◇本心に生きる◇
本心に生きるとは、自分の気持ちに正直に生きるということです。
私はこれこそが悟りへ向かう本筋だろうと考えています。
しかし、それがなかなか難しいようです。
なぜなら、そのような生き方は往々にしてバカ正直なほど愚直なものだからです。
楽をしたいという自分の表面的な欲や賢さが邪魔をするのです。
表面的に楽な方に流されてしまうのです。
また、小賢しい考えが先回りして、本心からでる考えや衝動を遮ってしまうのです。
そのように上滑ってばかりいるのではなく、一度立ち止まり、自分は本当はどうしたいのか、何が自分の本心なのか、よくよく考えてみて頂きたいと思います。
楽をすることや、得をすることが本当に自分の本心なのか、自分に問いかけて頂きたいと思います。
それで本当に納得できるのか、納得しているのか、誤魔化してないか、確かめて頂きたいと思います。
改めて「本心」と言うと、本心が何か大きな夢を叶えることだったり、非日常的なもののように思えてしまうかもしれませんが、それは誤解です。
本心は極めて日常的なものであり、日常のあらゆる場面でいつもあなたの内面にあります。
自分の素直な気持ちに気づき、それに向き合うだけでいいのです。
難しくしているのは、楽をしたい(苦しみたくない)、得をしたい(損をしたくない)という少し強すぎるあなたの思いのせいなのです。
実際には、本心に気づいていても、そのようには行かないことの方が多いのだろうと思います。
上手く行かなくてもいいのです。
本心に対して精一杯取り組んだかどうか、納得できたかどうかが大切なのです。
日々そのように生きて頂きたいと思います。
そうすれば、人生に何か大きな課題がある方はその課題に取り組むことになっていくと思います。
また、悟りと縁がある方は自ずとそのようになっていくのだろうと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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本心に生きるとは、自分の気持ちに正直に生きるということです。
私はこれこそが悟りへ向かう本筋だろうと考えています。
しかし、それがなかなか難しいようです。
なぜなら、そのような生き方は往々にしてバカ正直なほど愚直なものだからです。
楽をしたいという自分の表面的な欲や賢さが邪魔をするのです。
表面的に楽な方に流されてしまうのです。
また、小賢しい考えが先回りして、本心からでる考えや衝動を遮ってしまうのです。
そのように上滑ってばかりいるのではなく、一度立ち止まり、自分は本当はどうしたいのか、何が自分の本心なのか、よくよく考えてみて頂きたいと思います。
楽をすることや、得をすることが本当に自分の本心なのか、自分に問いかけて頂きたいと思います。
それで本当に納得できるのか、納得しているのか、誤魔化してないか、確かめて頂きたいと思います。
改めて「本心」と言うと、本心が何か大きな夢を叶えることだったり、非日常的なもののように思えてしまうかもしれませんが、それは誤解です。
本心は極めて日常的なものであり、日常のあらゆる場面でいつもあなたの内面にあります。
自分の素直な気持ちに気づき、それに向き合うだけでいいのです。
難しくしているのは、楽をしたい(苦しみたくない)、得をしたい(損をしたくない)という少し強すぎるあなたの思いのせいなのです。
実際には、本心に気づいていても、そのようには行かないことの方が多いのだろうと思います。
上手く行かなくてもいいのです。
本心に対して精一杯取り組んだかどうか、納得できたかどうかが大切なのです。
日々そのように生きて頂きたいと思います。
そうすれば、人生に何か大きな課題がある方はその課題に取り組むことになっていくと思います。
また、悟りと縁がある方は自ずとそのようになっていくのだろうと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
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読んで頂いてありがとうございました。

仰る通りです。
他の人について言及すると少なからずこのブログを読んでいる他の方達を混乱させてしまう事になりますね。
考えが足りず申し訳ありませんでした。
ですが、無用な影響が及ぶのを避けるため、公の場でコメントするのは控えたいと思います。
すみません私の書き方が悪かったですね。私は空というものに一瞬触れただけです。自分が在るということは慧空さんの記事からも自分の実感としても理解しています。
話は変わりますがダンテスダイジという人物をご存知でしょうか?30年程前に亡くなられた方なのですが私はその人が覚者だと確信しています。
講話のテープがネットにアップされているのですがもし興味がありましたら1度聞いてみてはいかがでしょうか。よろしければ感想などを書いていただければ嬉しいです。面倒でしたら無視していただいて構いません。
https://onedrive.live.com/?authkey=%21AJ3yMTEVz%2Dn4SUw&id=120D5B6837379D16%211918&cid=120D5B6837379D16
せっかくご報告頂いているのに恐縮ですが、「自分というものが無くなる」ことはありません。
どんなに悟ろうと、「私」は必ずあり、無くなることはありません。
自覚を通じてそれに気づいて頂きたいと思います。
慧空さんの体験談にある自分を見るワークをやった所、自分というものが無いということが分かり、それ以来執着がなくなり自我が薄くなりました。以前から解脱を目指しており気になることを調べたりしていたのですがそれがやっとものになってきて嬉しく思い、感謝の念を伝えたくコメントさせていただきました。ありがとうございました。
>先輩を大事に出来ない悟ってる人がどこにいるのですか
そうですか、そうですか。(^o^)
わたし(私とあなた)
そして
腹センター(ただひとつのわたし たち)
そして
ノーセンター(*センターそのもの
・神)
いつもある精神統一
すべての出会いが真実の愛に気づくために演じてくれている
協力さぎょう
まるで人生って
映画みたいですね
冷静と情熱のあいだ
という映画(DVD)よかったです
主人公が絵画(ビジョン)の修復士というところがよい設定ですね
悟りの第一段階であるステートオブプレゼンス(気づき・今ここ)だけが、変わらない真理ではなく
いつもある精神統一という
深い
変わらない 愛
であることに気づくことが大切なのだと思いました
最初のときはステートオブブレゼンス(気づき)だけが悟りのすべてだとおもいこんでいたけどね…。
すべてが愛だったのですが
それが愛だと直接的にわかるのがいつもある精神統一なのです
それは個人的ではないからです
それに動かされてきたことがわかるのです
それがおわることも
愛そのものに帰ることも
そこにはだれもがいます
エネルギーそのものです
わたしは感謝するでしょう
神在りに
かきます
無条件の愛(精神解放)からのメッセージです
補足説明1
今この瞬間のかがやきについて
もし、思考をとめるなどの‘方法’でかがやく世界を
体験していると勘違いするなら
努力していることに気づくべきです
(‘方法’でではなく、自然にやんでいるなら大丈夫です)
前者はステートオブプレゼンスをこえることはできません
そこには私というエネルギーがあるからです
()の後者は
自然精神統一(精神解放)によりなされているからです
補足説明2
たんに努力をやめようとかやってるのは腹センターです
ノーセンターはいつもある精神解放(精神統一)の気づきです
補足説明3
今この瞬間というのは
いつもある精神統一と同じで
意味は正しいですが、表現は
理解の正確さのためには不親切です
まだ肉体(体外離脱の反対)があるために
意識の一転の錯覚がわずかにあるため
光が一点に(いつもある精神統一という集中点)があるという誤解になります
肉体を脇において説明しますと
つまり自我という脱け殻があるため 脱け殻のセンターにある精神統一があると思ってしまうのです
しかし真実は精神解放であることは述べました。
それと同じように
今この瞬間
という表現は
まったく同じ誤解を生んでおります
なにか中心があるように感じられる表現なのです
補足説明をまとめますと
今この瞬間についての誤解にはふたつあります
ステートオブプレゼンスの誤解が、1つめ
ノーセンターそのものについての誤解(いつもある精神統一という表現において生ずる誤解、と同じ誤解である今この瞬間についての誤解)
ということです
3つめの誤解もありますが
もはやいう必要はないでしょう でも一応かいときます
投影である過去という五感(対象)に集中して、我をみうしなっている瞑想などです
これも真実の自己(今この瞬間)からはなれているかのようになっています
なぜなら投影とは私という想いをだしたさらにそのあとのもっとも過去だからです
でも分離はおこっていないので安心してください
想いは基盤(パワー)をはなれません
精神解放(精神統一)されています
世界はおわっているのです
さまよいつづけるでしょう
このいしきでよいのであるとゆるせば
残りの人生楽しんでいけるのです
奉仕したければいいし
ハートのままに♪
ラヤ(私以降の思考をとめること:みられるものである思考をとめる、ともいう)
ステートオブプレゼンス
(みるもの:思考主体をみること・さいしょの悟り・気づき・空ともいう)※こちらも含めて広義のラヤとよぶ場合もある
胸センター
腹センター
ノーセンター(存在・センターそのもの)
への、センター(ハート)のいしき拡大は
私という思考のみならず
努力(私)エネルギーをみて、それが実在しないと悟る段階である(これがステートオブプレゼンスとの違い)
存在・エネルギーの統合・見性・覚醒といわれている
努力はいらない
ということをきくと
努力をやめようとするのがふつうですが
そうではないのです
このいしきでいいからです
努力をやめようとする
(努力)
のはまったくいらないのです
たんに努力をやめればいいとかきましたが
※それもいらないのです
これが
努力はいらないの真の意味です
すでにあるからです
なにかをするのは過去です
私は過去です
私はたんに努力をやめなければならない
これが腹センターの波動です
今実現していません
ということです
ところが今実現しているんです
今実現していませんというなら
過去(想念のなかにおり、私の立場にいます)
存在半分という想いは私であり
想いは過去なのです
過去とは投影のレベルの一直線の時間のながれのなかのある時間帯をさすのではありません
いしきから想いをだし信じるなら
それはいしきから離れていると信じて遊ぶ過去という私なのです
いしきのために努力はいりません
過去のためには努力が必要です
私のためには努力が必要です
たんに努力をやめればいいと
努力をやめるのは
過去です
努力(私)がすることです
努力はいらないの真の意は
たんに努力はいらないという意味は
たんに努力はいらないとやめようとすることではなく
すでにあるものを認識するということです
このいしきでいいのです
これが無努力であり自然の統合であり、いしきです
16分の1秒もかかりません
たんに努力をやめるためには努力が必要です
その努力もいらないのです
これが腹センター(たんに努力をやめようとする 自然さ)
から
ノーセンターへの認識の移行です
いやしの最後の進展です
ちなみに
ステートオブプレゼンスの私から自我(努力)をやめると
‘わたし’(‘いわゆる’愛)が感じられてきます
しかしまだ無条件の愛ではありません まだ‘愛’です
まだうち側(解放)があるのです
無条件の自然の愛に近づくと
腹センターに移行します
そのあとは
おはなししたとおりです
腹センターの「自然さ」ではなく(たんに努力をやめてる状態は最終段階ではありません)
そこにはまだ努力があります
サハジャ・自然・無努力
がノーセンターです
それがいしき(無努力)です
しかしノーセンターは基盤でありすべてを含んでいるため
努力をしていても
すべてはそのなかにあるのです
そのなかの遊びです
それはメリーゴーランドのようなものです
ステートオブプレゼンスのポールの柱のお馬さん
ハートの柱のお馬さん
さいごに
メリーゴーランドの馬からおりまだ、メリーゴーランドにのってる状態
(あるいは中心にいちばんちかいお馬さんに乗ったと想像してみてもいいです)
そしてメリーゴーランドの台からおりて
センター自体からおりて
大地エネルギー
あるがままのいしき
にたつようなものです
すでにあるものをうけいれることです
自然
生きながらの体外離脱です
自我とそして一体化した身体という
両方の執着がおわるのです
無条件の愛しかなかったのです
無条件のいしき
それしかなかったのです
内側も外側もありません
ただ自然さがあります
それがいしきの自然な状態です
それが実相世界といわれています
すべてがそのなかにあります
そのなかでいやされています
そのためにどんな努力もいりません
それはいつもいまここにあるからです
はじめから
このいしきでいいのです
それはいつもありました
真我探求という
事実探求を
いつもある解放
このいしきでいいのである
空がどこまでもひろがっているように
いしきはどこまでもひろがっているからである
いつもみずからは私ではない
なぜならいつもそとがわもあるからだ
いつも
私はどこにあるのだろうか
身体の皮膚の内側に沿ってあるのだろうか
あるいは胸にあるのだろうか
しかし仮にそうだとしても
いつもその外側も認識している
だからそのなかにいるわけじゃないのは明らか
それだけではなくそもそも
身体というのは私のあとの発想だから
身体を参考にしてから場所を指定しているのは勘違いというものである
そして同じようにさらに、身体という発想をしたあと、身体そのものこそがみずからだと指定することもできない
身体の境界を認識すると外側も認識しなくてはならないからである
先ほどの話と同じで、私の境界を認識するとき外側も想像して認識しなくてはならないように
そもそも単独だけで想像することはできないのである
そのこと自体が、内側も外側も、ひとつの源から想像されなくてはならないことを示している
そしてそれは私がしてることである
しかし
私もまた
単独では存在しない
つまり
私はそもそも単独だけで想像することはできないのである
そのこと自体が、内側(私)も外側も、ひとつの源から想像されなくてはならないことを示している
そしてそれはいしきが発想してることである
内側も外側も
そして意識とは
内側と外側を発想した状態のことである
いしきは絶対意識である
それが事実である
その絶対意識が
相対意識を発想し
さらに身体と外部世界という個人意識をも発想しているのである
しかし 事実というのは絶対意識である
そのなかにすべてのパワー(発想)はおさまるのである
なぜなら事実のパワーだから
その事実にかえっているのである
いつもすべては
解放されている
いつも無限の空
という事実をじつは認識している
このいしき(事実)でよかったのである
これがいつもある事実(解放)である
どうしてかというと
いしきの量は変わらないから
そのなかで
その力をつかって
私は誰かとただ悩んだだけだから
いしきの量は結局、悩んでないときも、悩んでるときも変わらないんだよ
変わらない
ことに気づいてるのが見性・覚醒
活動があろうと夢(変化)から覚めてるんだ
これが実相世界(見性・覚醒)
それは今ここにあります
私は自然に戻らなくてはならないとか
私は不変に戻らなくてはならないとか
それは夢から覚めていない状態
なにもパワー(基盤)の量は変わっていないんだ
にもかかわらず
‘私(変化)’を信じてるから
それを前提として
変わってないのに
不変(自然)に戻らなくちゃと考えてしまう
それが腹センターの状態
腹センターは
私は不変(自然)に戻らなくちゃならない
と考えてる状態
なんもかわってないのにね。
基盤がノーセンター
今がノーセンターです
基盤の力をつかってなにがあらわれているようにみえても
なんもかわらないと
しってるのが見性で
その気づきが安定すると覚醒
私というエネルギーがたちあがったあと
見るのである
すなわちそれは
それ以降に発見することは(行うことは)
私のあとの集中がうまれている
それは思考をとめることであれ
そのとき
私のあとのマインドの部分を停止させているだけなのである
みるものとみられるものである
そのみられるものをとめた
それだけの話(ラヤ)
そしてみるものを
みようとするのも(ステートオブプレゼンス)気づき・いしきにすぎない
それはある種の気づきのスペースであるが
私というセンターエネルギーのスペースである
その緊張(私というエネルギー)が解放されると
エネルギーはハートにおちてより自然になるが(ハートのセンター)
まだ自然ではない
自然さは腹センターで「感じられる」が
自然 ではない
自然はノーセンター
ふつうである
それが生きながらの解脱である
あまりにも明白な自然な状態にもどるとき、じぶんがばかな遊びの世界(二元世界)をしていたことがわかるようになるだろう
リラックスしようとする(手放す)ことは
精神統一がないとおもうことからはじまるので
それはリラックスするとは名ばかりで
※私というパワーをだし捨てる行為です
ふつうにしてたら存在するものを…
私は実現していないという思いにひきずられ
リラックスする(パワーを捨てる行為を私という想いがしています)
そしてそれによって維持している私(センター)のが
努力をすることが可能になります
そしてパワーが拡散(いわゆる自我がやってる集中)しています
源泉がそれをおわらせる
じつは自分はなにもしていなかった
すべてパーフェクト
オートマチック
いつもある精神統一によりビーイングを味わうちがいについてのべます
リラックスしてビーイングにいたることは
スピリチュアルに無関心であってもできます
だれでもふだんリラックスしたり熟睡したりするときにしています
それを自覚してやれるのが
見性や覚醒まえの
すでにある精神統一の自覚です
しかし
いつもある精神統一を自覚しているわけではありません
いつもある精神統一を自覚することが見性であり
その自覚が安定すると覚醒となります
なぜ
すでにある精神統一の自覚が
見性や覚醒ではない
のかというと
それは
無努力と努力の境目への信念が破壊されていないため
いつもいやされているという自覚がないためです
その信念が完全に破壊されると
覚醒です
その信念が破壊されつつあり
境目という信念を信じていないとき
見性といわれます
そして
一般的なリラックスや熟睡
は
境目という信念がありつつ休息(ビーイング)している場合です
ですから
境目への信念があるためビーイング(熟睡やリラックス)がじぶんという自覚はあきらかではありません(リラックスや休息はしています)
そして
すでにある精神統一として自覚している場合
境目への信念はあいかわらず破壊されていませんが
リラックスがじぶんであるという自覚があるのです
ただし
見性ではありません
見性とは
境目の存在の信念を一時的にであれ信じてない状態です(だからたんにリラックスしたり、リラックスがじぶんであるという自覚だけではありません)
すなわち境目があるという信念が破壊されていないと
活動がおこったとき
いやされているという自覚がないのです
覚醒(ノーセンター)では
いやされているという不動の状態があります
そして見性とは一時的な覚醒状態なので
見性状態がながくつづけばよいのですが
すでにある精神統一にもどってしまう場合があります
もどると境目があるという信念がのこっているため
センターという信念がまだあるのです
その意味で見性の初心者(一瞥者)というのは
ほとんどが
センターという信念をもっています
見性の習慣者は
センターはのこっていますが
ほとんどが
ノーセンターにとどまっています(ただしセンターは覚醒者のように脱け殻のようになってはいません。まだセンターの信念は燃え尽きてはいないのであります)
覚醒者はセンターを破壊した状態です(脱け殻:燃え尽きたロープはのこっています。それゆえこの世界での活動はまだ可能です)
Over(以上)
重力というのは
自我により感じられるようになるのです
存在からはなれるように想いがあると
その想いは重力を感じています
なぜなら
想いは源をはなれないので
重力(存在へのよびかけ)を感じるのです
自分という観念や投影された身体がじぶんだと感じると
重力をいつもどこかで感じています
観念が存在にもどると
重力を感じなくなります
存在(重力そのもの)だからです
そのプロセス(精神統一の)の中途で無重力を感じることになりますが
それはセンター(腹のセンター)がのこっているためです
存在の自覚に落ち着けば
無重力
(これは重力がなくなるという意味ではなく、重力の元:存在に近づいているので)
を感じとるセンター(心の部分)がきえます
例をあげますと
夜寝て休むとき
愛する人の胸に休息するとき
などの例がわかりやすいかもしれません
まず
ハート(吸引力)にエネルギーがおち
それから
ビーイング(存在)です
※無重力感は腹センターを一時的に通過するためです
私を抱けば虹(にじ)
となる
そんな私を捨てるのではなく
私を精神統一してくれていると気づくとき
雨はやむ
愛
虹(にじ)の足元に
すべては包みこまれてきえている
満足で まぼろし‘私’をつかってなにもすることはない
愛から離れたと信じるなら‘私’
はなにかをさがさなければならない
悲しいから
‘私’は外側をさがさなければならない
しかし
だから
なにかをみつけるためではなく
‘私’は分離していないとかくにんしたいためにそとがわをさがすのだ
そしてそとがわはあるのだから
孤独はいない
そとがわがないなら
つまり‘私’
なら
そとがわ
などないと信じるから
空想で外側(満足)を埋めなくてはならない
‘私’(分離)で満足ならそとがわをさがす必要はない
なのにさがすということは
分離で満足してはいないということ
だからほんとうは
愛から分離していないことをかくにんしたいために
そとがわをさがしたかったのだ
それが本音
私はほかの兄弟とつながっている
私(たち)は神(愛)とつながっている
それがハートであり
愛である
ハート衝動は
私はハートとして分離していないとかくにんしたいのが本音でそのために
そとがわをさがす(かくにんする)のに
分離しているという信念のために
ハート衝動のゆがみは
‘私’は分離していないとかくにんしたいのが本音なのにそのために
‘外側’の方をさがしてしまうのだ
そとがわではなく外側をさがしてしまう
そうすると兄弟や神の愛というそとがわではなく
幻想をつくりだしてしまうのだ
奇跡衝動の歪みは愛からくる赦しにより訂正される
そしてその結果
あらゆる歪み(幻想)はいやされことになるのだ
ハートを忘れる状態について
目覚めた熟睡:安眠
できないときには
自分ひとりでなにかを
きめたにちがいない
だがそれもまたよし
しかし
あらためて答えをだしてしまうと
私は「素顔」という仮面をかぶることになる
愛の目覚めは恩寵
夢をみた
それは恐れをともなった夢であった
ある人間がわたしを鋭利な刃物でわたしをなんども
切りつけてくる
なんどもなんども
わたしはなんどもなんどもカワシ
あたかも不死身だった
(あたかも夢のなかの身体がカワシているように感じた)
そして
ついに狂気な敵の身体を切り
とどめの一撃を胸につきさし
たたかいはおわった
次に(このときほぼ朝の意識に移行してたが、)
セナ(アイルトンセナ:亡きF1レーサー)が
事故で担がれている写真を思いだした
死
である
そして朝の意識がはっきりした
さて
私はこの夢を嫌な夢だとしばらくは思っていた
意識の在るがままに寝たはずなのになんでこんな夢をみるのかと
思っていた
しかし
夢は敵ではなかった
夢はアドバイスだったのである
真我からの
そして私が戦っていたのは
真我だったのだ
真我は私をなんども黙々と切りつけてきた
私は夢のなかでは身体でよけてるつもりだったが
じつは私がよけていたのである
【私】がよけていたのである
この気づきが目覚めたあとおとずれたとき
精神解放の気づきがおきた
安心したのである
夢はおそろしい夢ではなかったのである
助けだったのである
【私】がそれをおそろしがっていただけである
おそろしがっていた【私】は夢のなかでは
敵を切り滅ぼし、胸(ハート)にとどめを刺したつもりだったが
以上 今朝の夢でした
今朝は体外離脱からもどるプロセスの夢ではなく、このような夢でありました。いずれにしろありがたいお知らせです。
つまり
「私は、在るがままの意識だ」
という思考
そして
【私】を打ち破る ために夢があらわれてくれていたのです
それは真我からの夢だったのです
あらためて精神統一することはできない
この意味についてのべる
あらためて精神統一することができないというのは
自我が(つまり自我にとって)あらためて精神統一することができない
という意味ではない
自我(というもの自体)が精神統一できないのである
くり返すが
自我が(つまり自我にとって)あらためて精神統一することができない
のではないのだ
自我は身体やあるいは何かの考えを支え(すなわち主体)にしようとするが
それはたよりにならない
考え(心)を支えにするのは身体を支えにするよりもたよりにならない(ブッダはそういった)
身体を支えにするほうがまだましという
しかし身体を支えにするのもどうせたよりにはならない
そのようなものは主体を演ずるにすぎない
私は身体だ
ではスピリチュアルな人は満足できない
だから
「私は意識である」
とか
「私はスピリットである」
とか
スピリチュアルな人は
観念を支え(無意識のうちに主体)として生きる
しかし
ここにおける
「意識」とか
「スピリット」は主体に
ならないのは明らかである。
ではいったい何がたよりになるのか
私だ
この私が癖もので
私を
「私」
とみていない
※私は精神統一されていると思いこんでいるのである
私は精神統一されていない
不完全である
そのとき
精神解放の気づきがおこる
閉塞感はきえさるのである
私
や私がリラックスするという思考とともにリラックス
して眠ると
いしき(熟睡)は無自覚です
意識の在るがまま♪眠れば
じぶんがねた記憶はありません
目覚めた熟睡(いしき)がつづいているからです
じぶんがねた記憶があるということは自我が目覚めとともにつかんでいる自覚の背景がある
ということです
目覚めた熟睡について
♪パパジの表現をかりるなら
パパジ
あなたが考えているかぎり、あるいは考えないようにしようと努力しているかぎり、それが起こることはない。(覚醒の炎p316)
現在が精神統一です
だれも現在のそとで考えることはできません
が
私 は過去です
いしきの記憶です
私は過去‘ ’です
かこは記憶です
しかし記憶が自分だと勘違いすると
つまりいしきが抱く‘私’はじぶんの記憶です
じぶんは現在
であるということを忘れているということです
だれも記憶(私)で満足することはできません
リアルでいたいからです
しかし
私(記憶、思考)がリアルだと思いこんでいるなら
その空虚感をなんとか埋めたくなるものです
だから
記憶(私)はあれこれ考えたがるのです
(私のまわりの空虚感を埋めたがるのです)
私が信じる神様とか
ぜんぶ考えです
記憶がもつリアル(神)をおそれて
リアルにもどるのではなく
身体と世界を投影して逃げたりしているわけです
身体と世界ではなく
記憶がもつ神(リアル)でもなく
私(記憶)でもなく
現在♪でいること
リアル♪でいること
説明というのは誤解をまねくので
この意識でいいのです
いかなる小細工もくわえないでください
いしき半分でない、いしきにならなければとかいらないのです
このままの意識でいいんですよ
意識を変えようとかしないでください
しようとしてもこの意識でしてる
だけだから
いかなる意味でも意識をかえようとしなくてべつにいいんです
ある
に気づくかんたんな教えはほかにもある
それは
ない
を体験することはできないということである
あるが
基盤
だから
だから
一瞬に気づくことができる
見える、感じる、思う、考える
これは相対
しかし
ある
は絶体
である
だれかがそれを感じることはありえない
二元ではない
それは一元
そしてだれもがあるという感覚をもっている
それが気づきの完成であり
いつも完成されている
それは相対を排斥して完成されていない
相対をのみこんで完成している
熟睡 夜の夢 昼の夢見
どの状態でも
基盤は存在している
ある
が失われることはない
基盤に気づくために努力はいらない
そして想いが動いているときに
想いを止めようとするアプローチ(道)は必要ない
これが最終段階である
それにアプローチはない
想いを止めようとしているとき
それにはある種の手間がかかっている
しかし
そうしようとしているときに
いつも
「いしきはある」
この
「いしきはある」
に瞬時にして気づく
いつもあるものに
そのとき
一瞬にして
ある
これが
今この瞬間の教え(第一方便)なのである
精神統一のためにどんな努力が必要だというのだろうか
気づくためにどんな努力
が必要だというのだろうか
気づきは分割不可能である
いつも精神統一はあるのである
なぜ努力が必要ないのだろうか
それは
努力しないようにするという意味ではないからだ
このことを説明してみよう
私(いしき半分)や私がする努力や非努力は
私(いしき半分)が不可能という気づき時点で
その悩みは♪うちやぶられるからである
この気づきですべての悩みはおわるからである
いしき半分(私)になどなれない
だとすれば
私が努力したり
努力しないようにし たりする
私の選択
が自動的にとけさるからである
私に行ってみなさい
行けましたか? パパジ
というパパジの教えで一瞬にして気づくのである
恐怖の夢も
幸せな夢も
なくなる
私は努力する
私は努力しない♪
こうした選択(決断)のマインドのシステム自体がとけさるからである
間違った選択も
正しい選択(赦し)も
夢でしかない
いしき半分になれない
気づきの一撃で
私(いしき半分)はとけさり
ある
いつも
Over(以上)
第一方便は
いつもある精神統一(意味は精神開放。)
真我は分割ふかのう です
※それとはちがうフィーリングの説明は
ほとんど
第二方便です。
手放そう
(私)焦点をなくそう
努力をやめよう
明け渡そう
委ねよう
静かにしよう(ただ静かにしていることは除く)
がそうです
これらは
第一方便への準備段階にすぎません
気づきの力にたよらず
努力にたよっています
努力によって実在をとらえている段階なのです
ですから
オートマチック(サハジャ的状態)にはなれません
これに対して第一方便(精神は分離できない※いしきは半分になれない)
は
気づきの力であるため
オートマチックであり
即、認識をいやすことができます
これは仕事をしてる人には非常に向いてるアプローチです(もちろん頭をつかっても精神分離は気づきにおいて起きません)
今としてすべては精神統一(精神解放)されているからです
あともうひとつ
観照についてのべますが
これはある程度の努力に基づいてやっていることなので
努力自体をやめようという第二方便よりも
少し段階がおちます
2.5方便です
第三方便である修行(モロ努力)
とのあいだにあるアプローチとなります
観照は努力でやってるので
必ずある種の二元状態になります
起きることが起きるようにみえてしまうというわけです
自我がのこっているためです
その自我を直接手放そうという第二方便
よりも少し段階をおとしているやさしい方便です
もし
自我自身を直接手放そうとするならば
~をやろうとしてる私はだれか というアプローチや真の赦し(奇跡のコース)
という最も直接的な方法になります
(ちなみに、私、私、私と唱えるアプローチは第三方便の分類に入ります。それは自己ではなく私という観念に集中するやりかただからです。ただし、第三分類のなかでは、最高峰です。他の瞑想では、第一想念よりあとの観念や象徴に集中するやりかただからです。第一想念や第二想念:聖霊や神 よりあとの観念に集中すると、努力の必要性はより高くなっていきます)
話がそれましたが
直接努力(自我)を手はなそうというのではないのが
観照です
そして観照は
みるものと
みられるもの
の二元状態(私からはじまる観察の意味ではない。いしきからはじまる、
私と、私の世界の観察)ですから
まだ分離に気づこうとしている状態です
しかしこれが統合されて
内側でも外側でもいい状態
になると
今(精神統一・精神解放)の状態になります
これが温泉・サハジャ的な状態
(見性・覚醒の気づき)
という状態です
だれでもその状態にあります
それに気づいていないだけです
そして
この状態に完全に安定すると。
サハジャ(覚醒)・あと戻りすることのない真我実現といわれています
以上が概要の説明です
あらためて精神統一することができないのは
じつは一度も精神統一(ハート)を失ったことがないからである
この意味において
すべては癒されるのである
癒されることが可能なのです
もし努力でなくて、なにかの固定された実在なら癒されることは不可能になります
私も私の世界も努力(想い・夢)だからこそ
癒されているのです
今(癒し)のために努力はいらないのです
というか努力(私)はとけてしまいます
努力するためには足掛かりがなくてはなりません
‘ ’つまり‘私’
が足掛かりとなるはずですが
それが実在しないとわかれば
今にきえていくしかないのです
この気づきの段階では
努力は不可能になるのです
そしてこの気づき(今)は幸せです
私を、分離させないでください
精神統一に気づきましょう
そうすれば
エゴのおわりです
虎(真我)は口をとじます
※真我が探求者に探求をおわらせることを意味する
次は
精神統一について語られなければなりません
でなければ
説明された学習者は
分離が現実だと思い込むでしょう
精神統一されていないと思い込むので
精神統一しようとするのです
それは下手な説教師の影響のためです
モノではないため
分けることはできません
私は想像です
なので
想像でわけてるだけなので
いつも精神統一があります
精神統一とはなんでしょうか
いつもあるこのいしきが
精神統一です
それはただ気づくだけでいいのです
そうすれば想像が癒されます
輪(わ)からないのです
○ も‘ ’もない
私はいないのです
わかろうとするのは無駄です
分かろうとするのは無駄です
分かりたいというのは
何かを分かろうとする意味ですが
それ以前に
分かろうとしている私自体が
分けることが不可能なのです
ひとつのいしきだから
モノならわけることができますが
愛はモノではないから
わけることはできないのです
このことは何を意味しているかというと
閉塞感を感じているなら
まさしくこのことを信じているにほかならないということである
さらに閉塞感を感じるならそこには
二つのパターンがある
1つめ
私という自意識が
私という思考をもっており
私という思考と同一視している場合
(これは容易に誤りに気づきやすい 観照者になればよいからである、思考の観照者)
もう1つ(この誤りは、容易ではない:最終段階だからである)
私という自意識が
私という思考をもっており
という自覚における
私という自意識(観照者)自体が
実在しないという真実である
ここに閉塞感のおわりがある
ひとつ
から
私と考えると
当然私と考えたのだから
私以外があることになる
この二つという考えの状態は
ひとつ(いしき)を二倍にするわけではない
私は思考力でしかない
その力はいしきの力をつかっているにすぎないからである
それから
私と考えることによって
いしきが半分になるわけではない
私はいしきの力をつかった考えにすぎないからだ
しかし
私がみずからだと思い込むなら
そのとうりにおもいこむだろう
しかし思い込むことから
やめることもできる
真実は神の子を自由にする
ひとつ(いしき)
ニュートラル(私以前)の世界
ただしニュートラルといっても、もちろん中間という意味ではない
(通常いわれているニュートラルというのは何かと何かの間を意味している。しかし、ほんとは最初の何か:私 以前のいしきだけの世界を意味するため、すなわち私と考えたときの私と私以外の壁:中間を意味するのではない。)
未分離の世界である
それが考えのない世界である
考えの世界があるとき
その世界はいしきの力で考えられているのにすぎない
そうすることも自由である
いしきは自由なのだから
考える自由もある
もし考える能力がないなら
それは
万能ではない
考えない自由もあるし
考える自由もある
それが万能である
真実(自由)は神の子をまさしく自由にする
神の子は自由なのである
考える「もし?」ことがゆるされないというなら
神の子は万能ではない
そして
考えることをやめるのも
もちろん神の子(キリスト)の自由である
そして
神の子とはもともと
私という考えがないときにも存在するから
もともとは未分離だけの世界のことである
だから
神の子というのは考えにすぎない
神の子というとき
それは私という考えの視点から
いしきのことを神とよんでいる
そして
神の子とは
私(思考)のことである
したがって
神や神の子という考えは
私の考え でしかない
考えることをやめるとき
そういった考えはなくなる
そして
ひとつ(いしき)だけの状態となる
ゆるしとは
いしきのなかで
考えるのをやめるプロセスである
いしきのなかで
考えをゆるめ
考えるのをやめるプロセスである
いったん私にもどらなければ
努力をとらえられない
努力(苦しみ)をとらえれば
努力を手放すきもちにすぐなる
これが自然状態(ま~るいいしき)をもたらす
初心者は努力が無意識的になっているため
初心者の場合は
こういったプロセスが必要となるのである
存在してると気づいているだけでいい
ほかになにも実在はない
悟りとは
存在してることなんだから
はっきりいってそれ以外のことをおぼえていることなんかできない
朝おきたらそれ以外覚えてないし(悟りってなんだっけ状態)
熟睡してるときもそれしかない
にもかかわらず朝おきたら悟りってなにか覚えてなきゃならないって思いこみがある
いやいや無理 そんなもんしらん
アハ
かんたんにいうと
つかむ者(主体)をつかめない
♪ということである
ハートを開くとは
つかめて いなかった と気づくことである
私すら♪
(ラクですね)
が悟り
という話をきくと
勘違いすることがあります
それは音だけがあり、きいてる私はいない
それが私はいないことだ
と勘違いしています
初歩的な気づきの間違いです
まず
じぶんが
パン!という音を朝起きて
鳴らそうとするとき
どのようなプロセスがあるでしょうか
それは
熟睡のときあるのとおなじパワー
あるパワー(イシキ)
が起きてるときにもあり
そこから
鳴らそうという意志がおこり
手を動かし
叩きます。
聞いたとき
初心者は
その結果(音)のほうに
気をとられ
誰が それをたたいたのか
そしてその誰(意志)は
どこからきたのか
わかりません
それは
いつもあるもの(イシキ)からきています
パン! これしかない!!
というのは
そのパワーをさしています
今この瞬間というのは
イシキ(基盤)をさしているのであり
これしかない というのは
基盤をさしています
その変わらない基盤のエネルギーをつかって遊んでたたいているということです。
今しかない
これしかない
大和田菜穂さんは
愛しかない それしかない
じゅんころさんは
パン! これしかない!!
といってるのかもしれませんね。
奇跡のコースではその気づきを癒しとよんでいます
つまり目覚めではなく
覚醒についてかいてみようと思います
もちろん癒しについてもかいていますが
あるいは見方によっては
このコメント全部が目覚め(癒し)について書いているじゃないかと思われるでしょうが
ある意味ではそうですが
じつはその主旨のコメントではありません。
一日をはじめる前提がちがってきます
変化する世界のなかで不変に気づこうとするスタンスと
はじめから醒めている心境とは
ちがいます(心の余裕がちがうからです)
一方では気づかなくてはならないという(自我の)思いはあり
もう一方はそれがありません
なのであらためてかいてみることにしました。
癒しは依然夢をふくんでいますので、それとは書き方が若干ことなります
変化を信じる認識があったとき
いつもある精神統一にもどす
というのが癒しです
しかしそれは夢への信念を含んでいる状態です
しかし醒めている心境は
同じく夢はありますが
もどそうとする心理は働きません
というより働く必要がありません
なにも変わらない
という心境から
一日をはじめるからです
変わらないという心境は
強力なもので
いつもある精神統一に気づこうとする行き方よりも強力なのです
はじめから変わらないという心境
これも気づきの力です
同じようにみえますが
より強力な気づきです
あれ、書けちゃった。
おわり♪
ふつう
私という想いがあれば苦しみます
私という想いを独立したものだと思い込むからです
そうすると苦しみになります
これに対処する癒しは3つの方法(ほかにもあるかもしれませんが、)があります。
1つめ
パーサの思考プロセスの実例(奇跡のコース関連の書籍である「神の使者」の太字)
や
聖霊へこれはなにかと尋ねることです
あるいは
ラマナマハルシの
私は誰かという問いかけです
2つめは
静かにすることです
そうすることで想いが静まります
(ただし、♪静かになったら、※その状態から、私は実現していない、という衝動から、静かにしているにもかかわらず、静かにしようと努力することもやめるということです)
3つめ
いつもある精神統一に気づくことです
不思議なもので気づきは磁力のようなもので
気づきはもともといちなるものなので
磁力のように想いを統一し静めることになります
気づきは分割できないからです
そしてこの3番目の方法はきわめて日常生活や仕事にむいています
オートマチックになるからです
それだけでなく
会社の仕事の活動で想いを活用しても問題がなくなるのです
パパジも、想いを活用しても問題がないとのべています
それは
ラマナマハルシがいうように、
心が活動的であろうと、真我(いつもある精神統一)をとらえていなさい、ということなのです。
しかもそのことにおいても
コントロールは私ではなくいつもある精神統一がオートマチックにすることになるので何の苦労もないのです。
以上です
補足
ちなみに
静かにしようとすることは
真我実現にいたらない
と他のコメントに述べていますが、
静かにしようと努力することを指しています
ただ静かにしていること(いつもある精神統一に気づいていること)をそこでは指していませんのでご注意してください。
なぜ書きこみをしたりするのかといいますと
いつもある精神統一に気づいたら
一者(一つの意志)が存在するだけなのだ
ということなので
なにも自我の自由がきかなくなるのです
一つの意志それがあるがままに人生がすすんでいくのです
なにも自我がしていなかったということです
海が波(夢)を動かしています
波は自分では動いていません
海が波を動かしています
この意味で自我は存在していないのです
そしてもう1つの真理は
なにも起こっていないということですが
源泉(いつもある精神統一)が夢をみさせ
源泉(いつもある精神統一)が夢をおわらせている
ということです
自我はじつは自分ではなにも動いていなかったのです
欲望もスピリチュアルな欲望も
それ(いつもある精神統一)が動かしていたのです
そして夢のなかでおこることはすべてパーフェクトなのです(最終的にはスピリチュアルな気づきがおきる)
自我は
ろくでもないことがおこったとき
目先のことしかみえません
しかし
すべてうまくいっているのです(スピリチュアルな気づきも)
よく
シナリオというと
カルマという一面的な否定話をききますが
すべてパーフェクト
という意味はそういう不完全な意味ではなくて
『宇宙の叡知』(スピリチュアルなシナリオ)なのです
修行(努力)…結果、実現不可能
観照 …結果、実現不可能
静かにしよう…結果、実現不可能
明け渡そう…結果、実現不可能
逆に
※精神統一はいつもあるから、あらためては不可能だと気づいたのです。
いつもある精神統一に気づけば
すべてはひとつの
エネルギーになるため
あらたに
世界はひとつのエネルギーとしてハッキリみえる
精神統一であらゆるエネルギーを受け入れ
ハートから世界へ
そのエネルギーであらたにみるひとつの再生された世界
これが
すでにおわった世界をもう一度みている理由である
エネルギーの収斂と再放射という
ハートのエネルギーのながれ
が癒しなのである
手放そうとする誤りについての補足もかねてかきます
すでに ではなく いつもある精神統一です
レベルの混同をしない
いつもある精神統一に戻らなくてはならないとかそういう話ではない
いつもある精神統一だから
なにかをつかまないようにしなければならないとかも誤りです。精神統一を理解していません。
いつもある精神統一なのにほかのなにがあるというんだろう
それも誤りです
over(以上)
[いつもある精神統一]
精神分離(私をつくる)が不可能
いつもある精神統一
※精神統一を精神集中と言い換えてもいい
さらにわかりやすい表現に換言
[いつもあるリラックス]
精神統一(私をつくる)が
不可能
いつもあるリラックス
補足
私=思考
《詳細説明》
精神集中しないでいいのである
精神集中は、ほんとうは不可能だからである
エネルギー的説明
精神統一という概念は誤解を維持するので
つかわないで仮説をかきます
精神集中しないでいいのである
精神集中は、ほんとうは不可能だからである
ある意味では精神集中しきれなかったといっていいかもしれません、いままで
しきれていたと思っていたのは夢だったのです
私
というふうに意識を半分にわけることはできないのは
精神統一を破壊することはできないからだと書いてきました。
このことを別の説明ですると
精神集中は不可能なことである
ということです
私は
ほんとうは不可能なのだから
わたし(自己)とは何か?
幸せとは何か?
ラクとは何か?
リラックスしていることです
精神集中できていないことです
‘私’にわけることはできないのです
リラックスは
精神集中できていない状態です
夢は
精神集中できるという思い込みです
精神集中による精神分離(私)が可能であるというのが夢です
できていないことに気づけば
夢から覚めます
実際は
いつもラク(精神集中などできていない)
なのです
実際には私はできていない精神集中だから
思考世界はできていないのです
リラックスが実在です
今のために努力はいらない
今のためにどんな努力が必要だというのかね
二つのいしきがあるというなら
私は集中(精神統一)をしようとすることもできるが
二つの今はないため
その立場に身を置くことはできないのである
すでに今(精神統一)はあるのである
認識がぼやけることになります
悟りとは認識であって変化ではない
ということです
つまり
はっきりしているイシキです
探究をやめたら今この瞬間(ここ)に気づきます
今この瞬間
そのなかで
そのエネルギーをつかって
想像してるから
そのイシキは変化しないんです
今に
気づかないのは
今というのが架空にあって
その架空の今というものによって認識をしめだそうとするからです
これがスピリチュアルの概念にはまってしまっている人々におきています
もちろん私という思いにはまっていて、今に気づかない
ということをやめるために
探究をはじめたのですが
私は今を実現できていない
と今を対極につかんでしまっています
あなたの知能がどうのではありません。
仏教を知った上で批判できない息苦しさが、ばかばかしい
わかりやすいから使いやすいけど
精神の状態を表現するのには不向きだな
なので表現ニュアンスをかえます
いつもあるリラックス(精神解放)
精神統一はできないからです
想いを抑圧するアプローチは
レベルの混同をしているのである
実在しないものをおしこもうとしているのである
その探究者はおそらく
意識というものが頂点(あるいは基盤?)
にあり
想いは積み重なっていくものと思いこんでいるため
気づきにおいて癒しが不可能になっているのである
レベルの混同があるのだろうか?
私は意識とはべつのレベルにあるのだろうか
調べてみればいい
私と意識がことならないならば
あらゆるレベルはなく(べつの積み重なりはなく)
ただ ひとつの意識をまさしくそのレベルで分割していただけになる
そしてその分割は不可能であるため
精神統一してるのです
>そもそも来世があるのかどうかがよく分からないのです(おそらくたぶん、殆どの人にとって来世があるのでしょうがね)。
そうですね。
僕もおそらく来世はあるだろうなとは思ってはいるのですが、本当のところは分からないですよね。
その通りでしょうねぇ。
>そういう場合は最終的な悟りは来世以降に期待するしかないという事になるのでしょうか?
そこが私にもよく分からないのですよ。(^o^)
そもそも来世があるのかどうかがよく分からないのです(おそらくたぶん、殆どの人にとって来世があるのでしょうがね)。
悟りに向かうには自然と欲や興味の追求の対象が深く鋭く絞られてくるのを待つ必要があるという事ですね。
そうなると、ほとんどの人は欲や興味の追求を延々としているうちに、肉体の寿命を迎えてしまいそうな気がしますが、そういう場合は最終的な悟りは来世以降に期待するしかないという事になるのでしょうか?
特殊な精神統一ではない
例でいえば
朝起きたときにも
(ふつうに)ある精神統一でいいのである
じぶんが
身体によって支えられているとか
私(心)によって支えられているとか
そういうわけではない
(ふつうに)ある精神統一を変えることをする必要もない
阿部さんの日記より
「観行」とはすべてに気づきを持つ観照の行であり、「止行」とは何もせずにただストップ
…
どちらも「いまここ」に在ることに変わりなく、瞑想とは「いまここ」の同義語なのです。
(引用おわり)
気づきというの基盤であり無行為
(もともとあれこれする性質のものではありません)
です
止行(無行為)は
気づき[存在]
です
じつは【まったく】同じことをしてるのです
気づきと「最初の行為」(存在)
が
別物だと思ってるから
二つのアプローチを方便として述べているわけです
架空の気づき
架空の行為
から
真実の気づき
真実の行為(存在)
つまりあまりにも明白なものに気づくためにあります
正直なところは、私もよく分からないんですよ。(^o^)
それでも強いて何かを言うとしたら、どの程度大人かとか、いろいろなことにどの程度納得しているかどうかなのでしょうかねぇ。
例えば、経験したいことや興味や欲の対象がいろいろある人はまだまだ若いのでしょうねぇ。
そのような人は往々にして興味や欲の対象が浅いのです。
また強くもない(ここは誤解しやすいところですが)。
興味な欲の追求を延々と続けているうちに、おそらくですが、いずれその対象が減りつつ薄くなっていき、その一方で深く鋭く絞られていきます。
最終的な悟りは、そのような行程の果てにあります。
ご質問の内容から外れてしまいましたね。(^o^)
実は今日はこのような文章を記事に書こうとして、やめたところでしたので。(^o^)
実話を基にした映画
伝えておきます
私は実在しません
ここでの私は実在しません、という意味は、私を排斥する意味ではありません。私を精神統一してるからいえるのです。
私を排斥することはまさしく私をツクルことです。
そしてそれは起こっていません。
空き缶をポイ捨てすることと同じ
空き缶ポイ捨て禁止(笑)
捨ててもこの世界(無意識)のどこかに必ずのこってる
どこかの空き地に残ってる
それは絵のpuzzleがあり
空き缶が描かれているピースがあり
目障りだからポイ捨てするようなものである
ピースをすてては絵は完成することがない
そもそも
絵(ひとつのエナジー)をpuzzleにしたのは
実在しない努力(私)なのだから
それ(パズルとしての絵)は実在しないとみぬかなければならない
二枚の絵はないから、別の絵を探してもむだなのである
以前に
よく朝起きるときに
体外離脱から肉体にはいるという夢をみる
とかいたが
実際はそういう夢をみてるだけである
だから
依然として自然にここにいる
何がい言いたいかというと
実際はそういう夢をみてるだけである
依然として自然にここにいる
前回かいた内容は
肉体にはいったので
そういう努力をやめなくてはならないとおもっていた
ところがどうもそうではないらしい
依然として自然にここにいるのだ
そういう夢をみていただけで
いまもそういう夢をみているだけで
実際は依然として自然にここにいるのだ
前回の理解では
その朝の状態からなにかしなくてはならないと思いこんでいたが(静かにするとか)、つまり真我探求がそのとき有効であると思っていたが。そうではないようだ。
実際は依然としてまだ自然にここにいるのだ。
つまり
努力が起こって自我が立ち上がり
肉体に入り
といったこと[努力]は夢だったのである
依然として自然にここにいるのだ
だから朝起きてこれからどこかに行く努力も、
様々な努力も
努力をやめて静かになったりするのも
同じく夢なのだ
すなわち、自我が立ち上がり肉体にはいる努力をして、それから様々な努力や休息をするといったようなことのすべてのことは夢なのである
朝おきたとき
自然にまだここにいる
ことに気づいた
すべては夢だったのである
おしまい。
いつもある精神統一を
言い換えれば
いつもあるリラックスということです
精神集中「私」は実現できないからです
おわり
ものがふたつにみえたとしましょう
ピントがもどるときには
ふたつにみえたものが
ひとつにそろうようにもどります
それと同じことです
機械ではもどるときにピントを
調整する作業
が必要になりますが
精神ではその必要がありません
いつも精神統一があることに気づくだけでよいのです
それがあることに気づいても
まだ
ピントの点と周辺は
あるかのように勘違いするかもしれませんが
つまり
いつもある精神統一は基盤だが
だけれども想いが動いてるのだから
そこに静まらなくてはならない
と勘違いしていますが
つまり機械のようにピントをなおす(もどす)作業が必要にかんじてしまいますが
精神の場合は
世界はおわっているのです
精神統一してるのです
おわり
精神統一とい概念は誤解を維持するので
つかわないで仮説をかきます
精神集中しないでいいのである
精神集中は、ほんとうは不可能だからである
以下は補足説明です
ある意味では精神集中しきれなかったといっていいかもしれません、いままで
しきれていたと思っていたのは夢だったのです
私
というふうに意識を半分にわけることはできないのは
精神統一を破壊することはできないからだと書いてきました。
このことを別の説明ですると
精神集中は不可能なことである
ということです
私は
ほんとうは不可能なのだから
わたし(自己)とは何か?
幸せとは何か?
ラクとは何か?
リラックスしていることです
精神集中できていないことです
‘私’にわけることはできないのです
リラックスは
精神集中できていない状態です
夢は
精神集中できるという思い込みです
精神集中による精神分離(私)が可能であるというのが夢です
できていないことに気づけば
夢から覚めます
実際は
いつもラク(精神集中などできていない)
なのです
実際には私はできていない精神集中だから
思考世界はできていないのです
リラックスが実在です
体外離脱(比喩だけど)
から
朝体に戻ったけど
体にもどる
というのは
虫がからだ(スピリット)に浸入するようなもので
すごいきもちわるいんだ
浸入するな~、はいるな~!
と思ってもはいってくる
ホラー映画みたいなもんで 笑
朝目覚めたら
身体のなか
つまり昨日の朝の象徴では
朝目覚める直前の夢は、
しんたいに虫がはいってくる
夢をみたんですけど
それは象徴で
しんたい(スピリット)に
身体がはいってくるという意味なのでしょう
実際はみてる存在なので
実際のprocessというのは
中間的存在があるからそのエーテル体に身体がはいるのを
みていたということになるんだろうけど
このprocessに毎朝気づくわけではないが、
寝るまえに
ふつう(基盤エネルギー)
を信頼していれば
このprocessはそもそも
実在ではないと気づくので
体外離脱からもどる夢をみることはないが
信頼せずになんらかの
気を張ったスピリチュアルを信じているならば
このprocessによってそこにはまっていることを教えてくれる
もちろんまったく否定していれば
その夢にも気づくことはないだろうけれど
米国大統領にトランプ氏
内向く米国
世界にリスク
ふつう(基盤)
ふつう(正気)のなかでそのエネルギーでやってることだからほんとうのリスクはないけどね
ある
ということです
思考(エゴ)を消そうとする修行をしてる方々がおられますが
ところが実存しないものは消すことが出来ないのです。元々分離は無いのですから。
私や私からはじまる分離世界
は
分離という発想から生まれています
それはどのように癒されるのでしょうか
精神統一されていると気づくことによってです
この気づきがなければ
分離という信念は続くのです
‘私’がどうやって静か(精神統一された状態)にできるでしょうか
この最後の分離という信念に気づいて
ただ癒されていることに気づくだけでいいのです
それは
分離したものを排斥したり
精神統一させようと分離を信ずることでもなく(静かにしなければならない・想いを源にモドサなくてはならないというのでもなく)
精神統一(いつもある)に還っていると気づくだけでいいのです
頭で考えて理解しようとしても無理なんです。
返事はいただかなくても構いません。
推測ですが、最終的な悟りには形がない、の中身とは、
①普段我々が使っている「有る無しなど」二元的な思考は頭の癖でしかないことに気づく。
頭の「解釈」の馬鹿らしさにに気づく。
私という主体も、それが認識する客体もない。
②①に気づいた結果、(事実との確信や、衝撃的な感動を伴う場合、俗に悟りとか見性体験といわれることがある、もちろん新たな次元、枠組みにはそれすら無い)当然、私なる幻想に振り回されない生き方を選択、志向することになる。
それは、仏教でよく言われる前後裁断的な、頭の解釈やらに汚されない「今ここ」の瞬間に生きている感じとか、
生来人が持つ、いわば人間をやめたところに現れる自然というか本能というかの大いなる力(仏教でいう仏の力)に従って生きる感じとか、
、、生き方というより、「そのようになっているありさま」という感じがふさわしいような、以上のこの辺りのイメージに近い、とみて宜しいでしょうか?
違うにしても共通点はありそうに思われましたので小さな頭を掘り起こして書いてみましたが、やはり全然違いますか?
二つ目の罪悪感は人間に染み付いてる感じなんですね。
やはりか。と思ったと同時になんとも煩わしさを感じます。
更なる自覚続けます。
ありがとうございました(^^)
お久しぶりです。
>すいくうさんの思う「罪悪感」て何ですか?
よくある一般的な罪悪感について言えば、罪悪感を誘発している根っ子には、「これが正しい」とか、「こうあるべき」等の囚われがあるのだろうと思います。
つまり、罪悪感は囚われが現象に反応して誘発するものなのです。
さらに詳しく言えば、罪悪感には二つの種類があります。
一つは、囚われが誘発する罪悪感であり、もう一つは囚われとは関係なく、どうしようもなく不可避的に起こってくる罪悪感です。
一つ目の罪悪感は囚われを手放せば解消されます。
しかし、二つ目の罪悪感は無くなることはなく、存在があり続ける限り、不可避的に起こってくるものです。
罪悪感について、どうすればいいかですが、私としては、自覚をして自分を縛っている囚われに気づいてくださいとしか言いようがありません。
>碧空さんが悟られてからの日常は、その以前からどのように変わられましたか?
最終的な悟りにはかたちがありません。
ですから、悟った後の様子も人それぞれであり、それこそ何でもありです。
いまの私の様子や変化をお話ししても、何の参考にもなりません。
あなたの好奇心を刺激するだけです。
>外側を見ることから内側を理解するヒントがあわよくば掴めるならば幸いです、出来なければ縁がなかったものと諦めて消えていきます。
外側から内側を理解するのは無理です。
どうぞ、ご縁が無かったことと諦めてください。
一つだけ申し上げると、私の外面や内面ではなく、あなたの内面を見つめて頂きたいと思います。
今朝、私の思考や感情を監察していたら、「罪悪感」 が、出てきました。
親や子、今の自分など
罪悪感と思っている現実が押し寄せてきて実に居心地が悪い感じです。
味わうにしても美味しくないですし
その現状から抜け出せることもできるのですが、私は一体どうしたいのか、何をしたいのか。考えてみます。
すいくうさんの思う「罪悪感」て何ですか?
ちょいとすいくうさんの意見を聞きたくコメントしてみました。
仏教に絡んで私がよく耳にする悟りですと、言葉と次元を異にする感覚のありようであったり、相反する思考が同じ瞬間に存在していたりなど、文字での表現がとても難しいものの様子です、ですから努力して書き起こしてもまず意図が伝わらなくてとても苦労されていることでしょう。
私もやはりこちらでお聞きしても理解はできないでしょうから、別な角度からアプローチさせてください。
碧空さんが悟られてからの日常は、その以前からどのように変わられましたか?
悟り体験の中身は不要です、生活の生々しい実感だけをお聞かせください。
外側を見ることから内側を理解するヒントがあわよくば掴めるならば幸いです、出来なければ縁がなかったものと諦めて消えていきます。
暇なときで構いませんし、スルーしていただいても構いません。
(ちょっとコメント欄は荒れ模様?みたいですね。)
本当に非二元になったら何も認識できないはずです。
仮設
の順番(数字)をかいておきます
1
いつもある精神統一(融合)
2
静かにする 明け渡す
2.5
観照
3
努力(修行)
以上これらのうちどれかしか
しゃべっていません
ちなみに観照は別名(最近のノンデュアリティでは)起きることが起きる 笑 デス
生じては消えていくの繰り返しに
いろんなジャッジを付けずに
ただ気づいて流していけばいいという話をききますが
じつはそういう修行は企てがあります
私があるということですね
そうすると
すでに生じている
力み(私)
が対象をつくりだしながして見よう
と観照がうまれてしまいます
観照はまだ悟り(自然)ではなく二元です
まあ
対象を解釈しようとするよりはましですけどね
でもそういった対象をながそう
ということ企て自体が
私と客体の世界です
努力があらわれれば対象があらわれます
力み(私)が存在するかぎり
あるがままでいれば認識は
自然はま~るく分離していません。
念のため
このコメントは第2方便です。
で
観照をやめて
努力(私)をやめて自然であればいいということ(第2方便)ですが
これは方便で実際はそれもできません
‘私’が静かにすることなどできないからです
そして次の気づきがあらわれます
それが
次の内容です
もう一度かきます
いつもある精神統一に気づけば
‘私’(非実在)はきえさる
それは気づくだけでいいのです
質問者 ヴァーサナー(心の潜在的傾向)の破壊なしに真我の実現は不可能です。それでは、心の潜在的傾向が完全に破壊された状態に至るにはどうすればよいのでしょうか?
マハルシ あなたは今、その状態にある。
(あるがままに 36ページ)
今(精神統一)のあるがままに
‘私’が明け渡す ‘私’が静かにすることはできないのです
以上です^^
‘私’(非実在)はきえさる
それは気づくだけでいいのです
質問者 ヴァーサナー(心の潜在的傾向)の破壊なしに真我の実現は不可能です。それでは、心の潜在的傾向が完全に破壊された状態に至るにはどうすればよいのでしょうか?
マハルシ あなたは今、その状態にある。
(あるがままに 36ページ)
今のあるがままに
‘私’が明け渡す ‘私’が静かにすることはできないのです
かんたん
だれにでも今はあります
それでいいのですが
今は時間のなかにあると錯覚しているために
その今を否定しています
悟りとは
その今は
時間のなかにはなかったとしることです
悟っている人と悟っていない人の違いはそれだけです
同じ今にもかかわらず
一方は否定し
同じものを一方は肯定します
その今でいいのです
悟っていない人はそれが真実ではないと想像しているだけなのです
ぷ
くり返しますが
今と精神統一は同じです
かんたん
かんたんどころか
確実にあります
※説明の便宜上、人が悟るように表現してますが
今が悟りなので、人が悟るわけではありません
私は宇宙だとか
光のまえにたっただとの
神秘や象徴の表現が多いので
誤解を生むので
まとものトピックをたてます
ここでいってる意識とは
エゴの領域の意識のことではありませんのであしからずご了承ください
悟りをさしております
さて、
ここでいってる意識とは
ガラスの板のようなもので(もちろん意識は平面ではございません。念のため。)
、
そこに描写の世界があるのです
たとえばケーキ屋さんの透明なガラス窓にペイントで絵が描かれているようなものです
なぜそのようなものができるかと理屈で考えても無駄です
そういう想像力が
ガラス板にはそなわっているとしかいいようがないのです
それは普通に人間には想像力があると世間的に認められているようなものです
ガラス板がふつうにみずからだとわかれば
それは神秘的だとか光だとかいって変に驚くことはないのです
じぶんであるものを神秘的だとか光だとかいって感じるべつのぶぶんは実在しません
もしそういった感想にことさら陥るなら
それは自我として
自我の観点からその透明さにたじろいだということにすぎないでしょう
自我とは実在しない濁り(絵の具)であり、そのため、その観点からは、源がたんに透明感があるにというにすぎないのに、
それを神秘的だとか光だとかいうのです。
ガラス板がみずからだとわかっていれば
なんの不思議もない神秘的でもない
みずからであるただのガラス板(透明)です
このこと(私という観念という努力)が実在ではない
とわかることがかんたんだ
というのでしょうか
それは
朝おきたとき(まだ寝床)の状態を利用するからです
うつつと‘私’が
おきたとき
まだ
努力は起ききっていません
だからこそ
肉体的活動がはじまるまえに
真我探究がなされれば
非常にやりやすいのです
しかも
私というのは
努力があまりない状態です
その努力があまりない状態から
解放(無努力)が実在
と気づくことは非常にかんたんなのです
このことに気づくと
日中でも
無努力にちかい、
努力をあまりしてない状態
が
私というものであることがわかります
通説では
活動から私を自覚しなければならない
と教えられると
とんでもない努力が必要だと勘違いされています
私というのは
もっとも無努力にちかい自覚なのです
このことがわかれば
日中でも
無努力の世界をとらえるのが
非常にかんたんだとわかります
しかし
それがわからないと
激怒されるのです
ほかのコメンテーターに
爆
これはイメージでとらえていただきたい話なんですが
世界というのは割り算
分数?で
できているので
最初に割る作用をもたらすのが
私
なんです
だから
1
世界を戻すには
私を経由しなくてはなりません
そのように割り戻さなくてはなりません
たとえば
私をたんに否定して
悟りにいたるなんて通説がありますが
私で割ったことを
否定すれば
いつまでも私の状態です
そうではなく
私が必要なのです
だから
1
私を経由し
すべてを包み込みなおした状態です
ですから
世界は+-の世界ではないので
たんに私を否定しても
世界はもとにもどらないというわけです
そして世界はもともと1
存在するので
割るには努力がいりますが
割らないためには
もしくは
割り戻すためには
努力はまったくいらないのです
努力してる状態が
割ってる(空想してる)状態
だからです
のんびりしていれば
1・世界・存在はもどっています
今起きてることがパーフェクトにすすんでいると
安心するなら
その安心が
無努力の精神状態をもたらします
すると
無努力(悟り)になるのです
不思議な逆説ですが
起こる世界がパーフェクトとかんじると
世界(起こること・識別)がきえていくのです
これは不思議なことです
まえにいいましたよね
波は自分でうごいていない
そして
そのことにより
波は水(海)でしかなかったと
水しかなかったと
それでおわるのです♪
‘私’は実在しない
だからすべての区別も実際には起きていない
なにか新しい精神統一を手に入れることでもなく
いつもある精神統一である
パパジ
偽りの中心(思考)から真の中心(無条件である)いしきに進めば、すべて(の区別)は崩壊し、消え去る。
()サマンサ
‘私’が分別をしなければ(実際‘私’はいないから分別できないのだが)
自然は一なるものとしてあるがままのまんまである
千差万別の存在が平等にみられれば
あるがままの自然の姿にかえりつく
昔から
あるがままとはあるがままである
かみさまはどこにでもいるといわれる
あるがままとはあるがままである
特殊な意味をそこに加えるのはまぼろしの自我である
もしその‘もう一つの世界’を信じるなら
自然の世界に
空想の世界が押し重ねられる
そして起こることが起きようにみえてくる
そして解釈も生まれるのである
しかしほんとうは、なんにもおこっていない
あるがままとはあるがままだからである
そこに特別な意味はない‘分別’は実際はいないからである
ありがとうございます。
me:私が・努力
いえ
まだここ(無努力)です
♪ちなみにここでのCatch me if you canの 意味は
遊び 「鬼さんこちら」とは関係なく書いたのであしからず
でも
まあ逃げてるmeのほうがじつは存在していないと
意味をとれば
同じ意味になりますが
鬼さんのほうがじつはこわがられる存在ではなく
真の自己(真我)なのですから
神からの分離
という観点からみれば
逃げるme
にとってみれば
神は鬼さんとおそれられるのかもしれませんが
子供の遊びにも
こういった無意識的なことがあらわれているのかもしれませんね
Catch me if you can
いえ
まだここです
努力はCatchできないのです
できてるつもりです
meは
底のない桶
me自体つかまえられず
神からの分離:me(行為)
は起こっていないのです
だから自己概念(底のない桶)から投影されているすべての夢の行動も起こっていないのです
Catch me if you can
つかまえられましたか
いえ無理です
まだここ(無努力)です
以上
4分で目覚めの動画の前半について
何も起こっていないのです
奇跡のコースもそういってますね
*いつもその状態なので
静かにしようとする必要はないのです
なぜなら
すでにその状態(無努力)です
これが究極のmessageです(第一方便)
ラマナマハルシも
あなたはいつもその状態にある
みたいなことをいっています
パパジ
あなたはすでに自由だ。なにもする必要はないのだ 笑
おわり