えるべく、小学5、6年生~高校生時代まで時代を下り、ワンマン化した野田12系統、野田市駅~東宝珠花線についてお話したいと思います。
 高校の同級生に木間ヶ瀬の子がいて、たまにこの路線を利用して私の方から遊びに行ったのです。


 野田市駅発は11時台、16時台、18時台に1本づつ計3本ありましたが、高校時代に木間ヶ瀬へ行くときは節約のために清水公園入口から乗っていきました。
 
 この路線は蕃昌まで境車庫行きと同一路を行きますが、蕃昌のわずか先、左手に全日食チェーンナントカいうお店、
右手に「中村屋」という洋菓子屋のあるT字路をクイッと右折して枝分かれし、国道16号の船形南信号という交差点まで直進します。
 
この信号待ちしているときに、流山街道を道なりに進んで東宝珠花まで行く境車庫線の区間便か何かと勘違いして乗ってきた人がジタバタし出して
「あれ?川間行くんじゃねえの?」などと運転席に詰め寄り、ひと悶着あって大抵ここで降ろしてしまいます。
ゴネ客が相当高齢のばあちゃんでなおかつ運転手さんが寛大な人だと、いいよいいよ、と言って運賃を取らずに降ろすこともありました。




 蕃昌からは「中村」→「多賀神社」→「船形」→「船形十字路」→「阿部」→「大山」→「下根」→「木間ヶ瀬局前」→「木間ヶ瀬小学校前」→「鹿島前」→「鴻巣」→「羽貫」→「日枝神社」となります。
 日枝神社から東宝珠花の折返しまでは同じく野田市駅から来た境車庫行と対向しつつ流山街道を南下します。東宝珠花は駐停車スペースが1車両分しかないので、東宝珠花~春日部線とはバッティングしないように行路が組まれていました。
 昭和56、57年では「阿部」→「大山」間に「下大山」はまだありません。

 船形十字路から大山までは停留所間が非常に長いので、車内テープからは東武動物公園のお知らせや車内回数券販売案内その他東武鉄道関連の安全啓発の長々しいアナウンスがよく流れてきました。
「阿部」~「羽貫」間は現在のまめバスとほぼ変わりないところを走っていました。

 さて、この船形南信号は一度ひっかかると3分以上待たされる長い信号で、これをさらに直進し船形に入りますと道が急激に狭くなりひたすら森、森、畑があってまた森というこれまた昼でも薄暗い車窓が続きます。
 かろうじて舗装こそされてますがセンターラインの無い、子供の目から見ても実に細々とした道です。
 ちょっと壁から木の枝が沿道に出ているお宅があると、枝がガラス窓をガリガリ擦って黒板を爪で引っかいたときのあの音が車内に響き渡ります。耕運機が対向してきて通れずバスの方が16号きわまでバックしてやりすごしたことがあります。
 後年知りましたがこれは今やると運行規定違反になるそうですね。ま、いい時代でした。


緑フェンスの駐車場あたりは当時まったくの森でバス停「多賀神社」はそのたもと、向かって道路左側端に立っていた。
駐車場手前赤い企業名看板たもとの脇道を左に入ってすぐ多賀神社はある。


 道がこれだけ細いとどうなるか、古い方ならお察しの通り、バス停のポールが道の片側にしか設置されていないのです。
 ポールの反対側を行くバスに乗りたいならば、ポールもなにもない反対側に立ち続け、バスが見えてきたら手を上げて止めるのです。
 ところがバスに乗るけど手は上げない、という人の方が多かったですから運転手はバス待ちなのか、ただそこでひなたぼっこや井戸端会議してるだけの人なのか瞬時に見極める必要があります。
 
 また野田市駅行きと同じサイドにバス停が設けられていたのは「中村」「多賀神社」「木間ヶ瀬局前」「木間ヶ瀬小学校前」だけで他は野田に行こうとすると反対側に立つ必要がありました。
「木間ヶ瀬局前」「木間ヶ瀬小学校前」は旧木間ヶ瀬村役場周辺で若干人の多いところなのでこのようにして乗る人を見極めやすくしたのかも知れません。
 時刻表も野田市駅行きと東宝珠花行きを一枚にまとめたものになっていました。




現在ここを走るまめバスがしっかり道の両サイドにバス停を設けているのを見ると隔世の感があります。
本数の極めて僅少なのは当時のままですが、肝心の停留所名もバス停位置も運行ルートも当時とは大きく異なります。

 
 「中村」「多賀神社」で人の乗り降りを見たことはありませんが「船形」ではよく見ました。
 赤地に白抜き文字のコカコーラの看板を掲げた食料品店というか駄菓子屋というかそんな感じの個人商店の前にバス停があり、乗ってくる人は一人か二人程度でしたが年齢も性別も毎回バラバラでした。
 恐らくここいらへんが川間村に併呑される前の船形村の中心だったのでしょう。2016年8月訪れたところ、もう店などなく船形バス停がどこにあったかもわからなくなってしまいました。
 なお「中村」というのは人名ではなく船形上、船形中、船形下と3つあった集落のうちの「中」を指し示していたようです。
 多賀神社~船形間には南側が大きく落ち込んだ急カーブがあってちょっとジェットコースターにも似たスリルを感じた記憶があります。

 船形以外にも下根・鹿島前・鴻巣はバス停前に必ず古くからありそうな個人商店が1軒ぽつんとあって、
「バスに乗りたい客が来たときは、店に旗を出していればバスが勝手に止まりクラクションを鳴らして到着を知らせてくれた」という野田のバス史の黎明期が偲ばれます。
 バス停を道路一端にしか置いてなかった理由がここにもありそうです。




ツーマン当時から今日まで全く同じ場所にあり続ける「船形観光」の看板。バス客席からよく見える高さにあるのも当時のままである。

 船形を越えますと船形駐在所に面した信号機付きの交差点があり、ぐぐっと左折して県道関宿我孫子線に入り木間ヶ瀬方面へ北上します。
 わたしの祖母の娘時代には曲がらずにそのまま東進し、渡舟場「小山の渡し」で車両ごと渡し舟に乗せて利根川を越え茨城県中川村まで行ってました。
「小山の渡し」の総武自動車(『東葛飾の歴史』)
 大正年間、今上の素封家桝田貞吉氏が野田初のバス路線として開拓した「野田町~蕃昌~小山渡船場線」の進化態であろうと思われます。
 1日6便あって、昭和22年長さ15メートルもあった渡し舟からバスが転落する事故があってから以降は、バスを乗せずに乗客だけ船に乗せるようにしたそうです。
 京成バスが松戸から矢切の渡しまで延伸しましたが、渡し舟に車両乗っけて柴又まで行ってしまう、という路線ではないようですね。
 野田市のはからいで現在は小山の渡し跡までまめバスで行くことができます。
 
 蕃昌から日枝神社まで出くわす信号は16号の船形南とここだけでした。
また県道関宿我孫子線はここから木間ヶ瀬小学校前まで、否、県道の終点の二川まで全くセンターラインがありませんでした。



黄色い十字路標識のやや先、木々が道にはみ出しているあたりにバス停「船形十字路」があった。
秋冬の午後5時過ぎは真っ暗でどこにバス停があるのか分からなかった。

船形十字路から先は「阿部沼」という広い湖沼が戦後まであって自動車が通るなどもってのほかだったそうですから、この路線は少なくとも戦前にはなかったと思われます。



 わたしは今年盆の帰省時にまめバスの北ルートに乗ってちょっと昔の記憶を引きずり出しました。引きずり出たものをいくつかお話します。



ウエルフェアという老人ホーム的な建物。
こんなもの昔はなく車窓からは森が少ない代わりに畑とお地蔵さんしか見えなかった。
ここから下根とか大山といったあたりで裕福な農家の人々がヨーカ堂かどこかの大きな買い物袋2つ3つ持って降りていった。
冬の遊休畑で遊ぶ同学年らしき農家の子供らがよくいて「見かけない顔した奴が乗ってるな」とじーっと凝視されたものである。




巨大な石碑が立つ木間ヶ瀬小学校。この角を曲がるのに一苦労するのは東武大型車時代もまめバスとなった今も変わらない。
特に下校時間に被るのが最悪であった。あまりに子供が多いと運転手はサイドブレーキをかけて立ち上がり、
両手でハエを追い払うようなしぐさをすると、パラパラと子供たちが左右に散ってようやっと曲がれたものである。
また当時珍しかった新塗装車だと教師らしき大人と児童の「新しいねえ、色が赤いねえ」などと喋る声が車内に聞こえてきた。




級友宅に行くときの最寄停留所だった「鹿島前」跡。
ここには昭和62年時分には歴史の古そうな酒屋があり、野田へ帰る際の小銭作りのためにリボンシトロンを買ったことがある。
なお終バスは19時10分台にここを通過していてお邪魔先の夕飯時を避け野田に帰宅するには
ちょうど良い時間であったが、ポールが反対側に置いてあるため見落とされて積み忘れされないかいつもヒヤヒヤした。
終バスを逃したら流山街道まで20分近く練り歩き、
「平井入口」という小屋付きの停留所から東宝珠花発春日部行きに乗って電車で野田まで帰った。
「平井入口」は始発地を出て最初の停留所なのに「券なし」ではなくいきなり整理券番号1が付与された。
これは春日部行きも野12系統の野田市駅行きも同じであった。




 つれづれなるままに書いてきましたがともかく木間ヶ瀬あたりは道が狭くそれが却って乗りバスの醍醐味を生んでたようにも思います。
 まあ趣味で乗るのと農家の人たちが生活手段として乗るのとでは次元の違う話ですが。
 
 ツーマン時代は日枝神社が終点でしたが、折り返して木間ヶ瀬方面へ行くときは車掌さんが降りてきて誘導して方向転換してから出てたように記憶してます。
するとワンマン運行はここを発着していては無理だということになります。都内だと京成小岩駅でタウンバスが到着すると詰所から人が出てきて同じようなことしてますね。
日枝神社は小岩と違って詰所とかありませんが。
 
 またワンマンになった直後昭和56年に東宝珠花まで一人で乗ったところ、そのスペースは、ささやかはささやかなんだけれども「最近作りましたよ」という感がありました。
あの東宝珠花という名前のわりに肝心の宝珠花からは異常に離れているバス停はワンマン化と同時に新設されたものなのではないでしょうか。
 

 純農村路線、停留所ポールが道の一端にしか立っていない、昭和の大合併前の旧村役場前を通る、終点が駅ではないが他系統に乗り逃げ可能、
という点で当時の本郷経由大利根温泉線と非常に似た路線でしたが、野田市駅からの遠さ、単独路線の距離の長さや道路の悪路ぶりが桁違いでした。

いかにも平将門公ゆかりの地らしい野生味のある路線。江戸川を飛ぶグライダーとともに忘れられない路線の一つです。


野田市駅前でないのが恐縮ですが、春日部駅前で待機している日枝神社行き春日部営業所の東武バス(昭和47年。『春日部市の昭和』)。前照灯がダブルライトでヘゼルが丸々しているのでいすゞBAとかそのあたりの車種ですかねえ?
原キャプションによれば手前が「宝珠花経由の日枝神社行」で奥が「芦橋経由の日枝神社行」。宝珠花経由の‘宝珠花’とは千葉県の東宝珠花ではなく埼玉県の西宝珠花のこと。‘芦橋経由'というのは後年「立野経由西宝珠花行き」となった路線のことで乗車したことはありませんが、境町の旧境車庫で方向幕を回してる車両を眺めていたとき「立野」というのがあったのを覚えています。遅くとも昭和から平成への変わり目辺りには廃止されていたと記憶しています。

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