私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

涅槃と禅定に関する誤解について

2014年12月28日 22時02分29秒 | 悟り
◇涅槃と禅定に関する誤解について◇

今日は、以前から気になっておりました、涅槃や禅定やその周辺の誤解について書いてみたいと思います。

まず、涅槃に関する誤解について。
覚醒した等と仰る方の中に、涅槃の体験についてお話しされている方がおられます。
しかし、殆どの方は涅槃について誤解しておられるのです。

例えば、それは至福や歓喜、あるいは溢れ出る感謝だったと仰る方がおられますが、これは誤解です。
これは多くの場合、明け渡し系の体験であり、涅槃ではありません。
また、強烈なエネルギーの中に入ったような体験だったと仰る方もおられますが、これも誤解です。
これは、おそらく禅定等の何らかの瞑想状態が起こり、その中で神秘体験が起こったのだろうと思います。
瞑想中は、その方の囚われにより、各種の神秘体験が起こるようです(私の場合は、瞑想中にそのような神秘体験が起きたことは殆どありませんが)。

では涅槃とは何かと言いますと、私という自我の意識が完全に落ちた状態のことを言います。
分かりやすい言い方をすれば、気絶状態がそれに近いです。
それを完全な無我と言ってもいいと思います。
この状態のときは、意識が完全に落ちてますので、思考はもちろん、一切の感覚もすべて落ちます。
また多くの場合、呼吸も停止します。
これが涅槃です。
何かを認識する意識が少しでも残っている状態は、涅槃ではありません。

次に、禅定に関する誤解について。
禅定に関する一番多い誤解は、禅定を体験したことにより、自分は悟ったと誤解してしまうことです。
例えば、瞑想中や突発的に起こった禅定現象により、一見すると根源、無、空、全体等に関連したような体験(いわゆる神秘体験です)をされる方がおられるのです。
そのような体験をすると、その体験を握り締めてしまい、自分は悟ったんだ、あるいは覚醒したんだと誤解してしまう方が多いのです。

悟りと禅定の体験とは基本的に全く関係がありません。
関係があるとすると、深い悟りを得ている人は起こってくる考えも減っているので、深い禅定を体験しやすい傾向があるという点だけです。
まったく悟ってない人でも、深い禅定を体験する例はあり、禅定を体験したから悟っているとは決して言えないのです。

悟り、あるいは悟りの深さは、端的に言えば、その人が掴んでいる考え(囚われ)の内容や数によって決まります。
掴んでいる考えが多いほど、起こってくる考えも増え、自我も厚くなります。

ですから、瞑想中に意識がどうなっているかは、悟りとは関係がないのです。
むしろこんな言い方もできます。
瞑想や禅定は自我(エゴ)がやることなのです。
瞑想や禅定に拘っているのは誰なのか、瞑想や禅定を求めているのは誰なのか、そこに意識を向けて頂きたいと思います。

なお、これは余談ですが、禅定には深さがあります。
最も深い禅定が涅槃です。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「無」について追求する | トップ | 否定されて怒っている自分に... »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (空我)
2014-12-28 23:51:21
解脱の悟りは、涅槃に入らないとあり得ないのでは!
肉体の拘束下で最終的な覚醒はあり得ない!

ヨグマタジやババジのように、肉体拘束を超えるマスターはいますが。ヨグマタジは、個人的に超えることが困難なカルマを消せますよ!

何人も体験していますから!これは、私のみならず体験している真実です!
返信する
Unknown (21さい)
2014-12-29 18:28:47
最近物凄く苦しいです。なんとか持ちこたえていますがとにかく苦しいです。
それはそうと今年はいろんな記事を読ましていただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
返信する
Re:空我さんへ (慧空)
2014-12-29 19:44:46
コメントありがとうございます。

>解脱の悟りは、涅槃に入らないとあり得ないのでは!

これは二重に誤りです。
おそらく、その涅槃は本当の涅槃ではないです。
それ何らかの禅定体験か、神秘体験のことを言っているのだと思います。
涅槃は、上で書いたように、単に意識が完全に落ちた状態であり、それだけのことですから、涅槃に落ちたって何も変わりません。
私は涅槃に何百回と落ちてますから、何も変わらないことはよく知っています。

ヨグマタジさん、ババジさんのことは余り知りませんが、おそらく、それらの方々はウパニシャッドの系列の方だろうと思います。
ウパニシャッドの系列の方々には、過去から現在にかけて、解脱の悟りを得た人はいないはずです。
大悟に至った方もいない可能性があると思います。
ウパニシャッドの系列の方々は、なぜだか、真我を掴んでしまうか、禅定に囚われ溺れてしまうのです。
真我を掴んでしまったり、禅定に溺れてしまうと、意識が散漫になり、大悟に必要な意識の集中が得られないのです。
大悟、そして解脱の悟りは、意識の集中、特に私という自我への意識の集中が要になるのです。

ですから、「肉体拘束を超える」というそれが既に、本質からずれているのです。
肉体拘束を超えようとすることは、意識が外向きなのです。
集中すべきは、肉体をまとった私という自我であり、解脱の悟りは、肉体をまとったまま得られるのです。
返信する
Re:21さいさんへ (慧空)
2014-12-29 19:47:43
コメントありがとうございます。
21さいさんには、敢えて、こう申し上げたいと思います。
もっともっと苦しんでください。
すべての苦しみを受けて立つ覚悟で、あるいは、苦しみの中にどっぷりと浸りきるつもりで、苦しみと向き合い、受け止めてください。
大丈夫です。
返信する
Re:空我さんへ(訂正と補足) (慧空)
2014-12-31 22:04:46
私の上のコメ書きに誤りがありましたので、その訂正と補足をさせていただきます。

上では、真我を掴んでしまうと大悟に必要な意識の集中が得られないと書きましたが、これは言い過ぎで、一概には言えないのだということに気が付きました。
バーナーデット・ロバーツさんという大悟者がおられたことを思い出しまして、神を信じたまま大悟に至られたのです。
この方の例はかなり特異であるかも知れないとは思うのですが、そういう方もおられるということで、訂正と補足をさせていただきたいと思います。
返信する
上の追加コメントの保留 (慧空)
2014-12-31 23:43:50
上の私の、バーナーデット・ロバーツさんが神を信じたまま大悟に至ったという追加のコメントは保留とさせてください。
バーナデット・ロバーツさんの本がいま手元になく、記憶がハッキリしないのです。
それと、私が大悟に至ったルートとあまりにかけ離れているので、本当に神を握り締めたまま大悟に至ることが可能なのかという疑問も起きました。
そんなころもあり、私は自分が通った道についてだけ語ればそれでいいんだと改めて思った次第です。
返信する

コメントを投稿

悟り」カテゴリの最新記事