「ジュラシックパーク」や「ER」で有名な作家のマイケル・クライトン氏が66歳の若さで死去した。
このブログでも以前、氏の論をビル・ジョイ氏のものとあわせて引用したことがある。
それはインターネットによって世界中の人々の価値観が均質化してしまい、結果として人類が種として脆弱化してしまうという懸念だった。
グローバリゼーションによる文化の破壊などはフツーに取り沙汰されてはいたが生物としての危機を指摘している点は斬新だった。
(作品的には「ロストワールド」の登場人物のセリフで示唆されているが本人もインタビューなどで再三論じていた)
凡人に思いつくのはせいぜいマクドナルドばっかり食ってると体に悪かろうということぐらいだ(笑)
ハリウッド・メガヒットの巨人の死去についてニューヨーク・タイムズのブックス欄でもとりあげていた。
Michael Crichton, Author of Thrillers, Dies at 66
ざっとではあるがぱっとしない作品を作っていた時期があったなども一通り氏の経歴を紹介している。
ちょっと気になったのは地球温暖化への懐疑論をベースにした「恐怖の存在」出版後に環境派とやりあったというくだり。
氏は温暖化の事実については認めたものの危機についてはやっぱり誇張されている、とある。
なんだよ後ずさりはしてんだ…みたいな。端切れが悪いな。「恐怖の存在」は所詮「ダ・ビンチ・コード」だったのか?…みたいな。
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』の武田邦彦氏については拙ブログ・コメント欄へいただいたタレコミによると“バック”がついているらしいがクライトン氏はそうでもなさそうだ。途上国の発展を妨げようとしているなどと指摘している点からしても単に持ち前の懐疑根性から書いたんだろうとは思う(←かばいすぎか?)
でも危険なのは影響力の強い人物の発言で
「環境問題については全く考える必要なし」
となってしまうことだ。
別にインチキな環境ビジネスがはびこっているとか、その利益を誘導するために煽っている人が存在するという事実だけで環境問題がチャラになるわけではない。
単純にまわりを見回してみて「ゴミ出しすぎ」「残飯だしすぎ」「クルマ多すぎ」とか感じねーかよ?ってことだ。
絶滅している動物についても「種というのは自然界にあっても絶滅したりするもんだ」ってレベルだとほんとに思ってる?ってこと。
それに百歩譲って地球の温暖化の原因が未だグレーだとしても人類無罪も確定していないわけで、裁判ごっなんてやってるうちに危機が進行してしまった本末転倒ってもんだ。
ハギレが悪いと思ったのは、クライトンが環境危機懐疑論の向こうに何を見ていたか?ってこと。
世の中いろんな場面において「反対派」と「賛成派」が勝手に存在して押し合いへし合いして結果としてバランスがとれることも多いけど、「環境問題」がややこしいのは、不当に環境問題を煽って金儲けしようとする輩とその不当さをネタに環境問題を否定してやっぱり金儲けを続けようとする人と、ラクしてそこそこ贅沢したいという人たちが、本当に環境問題を考えてる人たちを端っこに追いやってしまうというこ。
科学者として表現者として懐疑論的視点にたつことは間違いではないのだけどクライトンほどの人物ならさらに突っ込んでケリをつけて欲しかった。
そういった意味でも人類は重要なキーパーソンを失ってしまった。
今回の投稿こそクライトンをムリにかばっているように感じるかもしれないけどインターネットにすら否定的な見解を示した人物だから武田邦彦氏のようなバイアス野郎とは思えないのだ。
とりあえずクライトンが展開したのは仮に反対派が指摘している“ほころび”に目をつむっても「懐疑論」どまりであって「否定論」までの完成度はないようだ。
クライトン版環境問題の続きを読んでみたかったしネット問題に対する処方箋も示してほしかった。…残念
そして合掌…。
このブログでも以前、氏の論をビル・ジョイ氏のものとあわせて引用したことがある。
それはインターネットによって世界中の人々の価値観が均質化してしまい、結果として人類が種として脆弱化してしまうという懸念だった。
グローバリゼーションによる文化の破壊などはフツーに取り沙汰されてはいたが生物としての危機を指摘している点は斬新だった。
(作品的には「ロストワールド」の登場人物のセリフで示唆されているが本人もインタビューなどで再三論じていた)
凡人に思いつくのはせいぜいマクドナルドばっかり食ってると体に悪かろうということぐらいだ(笑)
ハリウッド・メガヒットの巨人の死去についてニューヨーク・タイムズのブックス欄でもとりあげていた。
Michael Crichton, Author of Thrillers, Dies at 66
ざっとではあるがぱっとしない作品を作っていた時期があったなども一通り氏の経歴を紹介している。
ちょっと気になったのは地球温暖化への懐疑論をベースにした「恐怖の存在」出版後に環境派とやりあったというくだり。
氏は温暖化の事実については認めたものの危機についてはやっぱり誇張されている、とある。
なんだよ後ずさりはしてんだ…みたいな。端切れが悪いな。「恐怖の存在」は所詮「ダ・ビンチ・コード」だったのか?…みたいな。
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』の武田邦彦氏については拙ブログ・コメント欄へいただいたタレコミによると“バック”がついているらしいがクライトン氏はそうでもなさそうだ。途上国の発展を妨げようとしているなどと指摘している点からしても単に持ち前の懐疑根性から書いたんだろうとは思う(←かばいすぎか?)
でも危険なのは影響力の強い人物の発言で
「環境問題については全く考える必要なし」
となってしまうことだ。
別にインチキな環境ビジネスがはびこっているとか、その利益を誘導するために煽っている人が存在するという事実だけで環境問題がチャラになるわけではない。
単純にまわりを見回してみて「ゴミ出しすぎ」「残飯だしすぎ」「クルマ多すぎ」とか感じねーかよ?ってことだ。
絶滅している動物についても「種というのは自然界にあっても絶滅したりするもんだ」ってレベルだとほんとに思ってる?ってこと。
それに百歩譲って地球の温暖化の原因が未だグレーだとしても人類無罪も確定していないわけで、裁判ごっなんてやってるうちに危機が進行してしまった本末転倒ってもんだ。
ハギレが悪いと思ったのは、クライトンが環境危機懐疑論の向こうに何を見ていたか?ってこと。
世の中いろんな場面において「反対派」と「賛成派」が勝手に存在して押し合いへし合いして結果としてバランスがとれることも多いけど、「環境問題」がややこしいのは、不当に環境問題を煽って金儲けしようとする輩とその不当さをネタに環境問題を否定してやっぱり金儲けを続けようとする人と、ラクしてそこそこ贅沢したいという人たちが、本当に環境問題を考えてる人たちを端っこに追いやってしまうというこ。
科学者として表現者として懐疑論的視点にたつことは間違いではないのだけどクライトンほどの人物ならさらに突っ込んでケリをつけて欲しかった。
そういった意味でも人類は重要なキーパーソンを失ってしまった。
今回の投稿こそクライトンをムリにかばっているように感じるかもしれないけどインターネットにすら否定的な見解を示した人物だから武田邦彦氏のようなバイアス野郎とは思えないのだ。
とりあえずクライトンが展開したのは仮に反対派が指摘している“ほころび”に目をつむっても「懐疑論」どまりであって「否定論」までの完成度はないようだ。
クライトン版環境問題の続きを読んでみたかったしネット問題に対する処方箋も示してほしかった。…残念
そして合掌…。
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