あしあとガジェットを貼り付けるようになってから、記事別でアクセスがわかるようになった。そしたらお笑いに関する記事を書いたときだけ数字のびることがわかった。
お笑い系を検索する人自体が増えているんだろう。
時期的には「キング・オブ・コント」のあの茶番あたりから。
これはここにきてテレビ界を支配していた吉本帝国の魔法がようやく解け始め次々と正気に戻った人たちが同志たちの意識を確認しようとしている状況に違いない(笑)
そう、それはインチキな魔法だったのだ!
だってM-1では2年連続で敗者復活組が決勝一位通過してしまうなんて、まるで決勝までの審査体制の“ねじれ”をあざ笑うかのような事態がおきたんだぜ。
オードリーはすんでのところで阻止されたけどサンドウィッチマンはまんまと突破した。あの宅配ピザのネタなんて深夜番組では3年も前からやってたんだぜ!
阻止されたオードリーだって直後の「お笑いニューウェーブ大賞」の一般投票(総投票数212036)ではちゃんとNON STYLEに圧勝した。
こんな数字やコンテストの冠がなくったってオードリーとNON STYLEの活躍の差は歴然だけどな。
別に吉本が全否定される必要もない。生態系には“多様性”が必要なだけ。
フジテレビが朝の番組の中で柳原可奈子のコーナーを作ろうとしたら吉本がつぶしたとかそういう行為がテレビをつまらなくしているっていうこと。
前にビートたけしが「誰でもピカソ」で芋洗坂係長を賞賛していたことがあった。おいらはたけしも芋洗坂係長も好きではないがその意見のうしろにあるであろうものは理解できた気がした。
つまり寄席という形態のなかでは落語以外に漫才や手品や曲芸のようなイロモノの多様性があったように、今のお笑いの中に芋洗坂係長のような“ミュージカル芸”があるのも悪くないだろうということだ。
皮肉なことにその多様性を爆発させるきっかけとなった「爆笑レッドカーペット」を盛り上げたのは吉本芸人の今田耕司だった。
もし今田のあの“ツッコミ司会”がなかったらまとまりのない単なる深夜のオーティション番組みたいになってしまっただろう。
結果として同じ寄せ集め企画でも「エンタの神様」が作家、ディレクターといった制作者サイドに強くオーガナイズされた少年ジャンプのようなやらせくさい作りになってしまったのとは一線を画することができた。
皮肉といえばオードリーがブレークしたきっかけも吉本芸人のナインティナインがホストをつとめる「ぐるナイ」おもしろ荘からだった。
ナイナイにしても今田にしても吉本も関西も忘れてファン目線になってしまうKYさかげんがお笑いファンにとってはかえってうれしい。
こいういう聞き上手なキャラクターというのは意外と貴重だ。イツザイでそこそこウケをとっていた牧野ステテコも「デジタルの根性」に出演した時には千原ジュニアに完全につぶされていた。もし今田がホストをつとめていたらもう少し盛り上げたことだろう。
別に世に出す必要もない芸と思う人もいるかもしれないけど、盛り上がりには「脇役」も必要なのさ。も
とりあえず島田紳助はもういらない。
どの番組にも同じゲストを呼んで同じいじり方をして、週に何度も再放送を見せられてるようだ。多様性とは真逆にいってる。
「陽は、また昇る」も結局は格差固定容認の歌ぢゃねーかっていう。
松本人志にしても百歩譲ってバッファロー吾郎の初代キング・オブ・コントがありだとしても、あの“踏み絵”のような審査方法を問題ナシと言い切ってみたり、わざわざ自分の雑誌の連載でサクラのような投稿(自作自演ぢゃねーの?)を紹介して言い訳したりしているのをみるにつけ、こいつもそろそろ終わりだと痛感した。いや芸人としてはとっくに終わってるただのバラエティ司会者か。
体制に媚び媚びで自分大好きなラサール石井坊やも少なくともお笑い界にはいらないぜ。アニメの声でも舞台の演出でも好きにやっててくれ。
関西コンプレックスの感覚オヤジの渡辺正行なんて論外(笑)
そうM-1はもう終わってる。
もし今後、コンテストに権威を持たせたいんだったら、まずは一般投票で“審査員のコンテスト”からはじめたらどうだろう?
、いっそお笑い評論家とかCMプランナーみたいな人たちが審査員をしたほうが世間の感覚からも乖離せず、しかも演者にも視聴者にも納得のいくようなプロフェッショナルな解説をしてくれるかもしれない。
とりあえず今年はザ・ギースとバカリズムがもっと見たい。別に大ブレークしなくてもいいからいろんなのが見られればいい。
それだけ。
お笑い系を検索する人自体が増えているんだろう。
時期的には「キング・オブ・コント」のあの茶番あたりから。
これはここにきてテレビ界を支配していた吉本帝国の魔法がようやく解け始め次々と正気に戻った人たちが同志たちの意識を確認しようとしている状況に違いない(笑)
そう、それはインチキな魔法だったのだ!
だってM-1では2年連続で敗者復活組が決勝一位通過してしまうなんて、まるで決勝までの審査体制の“ねじれ”をあざ笑うかのような事態がおきたんだぜ。
オードリーはすんでのところで阻止されたけどサンドウィッチマンはまんまと突破した。あの宅配ピザのネタなんて深夜番組では3年も前からやってたんだぜ!
阻止されたオードリーだって直後の「お笑いニューウェーブ大賞」の一般投票(総投票数212036)ではちゃんとNON STYLEに圧勝した。
こんな数字やコンテストの冠がなくったってオードリーとNON STYLEの活躍の差は歴然だけどな。
別に吉本が全否定される必要もない。生態系には“多様性”が必要なだけ。
フジテレビが朝の番組の中で柳原可奈子のコーナーを作ろうとしたら吉本がつぶしたとかそういう行為がテレビをつまらなくしているっていうこと。
前にビートたけしが「誰でもピカソ」で芋洗坂係長を賞賛していたことがあった。おいらはたけしも芋洗坂係長も好きではないがその意見のうしろにあるであろうものは理解できた気がした。
つまり寄席という形態のなかでは落語以外に漫才や手品や曲芸のようなイロモノの多様性があったように、今のお笑いの中に芋洗坂係長のような“ミュージカル芸”があるのも悪くないだろうということだ。
皮肉なことにその多様性を爆発させるきっかけとなった「爆笑レッドカーペット」を盛り上げたのは吉本芸人の今田耕司だった。
もし今田のあの“ツッコミ司会”がなかったらまとまりのない単なる深夜のオーティション番組みたいになってしまっただろう。
結果として同じ寄せ集め企画でも「エンタの神様」が作家、ディレクターといった制作者サイドに強くオーガナイズされた少年ジャンプのようなやらせくさい作りになってしまったのとは一線を画することができた。
皮肉といえばオードリーがブレークしたきっかけも吉本芸人のナインティナインがホストをつとめる「ぐるナイ」おもしろ荘からだった。
ナイナイにしても今田にしても吉本も関西も忘れてファン目線になってしまうKYさかげんがお笑いファンにとってはかえってうれしい。
こいういう聞き上手なキャラクターというのは意外と貴重だ。イツザイでそこそこウケをとっていた牧野ステテコも「デジタルの根性」に出演した時には千原ジュニアに完全につぶされていた。もし今田がホストをつとめていたらもう少し盛り上げたことだろう。
別に世に出す必要もない芸と思う人もいるかもしれないけど、盛り上がりには「脇役」も必要なのさ。も
とりあえず島田紳助はもういらない。
どの番組にも同じゲストを呼んで同じいじり方をして、週に何度も再放送を見せられてるようだ。多様性とは真逆にいってる。
「陽は、また昇る」も結局は格差固定容認の歌ぢゃねーかっていう。
松本人志にしても百歩譲ってバッファロー吾郎の初代キング・オブ・コントがありだとしても、あの“踏み絵”のような審査方法を問題ナシと言い切ってみたり、わざわざ自分の雑誌の連載でサクラのような投稿(自作自演ぢゃねーの?)を紹介して言い訳したりしているのをみるにつけ、こいつもそろそろ終わりだと痛感した。いや芸人としてはとっくに終わってるただのバラエティ司会者か。
体制に媚び媚びで自分大好きなラサール石井坊やも少なくともお笑い界にはいらないぜ。アニメの声でも舞台の演出でも好きにやっててくれ。
関西コンプレックスの感覚オヤジの渡辺正行なんて論外(笑)
そうM-1はもう終わってる。
もし今後、コンテストに権威を持たせたいんだったら、まずは一般投票で“審査員のコンテスト”からはじめたらどうだろう?
、いっそお笑い評論家とかCMプランナーみたいな人たちが審査員をしたほうが世間の感覚からも乖離せず、しかも演者にも視聴者にも納得のいくようなプロフェッショナルな解説をしてくれるかもしれない。
とりあえず今年はザ・ギースとバカリズムがもっと見たい。別に大ブレークしなくてもいいからいろんなのが見られればいい。
それだけ。
同感いただけて安心しました。