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私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

社会って

2014年04月25日 15時13分48秒 | エッセイ
◇社会って◇

社会って、不思議ですね。
私たち存在が自らつくったものであり、みなで経験しているものなのですが。

今朝、長男(自閉くん)を車で病院に連れていった帰りに改めてそう思いました。

私にはまだ家族に対する執着がありますから、その家族を通じて社会との縁がまだ続いています。

社会はまさに縁という執着の集合であり、うまく表現できませが、そこを源泉として、多種多様な執着というか、固定観念というか、枠というか、そういう類の考えが生じてきます。
そして、恐れや苦しみを誘発します。

すべては考えであり、幻なのに。

かく言う私自身にも、社会との関係によりそのような執着や恐れがまだ時折起こってきます。
そのような考えが起こってきても、もうそれを掴んだりしないので、長くても2、3分もすれば消えていくのですが。

ここまで書いて、自分で何が言いたいのかよく分からないのですが(笑)、
出来事に関連して反射的に起こってくる恐れ等の考えに対して盲目的に反応されるのではなく、
一歩引いた感じで、出来事や起こってくる考えを冷静に見つめてみて頂きたいと思います。

まずは、自分が恐れていること、あるいは苦しんでいることを自覚していただきたいと思います。
「ああ、いま私は恐れているんだな」と。

次に、自分が何に対して恐れを感じているのかをよく観て頂きたいと思います。
本当にそこまで恐れ、苦しむ必要があるのかよくよく観て頂きたいと思います。

そうやって出来事やご自分の内面に向き合われると、恐れや苦しみの感覚が無くなっているか、大きく軽減されていることに気づかれると思います。
中には、その恐れや苦しみが自分がつくった考えであることを実感される方がおられるかもしれません。
あるいは、自分にまだ余裕があることを理解されるかもしれません。
出来事に対して右往左往している自分が可笑しく思う方がおられるかもしれません。

ますます何が言いたいのか分からなくなって来ました(笑)。

どうやら、これはこれを読まれる方々と、私自身への応援のようなものなのかもしれません。


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真理に対する二つの感覚

2014年04月23日 09時20分48秒 | エッセイ
◇真理に対する二つの感覚◇

「真理」という言葉に対し、二つの違った感覚を持つ方がおられるのだろうと思っています。

一方は、「真理」は在るという感覚を持たれる方です。

もう一方は、「真理」は無いという感覚を持たれる方です。

ザックリと申し上げて、「真理」は無いという感覚を持たれる方は、私という存在の経験の終わりが近づいている方かも知れません。

そうです、何かピンときたあなたのことです。(^^)


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誰がどう悟ろうと理解は同じ

2014年04月17日 09時35分03秒 | エッセイ
◇誰がどう悟ろうと理解は同じ◇

悟りとは、私という存在について知っていくことです。
そして、その悟りの道にはいくつかの節目というか段階があります。
その段階の進み方は、一つずつ順番に進まれる方や、最初の段階を一つ、二つ飛ばして一気にさらに上の段階に到達される方など様々だと思います。

しかし、ハッキリしていることがあります。
どの段階で得られる私に対する理解も、誰がどういうルートでその段階に至ろうと、得られる理解の内容は全くと言っていいほど同じなのです。
各自の表現が微妙に違うだけで、理解の本質部分は全く同じなのです。
これは、最後の解脱の悟りについても全くそうなのです。

だから、理解を共有できるのです。

また、先人の理解が助けになるのです。
先人の理解が各自の理解の呼び水になるのです。
そして各自の理解の確認になるのです。

また、だから到達した人は、そして発信できる言葉を持つ人は発信し、伝えようとするのです。


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感覚ではなく理解が決め手なのです

2014年04月04日 11時42分26秒 | エッセイ
◇感覚ではなく理解が決め手なのです◇

なぜ、至福等の感覚的な手掛かりでは不十分なのかを書きますね。

端的に言えば、何らかの感覚があるということは、まだそこには私という自我があるということだからです。
自我とは、私が抱え込んでいる執着によって誘発される分別、あるいは分別の連鎖そのものですから、ここが終着点であると言っている場所でまだ何らかの感覚があるということは、まだ執着を掴んでいるということなのです。

至福感は、真我の外縁に触れたときに得られる感覚なのです。

真我を完全に捉えたなら、私という自我は完全に不在となりますから、そこでは一切の感覚は無くなるのです。

完全に真我を捉えているとき、限りなくうっすらと自我が目覚めているときがあります。
しかしそのとき、一切の感覚はありません。
事がただ起こっていくのをただ目撃するだけなのです。

しかし、この真我もまた考えであり、幻なのです。
真我を絶対なものとして掴まないで頂きたいのです(各自の自由ではありますが、笑)。

真我を盲信することなく、真我に対しても、これは何かという疑いの目、問いをぶつけていただきたいのです。

徹底的に問いをぶつけたとき、真我の本質が理解できると思います。

そしてそのとき、無明の迷いも晴れます。


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感覚に惑わされないでください

2014年04月02日 11時07分40秒 | エッセイ
◇感覚に惑わされないでください◇

感覚は自我がつくる考えであり、幻です。
至福も、喜びも、苦しみも、穏やかさも、すべて自我がつくる考えです。
それらはとても不確かなものです。
それらに惑わされないでください。

どんな感覚も考えも、私という自我がつくった考えなのです。

考えに惑わされ、その考えを握りしめてしまうと、止まってしまいます。

止まるのも止まらずに進むのもどちらでもいいのですが、本当にそこで満足できるのか、自分自身に問うてみてください。
そこで満足できる人はいはずなのです。
なぜなら、まだそこは途中だから。

私という存在の本質が完全に解き明かされるまで、本当に納得できるまで、歩みを止めないでいただきたいのです。

私に意識を向け続けていただきたいのです。

私とは何かを問い続けていただきたいのです。

私という存在に対する理解が得られるのは、肉体を持ってここにいるときだけなのです。


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信じることと疑うこと

2014年04月01日 14時35分05秒 | エッセイ
◇信じることと疑うこと◇

悟りの道として、信じることがよく説かれます。
しかし、信じることにも一長一短があります。

信じることは、その対象が何であれ、対象となるある考えを信じることになります。
神であれ、マスターであれ、法であれ、自分自身であれ、どれも本質的な違いはなくみな考えです。

ここに信じることの罠と限界があります。
信じることは、何かの考えを握りしめることであるため、最終的にはその握りしめた考えの枠を超えられないのです。
いざその枠を超えようとしても、考えを信じ込んで握りしめてしまっているため、手放すのが困難になるのです。

一方、疑うことは、何かの考えを握りしめてしまうことが少ないため、枠にはまってしまったり、壁に阻まれることなく、どこまでも、まさに最後までそのまま進んでいくことができます。

すべてを徹底的に疑っていけばいいんです。
絶対的なものや真理など、そもそも存在しないのですから。

私は、信じる道より疑いの道をお勧めします。
これは私(慧空)自身が歩んだ道でもあります。

その鋭い疑いの目を、自分自身に向けていただきたいと思います。
徹底的に自分とは何かを問うて頂きたいと思います。
飯を食うのを忘れるほど、精根尽き果てるまで自分に問いをぶつけて頂きたいと思います。

きっと霧は晴れると思います。


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悟りとは私に対する体験的理解です

2014年03月29日 11時00分26秒 | エッセイ
◇悟りとは私に対する体験的理解です◇

一部に悟りは体験ではないとか、体験では悟れない等の誤解があるようですので、一言申し上げたいと思います。

悟りとは、私という存在に対する理解であり、その理解とは紛れもなく私自身の主観的かつ体験的理解なのです。
実際にそれを体験し、それがここにあるから理解できるのです。

これはどの段階の悟りでもすべて同じです。

ただ、各段階の悟りのゲートを潜るときに人によっては様々な現象を伴う場合があるようです。
大きな現象を伴う人、それが殆どない人、様々なのです。


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すべてを疑ってください

2014年03月21日 11時53分12秒 | エッセイ
◇すべてを疑ってください◇

人はすぐに何かを信じ、それにすがり付こうとします。

それが何であれ、それはあなたの自我がつくった考えであり、幻想です。

そのあなたが執着しているものを、もう一度しっかりと見つめてください。

それが本当に真理なのか、追求してください。

安易に妥協せず、徹底的に疑ってください。

「それは真理なのか」、「それは何なのか」という問いを徹底的にぶつけてみてください。

いずれきっと、あなたの自我がつくった虚構が破られるでしょう。

また、あなたは問いそのものがあなた自身であることに気づくかもしれません。


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ある思索(2)

2014年03月20日 14時14分23秒 | エッセイ
◇ある思索(2)◇

この記事は、3月17日の記事の続きですが、結論だけ簡単に書かせていただきます。


すべては私という自我がつくった考えであり、幻なのです。

例えどんなこと、どんな対象であってもすべてそうなのです。


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主導権は自我にある

2014年03月18日 16時32分10秒 | エッセイ
◇主導権は自我にある◇

悟りの世界では、自我は邪魔なもの等の雰囲気があるような気がします。
悟りの道が、結果として自我を滅していくことになるので、そのような雰囲気というか風潮が生じやすいのかも知れません。

しかし、そのような風潮には大きな誤解が含まれている可能性があるのです。
どういうことかと言いますと、私という存在の展開の方向性を決めているのは常に自我なのです。
例えば、今世で金持ちになる、出世する、有名になる、さらには悟りを得るなども、自我がその意思により決定した展開なのです。

なぜなら、私を中心としたこの世界は、そもそものところ、自我が分別によりつくった考えにより展開された世界だからです。

但し、自我がつくった考えがすべてリアルタイムで直に世界に反映される訳ではないのです。
ここが自我の自我たる所以でもあります。
自我(分別)が成立するためのには、不可避的に自我に意思実現の不完全性が内包されている必要があるのです。
自我がつくった考えは、リアルタイムで直に世界に反映されるものと、執着として真我に一旦溜められて所定時間経過した後(来世持ち越しのケースも多いです)、世界に反映されるものとがあるのです。
そして、各瞬間の世界は、過去に蓄積された執着に基づいて真我が展開する世界のベースの上に、リアルタイムで自我がつくった考えが重ね合わされるようにして構成されます。
ここに、自我の意思実現の不完全性の原理があります。
しかし念のため繰り返しますと、真我が反映する執着も、もともとは自我が過去につくった考えですから、この世界を構成する考えは、すべて自我がつくった考えなのです。

それで、私が言いたいのはこういうことなのです。

根本的には、自我がつくる考えがすべてなのだということです。
この世界をつくっているのは、自我の考えなんだということです。
どうしたいのか、どうなりたいのか、それを決定するのは自我なんだというこです。
その主導権は常に自我にあるんだということです。
主導権を握っているのは真我ではないんだということです。

そして、自我を放棄して私という存在を終わらせるときの選択権も、自我にあるんだということです。


なんと素晴らしき、私、自我!!!


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ある思索(1)

2014年03月17日 14時18分16秒 | エッセイ
◇ある思索(1)◇

以前からそうなのですが、どうしても気になってしまうことがあります。
それ以外のことについてはほぼ納得したのですが、それだげが気になったままなんです。

それは、解脱後のことです。
お釈迦さまは解脱されたようだけど、その後どうなったのかということです。

現段階の認識でおそらく間違いないだろうと思うのは、解脱後は私という個の意識は消滅するのだろうということです。
私という存在の本質は、執着(真我)と分別(自我)から成っていますから、その両方が無くなれば、私という存在も消滅するはずなのです。

それじゃあ、そういうことでいいじゃないか、それ以上追求する必要もないよと言われそうで、私自身もそう思わないでもないのですが、何となくスッキリしないというか、気になるのです。

それと、この思索はとても微妙であり、また危うさをはらんでいるので、追求することに抵抗を感じるところもあり、この点でも微妙なのです。
なぜなら、私という自我が起こすすべての考えを放棄しようとしている一方で、思索を続けている訳ですから、これは大いに矛盾した行為なのです。

それでもやはり気になるのです。

この思索に関する一つのヒントは、お釈迦さまという存在は解脱により消滅したかもしれないが、こうしてお釈迦さまに意識を向けている私(慧空)は、ここに存在しているという、この点にあるのかもしれないと思ったりしています。

どういうことかと言いますと、真我の観点で私(慧空)がAさんという存在に意識を向けるとき、私という存在は不在となり、Aさんそのものが私となります。
このとき、Aさんは私そのものなのです。
しかしその一方で、もし解脱により私(慧空)が消滅したとしても、おそらく、Aさんという存在は私(慧空)と一緒に消えてしまうことなくそのまま残るのです。

このことは何を意味しているのでだろうと思うのです。
これはひょっとすると、私(慧空)という意識が解脱により消滅しても、私(慧空)の何らかの存在要素がAさんとして残るのではないかと思わないでもないのです。
しかし、この感覚がいま一つハッキリしないのです。


取りあえず文章として書いてみましたが、結論というか手掛かりというか、納得のいくものはまだ得られていません。
ひょっとすると、私という個の意識では到達不可能な領域なのかも知れないと思ったりもしています。
また何か思い付いたら書きたいと思っています。


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わたしはもう

2014年03月15日 13時56分23秒 | エッセイ
◇わたしはもう◇


わたしはもう、何も欲しいとは思わない。
なぜなら、どれも手にしても違いはないことが分かったから。

わたしもう、どんな存在も羨みはしない。
なぜなら、彼とわたしの違いは選択している考えの違いだけだと知っているから。

わたしはもう、自らの意思を展開するのを放棄する。
なぜなら、光という幻想を追い求めていたことが分かったから。

わたしはもう、すべての考えを手放し、何も選択しないことにした。
なぜなら、考えそのものに飽きたから。

そしてわたしは、すべてを放棄することにした。
なぜなら、それがすべてを手に入れる唯一の方法だと分かったから。



* * * * * * * * * *



上の文章の最後の部分は、それまでの部分を書き終えた後、ふっと気づいたことです。
私という存在にとってとても大きな気づきとなりました。
すべての存在たち、そして私自身に感謝です。



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虚無感について

2014年03月15日 09時36分30秒 | エッセイ
◇虚無感について◇

最近なんとなく思うことですが、私という存在の終わりが近づいている人は、何らかの強い虚無感を抱えておられるケースが多いのかも知れないと思っています。
そういう私自身も、強い虚無感を抱えて生きてきており、思春期にはすべてが無意味に感じられ、いつも死ぬことを考えていました。

安易に虚無感を肯定するのは危険ですが、虚無に対する感覚は自分自身への深い悟りのサインであり、入り口である可能性があると思うのです。
なぜなら、「虚無」は私という存在の本質に非常に近い感覚であり、またこれ以上ない純粋さの現れだからです。

しかし、この感覚は危険なのです。
この感覚に溺れると、死に至ることもあり、一つの人生をあたかも無駄なものにしてしまうこともあります。

虚無に目覚められた方は、どうかその感覚に溺れることなく、虚無と向き合っていただきたいと思います。
あなたが目指している終着点は、すぐそこかも知れません。
そう申し上げたい。


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苦しみは私の本質へのゲート

2014年03月11日 23時51分36秒 | エッセイ
◇苦しみは私の本質へのゲート◇

悟り世界では通常、幸福感、満足感、喜び等と、苦悩、不足感、おそれ等とは、相対的なものであり、それらは互いに対を成す等価なものであると考えられています。
しかし、この考えは本質的に間違っています。

幸福感等と苦悩等とは対をなす相対的なものではなく、苦悩等がベースにあり、幸福感等はそこから派生的に生じる感覚なのです。
あくまでもベースは、苦悩等なのです。

それはなぜか。

それは、私という存在の根底にある感覚(考え)が苦悩、不足感、おそれ等の否定的な感覚だからです。
私たちの知り得ぬ何らかの要因により私という存在が生じたとき、私は最初に苦悩等の否定的な感覚をつくったのです。
あるいは、つくってしまったのです。
私という存在は、まず最初に苦悩等の否定的な感覚(考え)をつくったため、その否定的な感覚から逃れようとして連鎖的に延々と考えをつくり続けているのです。
幸福感等の感覚は、その連鎖的につくり出される考えに含まれる一時的な過程でしかないのです。
私という存在の根っ子の感覚が苦悩等の否定的な感覚ですから、私という存在のベースとなる感覚も自ずと否定的な感覚の方に偏っているのです。
お釈迦さまは、このことを無明の迷いとか、一切皆苦等と言いました。

この文章を読まれた方は、この慧空という人はどうしてこんな暗い話題を記事に書くのかと思われるかもしれません。
でも私は、この記事を敢えて書くことによってお伝えしたいことがあるのです。

その伝えたいこととは、苦悩や不足感等にこそ、私という存在の本質へ向かうゲートがあるなのだというこです。
また、苦しみにしっかり向き合ってこそ、私という存在の本質に到達できるのだというこです。
なぜなら、私という存在の本質は苦悩そのものなのだから。

敢えて言います。
苦しみこそ、あなたご自身が得られた貴重な貴重なギフトなのです。
苦しみが大きければ大きいほど、貴重なギフトなのです。
そして、あなたがそのギフトを得られたということは、あなたがそのギフトを享受し得る存在だという証明なのです。

幸せの中には、私の本質へのゲートはないのです。
苦しみに中にこそ、私の本質へのゲートがあるのです。

苦しみは自ずと、あなたの意識をあなたの内面に振り向けさせます。
そして、あなたの心の勉強を推し進め、あなたを私の本質のゲートへ向かわせます。
これに対し、幸せは一時の休息にしか過ぎないのです。

苦悩の中におられる方は、つい苦しさに翻弄されてしまいがちです。
しかし、あなたがせっかく得られた貴重な貴重なギフトなのです。
どうか、しっかりと経験していただきたいと思います。
向き合っていただきたいと思います。
受けて立っていただきたいと思います。

そして、ぜひ私の本質へのゲートを潜っていただきたいと思います。
そのギフトを得られたあなたは、そのために生まれて来られた方なのだと思います。


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自覚は舟

2014年03月08日 09時54分39秒 | エッセイ
◇自覚は舟◇

自覚とは、私という自我に意識を向けることです。
また、自我がつくる考えを見守ることです。

この自覚を継続していくと、自ずと悟りの道を進んでいきます。
また自ずと、私という存在について知っていきます。

自覚とは、私という自我がつくる考えの海を渡り、私という存在の本質へ向かうための舟なのです。
ただ一つの舟なのです。

誰しも、この舟を持っており、乗ることができます。
舟があるのですから、ぜひ舟に乗って頂きたいと思います。
乗りさえすればいいのです。
舟に乗っていれば、いずれ私という存在の本質にたどり着きます。


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