村上文緒はアマデウス先生の嫁(仮)

いい風が吹いていますよ~ 村上文緒

6月26日(木)のつぶやき その1

2014-06-27 06:13:20 | 日記

@ryosuke_the_3rd 明智さん、カメラは用意しましたニャ!これなら細胞二十面相も手も足もでませんニャ!


@ryosuke_the_3rd @bot_fumio 村上文緒ちゃんが応援してくれるからドイツが優勝ですニャ!

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ソナタ(第15番)ハ長調 K.545(新全集第16番)
simplog.jp/pub/15074857/46
このソナタと同じ日付で目録には他に3曲が記されて降り、なかには交響曲第39番 K.543も含まれている。その2ヶ月の間には第40番と第41番『ジュピター』も書かれることになる。


この「小さなソナタ」は、これらの記念碑的な「3大交響曲」と同じ時期の作品なのである。そしてそれは、演奏会の開催や楽譜の販売が思うようにいかず借金ばかり増える一方で、創作の内容はますます円熟と充実の極みに達していく時期であったりこのソナタも


ドソミソ…の簡素な分散和音(アルベルティ・バス)に乗って始まる第1楽章第1主題は伸びやかさと勢い、優雅な気品と軽やかさを兼ね備えており、16分音符の伴奏の上で奏でられる第2主題は、いっそうの軽みを帯びている。
#モーツァルト #ソナチネ


形式の上では、第1主題の再現が主調ではなく下属調のヘ長調で行われ、第2主題でようやく主調に戻る点が興味深い。


当時のモーツァルトの熟達した手腕を見事に示すものである。確かに初心者向けに平易いには書かれているかわ、それだけいっそう簡潔で隙がなく、洗練されたものに仕上がっている。


統計多様体M={p(Θ)}に対し、各点Θでフィッシャ情報行列g(ij)(Θ)=E(Θ)[∂(i)log p(Θ)∂(j)log p(Θ)]が正則(したがって正定値)であり、かつΘに関して十分に滑らかであるとする。


ただしE(Θ)は分布p(Θ)による
期待値E(Θ)[F]=∫F(ω)p(Θ)(ω)dμを表し、∂(i)=∂/∂Θ^i
とおいた。このとき、g(∂(i),∂(j))=g(ij)によってM上にリーマン計量gが定まる。


gは座標系=Θ^i]によらずに定まり、また測度μと相互絶対連続な任意の速度νに関する密度関数q(Θ)=p(Θ)dμ/dνを取ってもg(ij)(Θ)=E(Θ)[∂(i)log q(Θ)∂(j)log q(Θ)]は変わらない。


この計量gをMのフィッシャー計量(Fisher metric)と呼ぶ。
情報幾何学への招待 geocities.jp/ismstats/eguch…
Cramér-Rao不等式(およびその漸近版)によれば、フィッシャー情報行列の逆行列[g(ij)(Θ]^-1は、


パラメータΘの値をデータから推定する際に推定値が真値のまわりにどの程度ばらつくかを表す平均2乗誤差行列の下限という意味を持つ。
#情報幾何学


日本人が外国語で書いたエッセイや論文に対する外国人からの厳しい批評をおきかせしよう。ここでの"外国語"とは、英語、ドイツ語、フランス語などの欧米語。"外国人"とは、それらの言語を母国語とする人たちに限ることとする。
「一言でいえば、ピンボケ。何が論点なのかわからない」


「いや、論点がないというよりは、あちこちに散らばっていて、お互いの関係がわからないのではありませんか?」
「結論を出さすに、いきなり終わってしまうことが多いのです」
「日本人の書くものは、エッセイにしろ論文にしろ、"雲"。ふわふわとつかみどころがない」
などなどと、批判は続く。


英語で論文なりリポートなりエッセイなりを書くとして、日本人の書いたものに論理がないというのが真の問題点ではないのだ。真の問題点は、それが英語の論理に従って書かれていない、それゆえに相手に通じないということなのである。


文章を書くにあたっての日本人と欧米人の違いは、それはある根底から沸き上がってきたものなのであろう。文章表現、つまり言葉というものに対する態度の差である。
「言葉ではとても表現できないものがありますね」と言うと、日本人は満足そうにうなずく。


極寒の海面に氷山が浮かんでいるとして、だが見えない海面下にはより巨大な氷の塊が隠れていることは知られている。言葉になるのは、海面に出たほんの少しの部分。言外に隠れた巨大な塊をにおわせ、そして聞くほうも読むほうもそれを感じつつコミュニケーションを果たすのが日本人の一般的なやり方だ。


金田一春先生は『日本人の言語表現』(講談社新書)の中で、「日本人は、話さないこと、書かないことをたっとぶ。その結果として、どうしても話さなければならぬ、書かなければならぬという場合には、それを最小限度にとどめるのをよしとする原理が副次的に成立する」と言っておられる。


なるべく話さず、書かずとは、「なるべく説明せず」にもつながる。日本人が説明下手なのも道理とうなずける。さて、論文はさておき、もし論理的にびしっと構成されたエッセイを読まされたら、多くの日本人は息がつまると感じるだろう。(これでは、ゆとりがない)と感じるに違いない。


論理的な部分があるのはよい。だが、ところどころに非論理的な要素が入り込む。あちこちに破れがあって風が吹きぬける、そのような自由さが日本人は一般的には好きである。それはゆとりでもあり、ゆとりとは、別な言葉で言えば"あそび"でもある。日本語は読み手指向の言語であるとも言える。


メリットの本を読みはじめたとたんに、数論のいくつかの側面がなぜ歯車設計者の関心を引いたのか、その理由が腑に落ちた。時計を作るときには、1分に1回転するシャフト(軸)を使って、1分1回転の歯車の動きを1日1回転に減速する歯車列を設計しなくてはならない。


ようするに、最初の歯車のスピードを1440分の1に落とすのだ。さて、歯車の第一法則によると、歯車のスピードは歯の数に反比例する。だから最もシンプルなやり方としては、駆動歯車(ピニオン)の歯を1つにして、被動歯車(ホイール)の歯を1440個にすればすむ。


ところが、歯が1つしかない歯車はひどく扱いにくいし、歯が1440個もある歯車もまた、大きすぎて扱いにくい。そこで、両方の歯車の歯の数に扱いやすい数、たとえば10をかけると、小さい歯車の問題は解決する。つまり、歯が10個あるピニオンを使えばよいことになるが、


こうなるとホイールの歯は14400本で、ますます大きくなってしまう。この苦境を脱するには、いくつかの歯車を組み合わせて歯車列を作ればよい。対になった歯車を2組以上使って、回転スピードを順次減らしていくのだ。たとえば2段階の歯車列では、ピニオンaをホイールAと組み合わせて、


さらにAと同じシャフトにつけた2番目のピニオンbを使ってホイールBを回す。この歯車列は、全体としての歯車比がa/A×b/Bになるから、この積が目指す値になるように、適宜a,A,b,Bを選べばよい。