◇思考の連鎖と私(2)◇
前回の記事に続いて、思考の連鎖と私についてさらに補足します。
思考の連鎖こそが私であると言うと、いやそれは違うという声が聞こえてきそうです。
思考の連鎖が私なのではなく、思考(考え)をつくっているのが私であり、本質の私なのだと。
この考えは間違いではなく、見性という悟りのゲートを潜るのにはとても有効なのですが、これが終わりではないのです。
あなたが「本質の私」と言っているとき、もっと言えば「本質の私」という感覚を得ているときのあなたの内面を観ていただきたいのです。
あなたがこれは本質だと言っているその「本質の私」も、考えであり幻であることに気づくはずです。
ある考えをつくっている瞬間に、それと同時にその考えをつくっている「本質の私」が存在していると感じているそのあなたの感覚は、錯覚なのです。
考えがつくられている現場をもっと詳細に観てください。
そこには、考えの生成だけがあり「本質の私」は存在していないはずです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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思考の連鎖こそが私であると言うと、いやそれは違うという声が聞こえてきそうです。
思考の連鎖が私なのではなく、思考(考え)をつくっているのが私であり、本質の私なのだと。
この考えは間違いではなく、見性という悟りのゲートを潜るのにはとても有効なのですが、これが終わりではないのです。
あなたが「本質の私」と言っているとき、もっと言えば「本質の私」という感覚を得ているときのあなたの内面を観ていただきたいのです。
あなたがこれは本質だと言っているその「本質の私」も、考えであり幻であることに気づくはずです。
ある考えをつくっている瞬間に、それと同時にその考えをつくっている「本質の私」が存在していると感じているそのあなたの感覚は、錯覚なのです。
考えがつくられている現場をもっと詳細に観てください。
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