Sujak do 〜SujaのDNA〜

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昭和の叩き上げ総理〜政治家になった田中角栄そして総理大臣へ〜

2021-02-14 14:42:00 | 本を読む
こんにちは
sujaです




1947年4月、政治家になった田中角栄氏は
政界でも持ち前の手腕を発揮していったようです

1957年には閣僚入りし
第1次岸信介(安倍晋三氏の祖父)改造内閣で郵政大臣に就任します

以降
何度か大臣に就任しているようですが

中でも1962年、角栄氏44歳で大蔵大臣に就任した際の就任演説では
聞いていた官僚エリートたちの中で
感極まり涙した者もいたそうです

私が田中角栄だ。
ご存知のように、小学校の高等科しか出ていない。
諸君は財政・金融の専門家だ。
私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。
今日から大臣のドアは取っぱずす。
これはおかしい、これを考えてくれということがあれば、誰でも遠慮なく来てほしい。
これは局長も課長も同じだ。出来ることはやる。出来ないことはやらない。
ことの成否はともかく、思い切り仕事をしてくれ。
全ての責任は、この田中角栄が背負う。

全ての責任を背負うと言ってくれるようなトップが現れて
官僚たちも心強く思ったのかもしれません

角栄氏も44歳と働き盛り、エネルギーに満ち、脂ののった時だったのでしょう

そして1972年7月、いわゆる角福戦争の末

54歳の角栄氏は第64代内閣総理大臣に就任します
当時の支持率は62%という
今の総理ではあり得ない数字ですね

総理大臣になった田中角栄氏のもっとも成果をあげた事柄といえば

やはり
日中の国交正常化ではないでしょうか

彼は、政権に就く5か月前から日中国交正常化を取り組む考えがあり
ブレーンと準備を重ねていたそうです

田中角栄氏は1972年9月25日
【台湾問題】と【戦争への謝罪】を焦点に
中国へ向かったそうです

当時の中国首相の周恩来との会談では
日本軍の侵略行為を執拗に批判します
場の空気が張り詰めた時
角栄氏は
「中国の言い分も分かる。
しかし、今日から隣同士で仲良くしよう考え、中国に飛んできたんだ。
日本に帰ったら、わたしは殺されるかもしれん。
決死の覚悟は出来ているんだ」
と言ったそうです

さらには
「太平洋戦争の時、わたしも二等兵で満洲にいた。
わたしの鉄砲がどっちに向いていたかは分かるでしょう。
中国ではなく、ソ連に向いておったんですよ」
この言葉で会場は爆笑に包まれ、交渉は一気に進んだそうです

そして、なかなか会ってもらえなかった毛沢東共産党主席とも会談に至り
毛沢東主席は
「喧嘩は済みましたか?喧嘩しなくちゃだめですよ。喧嘩をして初めて仲良くなるのです」
と言ったそうです

喧嘩は済んだという毛沢東氏の表現で
日中の交渉は大筋でまとまったことを示唆したということです


9月29日には日中共同声明が発表され
戦後賠償問題は一応の決着をみたのですが

今度は、台湾との問題が浮上します
「台湾は中国の一部だ」と主張する中国と国交を結んだのですから
台湾としては日本との断交を宣言するのです

また、親台湾派の議員たちに理解を得るため
角栄氏は、中国から帰国してすぐ
自民党の大講堂に向かい、議員たちの前で話します
「中国には10億を超える民がいる。
善いことも悪いことも素直に話し合える関係を作らんといかん。
それを考えて、わたしは国交正常化を決断した」
そのあまりのストレートさに一同言葉を失ったそうです

日中国交正常化の結果をだした田中内閣でしたが
物価・地価上昇や公害問題などの高度成長の歪みが表面化しだします

そして、オイルショックです
62%あった支持率が
1年足らずで20%台まで急降下します

そして
1974年10月10日発売『文芸春秋11月号』に掲載された2本の記事
・立花隆の『田中角栄研究~その人脈と金脈』
・児玉隆也の『淋しき越山会の女王』
この記事が出た2か月後、田中内閣は総辞職します

この記事を読んでいないので、何とも言えないですが
『越山会の女王』とは
角栄の佐藤昭氏を公私ともに支える金庫番
だったそうです
要するに愛人の一人だったのですね

娘である、田中眞紀子氏が家庭内で
父・角栄氏の退陣を要求したそうです

コロナ禍の今、田中角栄が総理であったら・・・
という妄想論をよく耳にしますが

田中角栄氏なら
納得のいく政策をしてくれてたとは
思わないのです

当時の高度成長期の日本という背景があったからこそ
田中角栄氏は
活かされたのかもしれません