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私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

意思実現の不完全性について

2014年01月28日 11時14分20秒 | 私の成り立ち
◇意思実現の不完全性について◇

引き続き、「私」という意識について書いていきます。

私という個の存在は創造主であり、すべの事象を考えによりつくり出しています。
これは間違いありません。

また、私という存在は、自我と意思(自由意思)を持っています。
これも間違いありません。

ならば、創造主としての私の意思は当然の如く常に完全に実現されるはずです。

しかしそうはならず、実際には私の意思が常に完全に実現されることはあり得ないのです。
意思が実現されるのは、その一部であったり、ときどきであったり、あるいは全く意思と反対のことが実現されることもあります。

それはなぜか。

それは、私という存在が創造主である以上、自我が成立するためには、意思の展開方向(通常は時間軸の未来方向)に対する情報は基本的に伏せられている必要があるとともに、ある程度の割合で意思に反することが起こる必要があるからなのです。

つまり、例えば明日の天気が予め完全に分かっていたり、あるいは明日の天気を自分の意識の力で完全に制御できてしまったら、明日の天気に関する分別が起こり得ないのです。
分別が起こらないということは、私という自我も起こらないということなのです。
もっと単純に、明日の自分の行動を予め完全に知っていたり、あるいは自分の明日の行動を事前に完全に決定できたら、自分の明日の行動に関する分別が起こり得ず、そこに自我も起こり得ないのです。

どうやら、私という自我は、私という意識の創造内容の一部を潜在意識下に伏せるとともに、顕在意識の意思と潜在意識の意思との間の微妙なギャップによる意思実現の不完全性を生じさせることで、成り立っているようなのです。

なんだか希望を打ち砕くような話になりちょっと恐縮ですが、そういうことなのです(笑)。

ものごとは、不可避的に上手く行ったり行かなかったりするようになっていたのでした。


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読んで頂いてありがとうございました。

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自由意思について

2014年01月22日 09時22分28秒 | 私の成り立ち
◇自由意思について◇

今日は、意思(自由意思)について書いてみます。

意思については、あるとする考えと、ないとする考えの二通りの立場がありますが、結論から言えば、どちらも正しいということになります。

このブログで、私という意識は、個の意識要素と全体の意識要素から成り立っていますと書き続けていますが、上記の意思に関する異なる二つの立場は、これらの個、全体の二つの意識要素のいずれに立脚するかにより生じているのです。

個の意識の観点から見ると、私という意識がありますので、確かにそこには意思があるのです。
私が幻であっても、そこに私が顕在化しているとき、意思はあるのです。
典型的には、自分の身体を自由に動かすことができるというこの事実が、意思の存在を最も端的に表しているのだと思います。

一方、全体意識の観点から見ると、そこには私という意識はなく、ことがただ起きていくだけですから、意思もないのです。
ただご注意頂きたいのは、意思がないからと言って予め起こる事柄が決まってしまっているという訳ではありません。
全体意識の観点では、そういう決まり事など何もなく、ことがただただ起こっていくだけなのです。

次に、ちょっと面白いことを書きますね(面白いと思うのは私だけか、笑)。
以前ここに、悟りの要素には、個の意識に対応した悟り要素(例えば、見性)と、全体意識に対応した悟り要素(例えば、明け渡し)があると書きましたが、意思の有無についてどちらの立場がしっくりとくるかにより、自分が見性、明け渡しのいずれの悟りゲートを先に目指しているのかが大体分かるのです。

先に見性ゲートを潜られる方又は潜られた方の多くは(ほぼ全員か?)、意思があると仰います(多数のサンプル採取済みです、笑)。
一方、先に明け渡しゲートを潜られる方や潜った方の多くは、意思がないと仰るようです(こちらはサンプルが少ないですが、笑)。

ちなみに、私の場合はと言いますと、私は明け渡しを経験した後に見性を得たのですが、明け渡しを経験する前は、やっぱり意思はないと強く確信していたのです(笑)。
意思はあるかのように見えるだけで、人間の錯覚だろうと思っていました。
ですから、明け渡しの後も意思はないと思っていましたし、実は見性を得た後も暫くは、やっぱり意思はないんだろうと思っていました(いま思うと、如何に自覚が浅かったのかと思います、それでも見性してしまった不思議、爆笑)。

見性後暫くして、自覚が深まり、私という個の意識をより的確に捉えられるようになって初めて、自分に意思があるのだと自覚できました(笑)。
その後、さらに自覚が進み、個、全体の両意識が統合されるに伴って、個と全体の二つの意識による意思の有無の違いについて理解しました。


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執着について

2014年01月21日 11時07分31秒 | 私の成り立ち
◇執着について◇

今日は、執着について書かせていただきます。
まず初めにきっぱりと申し上げておきたいことは、執着はけっして悪いものではないんだということなのです。
執着も必要な過程なんだということなのです。
ですから、仮に無理に執着を手放そうとしても、それは無理です。
手放す時期が来たら、自ずと手放していくようになります。

それならなぜ、執着について敢えて書こうとするのかと問われそうですが、それはおそらく、執着に対する私の理解がそれを手放す時期に来ておられる方へのヒントになるのだろうと思っています。
情報の送り手がいれば、必ずその受け手がいるのです。
どういう受け取り方をされるにせよ、受け手は必ずいるのです。

では本題に入っていきます。

最も根源的な執着は、私という存在が消えることに対するおそれからくるものです(ここで言っているのは、肉体の死ではなく、存在自体の消滅に対するものです)。
殆どの方は芯の部分で、「私という存在の考え」を握りしめ、「私は在るんだ」という信念というか、思い込みをしておられます。
信じ込んでしまっているため、私という存在が考え、すなわち幻であることに気づかないのです。

上の根源的な執着の周辺である深い部分には、「私という存在の考え」を覆い隠すような形で、いくつかの深い二次的な執着があります。
その根深い執着の例としては、例えば「経験したい」、「知りたい(理解したい)」、「愛したい(反対に、憎みたい等もあるのか?)」、「楽しみたい(反対に、苦しみたいもあるのか?)」、「救済したい(反対に、苦しめたいもあるのか?)」、「霊的に進化したい(反対に、逆方向の進化志向もあるのか?)」、「伝えたい」などがあるようです(ここは推測です)。
これらの「経験したい」等の衝動的な欲求も、私という個の意識が握りしめている考えなのですが、「私という考え」を取り巻き、一体化するようにしてそれを支えています。

私の場合はと言いますと、いまは殆どの執着が消えてしまっていて、根っ子の部分ではすべてのことがどうでもよくなっています(ホントに、笑)。
強いて言えば、「家族をやりたい」、「知りたい」、「伝えたい」等の執着がほんの少し残っている感じです。

この記事を読まれて何かを感じられる方は、私と同じようにそういう時期に来ておられる可能性があるのだろうと思います。


なお、私がここに書いていることはすべて私(慧空)の考えであり、戯言ですから。
どうぞ、私や私のつくった幻に惑わされないようにしてくださいね(笑)。
私自身もそうしてますから(笑)。
考えはかる~く捉え、私自身を観るときは熾烈かつ徹底的に、というのがコツです(笑)。


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個の意識と全体意識

2014年01月20日 10時43分38秒 | 私の成り立ち
◇個の意識と全体意識◇

個、全体の両意識について、さらに書いていきます。

個、全体の両意識に目覚めると、ほぼ常にその二つの意識を捉えているので、慣れてくるにつれて自由にその二つの意識の間を往ったり来たりできるようになるようです。

最近の私の状況で言いますと、一人でいるときは全体意識が顕在化していることが多いです。
特に何もないと、自然と全体意識の方に往ってしまうという感じです。
全体意識から個の意識に戻ってくるのは、私という個の考え(典型的には分別です)を起こせば、すーっと個の意識が顕在化します。
反対に意図して個の意識から全体意識に移行するときは、私という個の考えを一歩引いて客観視するようにして手放すと、すーっと全体意識に移行します。

いまは、全体意識に自分の身体を預け、全体意識下で自分の身体を動かすことについていろいろ試行錯誤しています。
何か面白いことが分かれば、ここに書きたいと思います。

全体意識について少し書きますと、全体意識が顕在化しているときは、そこに私という意識はありません。
私という意識がありませんから、感情も分別も意思もありません。
ことがただ起こっていく、流れていくという感じです。
世界の情報は五感から入ってはくるのですが、それらを感じているのかどうかよく分からない感じです。
おそらく、私が無いのですから、何も感じてはいないのだろうと思います。
ただ、全体意識下で五感に入った情報はちゃんと残っていて、個の意識に移行したとき、その情報が個の意識の記憶に残っています。

このような書き方をすると、全体意識がさも特別なものに感じられるかも知れませんが、そんなことはないのです。
実は私たちは普通にちょくちょく経験しているのです。
典型的には、何かに没頭しているときです。
また、普通に何かをしているときや考えごとをしているときでも、私たちは気がつかないだけで、通常の意識と全体意識との間を頻繁に往ったり来たりしています。

全体意識について何となく分かっていただけましたでしょうか(笑)。

全体意識を捉えるのは、明け渡しによっても可能ですが、自覚(自分に意識を向けること)という手段を使っても可能です。
自分に意識を向け続けるうち、まずは自分の個の意識を捉えることができると思います。
そして、さらにその個の意識に意識を向け続けることにより、その個の意識、すなわち私という存在が幻であることを見破り、全体意識を捉える瞬間がきっときます。

その瞬間、あなたに経験したことのない至福が訪れるかも知れません。


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真我もまた幻

2014年01月18日 12時49分25秒 | 私の成り立ち
◇真我もまた幻◇

引き続き、内面世界の探索を続けておりまして、理解がまだ進むようです。
今日もそのことについて書かせていただきます。

昨晩、このブログにコメントを下さる「とろぞう」さんから、井上義衍老師が実相と生死に関連して話しておられる古い動画を教えて頂き、それを視聴しました。
お陰様で、まさにちょうどいいタイミングで理解のヒントを頂いたという感じです。
とろぞうさんと、そのご縁に感謝いたします。m(_ _)m

ここのところ、私という個の意識と真我との間をかなり自在に往き来できるようになってきておりまして、往ったり来たりしながら理解を深めている感じです。
もちろん、理解が生じるのは、私という個の意識が顕在化しているときのことです(ここがポイントなのですが、笑)。
では、本題に入っていきます。

私は、次の二つの点で誤解しかけてました。

一つは、真我(実相)が、全体意識や私という個の意識と別のものであるかのように考えてしまいそうになっていたのですが、これは間違いでした。
真我は、まさに全体意識のことでした。

もう一つは、全体意識(真我)と、私という個の意識の間で主従関係を考えてしまい、真我の方が主であるかのような考えになりかかけていましたが、これも間違いでした。
全体意識と個の意識は、対をなす対等な関係なのです。

私という個の意識が幻なのですから、全体意識もまた幻なのです。
幻である私という個の意識があるから、全体意識を認識して理解できるのです。
つまり、私という個の意識が存在するから、全体意識も存在するのです。
よって、私という個の意識が消えるのに伴い、全体意識も共に消えるのです。

私という存在を含めたこの世界は、まさに私という個の意識と全体意識の分離、すなわちそれらの起こりにより始まり、それら二つの意識が再度統合されるに伴って消える、瞬きのような一瞬の出来事だったのです。

それは、まさに一瞬の幻なのです。


付け足しのようで、心苦しいですが、

私に自覚を教えて下さったマスターゲートさんに改めて感謝したいと思います。m(_ _)m


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思考の連鎖がただ在るだけ(2)

2014年01月17日 09時23分10秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖がただ在るだけ(2)◇

思考の連鎖について、もう少し書いておきたいと思います。
もう大分理解はまとまったのだろうとは思っているのですが、まだ理解は進んでるようで、少しずつ明らかになる部分があるのです(笑)。

先日の記事で、個の意識の目覚めと全体意識の目覚めに伴って、「私」という個の意識が消えるのだと書きました。
また、通常の意味での「私という意識」は考えであり幻であり、「私という考え」を含む思考の連鎖が起きていたのだと書きました。

上の私の切り口は、個の意識と全体意識という観点からのものでしたが、別の切り口も存在するようです。

それは例えば、主体と客体という切り口です(ニュアンスの違いだけであり、ほぼ同じことですが、笑)。

個と全体の両意識の目覚めにより「私」という個の意識が消えるのに伴い、主体と客体の統合が起きているようです。
例えば、リンゴに意識のスポットが向けられてリンゴという考えが起こっているとき、そこにはリンゴという考えだけがあり、通常の意味での「私」は存在せず、敢えて言えば、そのリンゴという考えそのものが私なのだということです。

主体と客体が統合されていますから、まさに唯一の存在ということになります。
様々な有り様に変容する唯一の存在ということになります。
存在と言っても、通常感覚の意識はありませんし、意思もありません。
ただただ存在の変容が繰り広げられているだけなのです。

この唯一の存在は、「私」という個の意識の考えとの関連で存在しています。
そのため、個の意識のそれぞれに一つずつ唯一の存在が在ることになります。
私(慧空)には、私という考えに関連した唯一の存在があり、あなたには、あなたという考えに関連した唯一の存在があります。

この唯一の存在を、先人たちは真我と呼んだりするようです。


私とは、思考の連鎖である。

私とは、意識である。

私とは、ただ在る存在である。

私とは、変化である。

私とは、私である。

私とは、真我である。


これらは、すべて同じことを言っているものです。


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思考の連鎖がただ在るだけ(1)

2014年01月16日 09時55分45秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖がただ在るだけ(1)◇

「私という存在」が考えであり、幻なのですから、「私の意思」も幻なのです。
私の意思は、錯覚だったのです。
そもそも、意思は存在しなかったのです。

敢えて在ると言うとすれば、「私という考え」を含む思考の連鎖がただ在るだけなのです。
私という考えが起こり、私が生きてこれをやっているんだという考えの連鎖が起きていたのです。
ただそれだけなのです。


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思考の連鎖と私(3)

2014年01月06日 14時56分44秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖と私(3)◇

思考の連鎖と私についてさらに補足します。

思考の連鎖、あるいは思考そのものが私ですから、あの世を含めたこの世界のすべての事象が私であるということになります。
私もあなたも、石ころも草木も、天界の神々も、私から見ればすべて私なのです。
もちろん、あなたから見れば、すべてあなたということになります。

なぜなら、私が見て経験している世界は、私自身を含めて私の思考であり、あなたが見て経験している世界は、あなた自身を含めてあなたの思考ですから。


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思考の連鎖と私(2)

2014年01月03日 14時14分17秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖と私(2)◇

前回の記事に続いて、思考の連鎖と私についてさらに補足します。

思考の連鎖こそが私であると言うと、いやそれは違うという声が聞こえてきそうです。
思考の連鎖が私なのではなく、思考(考え)をつくっているのが私であり、本質の私なのだと。

この考えは間違いではなく、見性という悟りのゲートを潜るのにはとても有効なのですが、これが終わりではないのです。
あなたが「本質の私」と言っているとき、もっと言えば「本質の私」という感覚を得ているときのあなたの内面を観ていただきたいのです。
あなたがこれは本質だと言っているその「本質の私」も、考えであり幻であることに気づくはずです。
ある考えをつくっている瞬間に、それと同時にその考えをつくっている「本質の私」が存在していると感じているそのあなたの感覚は、錯覚なのです。
考えがつくられている現場をもっと詳細に観てください。
そこには、考えの生成だけがあり「本質の私」は存在していないはずです。


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思考の連鎖と私(1)

2013年12月27日 13時46分12秒 | 私の成り立ち
◇思考の連鎖と私(1)◇

以前ここに、私とは思考の連鎖、あるいは思考そのものであると書いたのですが、ただでさえ突飛雄牛のない話のなのに、余りにも簡単に書きすぎてしまったかなあと思い、少し引っ掛かっていました。
今日は、そのあたりについて改めて書いてみようと思います。

「私」について考察するに、「私」とは止めどなく連鎖的に推移するスポットライトのようです。
そして、その毎瞬ごとにスポットライトが当てられる先では、スポットライトの動きに連動して種々の考えが生成されていきます。

ある瞬間に、何らかの事象についてスポットが当てられているときは、そこでその事象に関連する考えの生成が起こります。
そして、次の瞬間に「私という考え」の方にスポットが当てられると、その瞬間、「私という考え」が生成されます。

ここがポイントなのです。

「私という考え」、すなわち、私たちが普通の感覚で私自身と思っている「私という存在」は、スポットが他の事象に当てられていて「私という考え」がつくられてない間は、存在していないのです。
つまり、感覚的な「私という存在」は、常にあるのではなく、間欠的につくり出される考えであり、幻なのです。

では、普通の感覚での「私という存在」が間欠的につくり出される幻なら、「真の私」とは何なのでしょう。

止まることなく推移し続けるスポットライトの動き、すなわち思考の連鎖こそが「私」なのです。


かなり突飛雄牛のないことを書いています(余計分からなくなってしまったでしょうか、笑)。
どうぞあまり深く考えられることなく、スルーしてください。
無理に考えても理解できるものではありません。
考えるより、感じていただきたいという感じです(笑)。


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「私」の始まり

2013年11月13日 09時46分15秒 | 私の成り立ち
◇「私」の始まり◇

昨日の記事について、少し補足したいと思います。

それは、「私」という意識の始まりについてです。
「私」という意識は、それそのものが考え(思考)なのですが、それには始まりがあります。
「個」という意識と「全体」という意識の分離が生じたときに、それと同時に思考の連鎖が始まりました。
その思考の連鎖が「私」なのです。


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個と全体

2013年11月12日 12時53分32秒 | 私の成り立ち
◇個と全体◇

「個」の対局には「全体」があり、これらは対をなしています。
私という意識(これも考えです)は、「個」という意識だけではなく、「全体」という意識も含んでいて、これらの微妙なバランスの上に成り立っています。
母性、父性という言葉を使うと、「個」の意識が母性に対応し、「全体」の意識が父性に対応しています。

また、「私」という意識は、「個」の意識と「全体」の意識の分離により生じています。
その分離が生じた理由は知るよしも無いですが、確かにそれが起こったのです。
そのときから、「私」という意識は存在しています。

「個」だけを取り上げて「私」であると言うことはできず、「全体」だけを取り上げて「私」であると言うこともできないのです。
「個」と「全体」の両方の意識があってこそ、「私」なのです。


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「私」という考え

2013年11月11日 11時15分09秒 | 私の成り立ち
◇「私」という考え◇

「私」という存在の根幹には、「私」という考えがあります。
嬉しいことも、苦しいことも、すべての経験は「私」という考えに関連して起こってきます。

この「私」という考えは、私という存在と常に一緒でした。
このため、あまりに当たり前になっていて、しかも私という存在の前提であり、根幹であるため、それが考えであるということに気がつかないのです。
それに気づいてしまうと、私という存在が崩壊しかねませんし、「私」、すなわち「個」という経験を続けられなくなる可能性もありますから。

しかし、時代なのでしょうか、私を含めて一部の人たちに、経験の矛先をそこ、すなわち「私」という考えに向ける方がおられるようです。

ともあれ、「私」という存在は、その根幹にある「私」という考えによって維持されています。

この「私」という考えは、まさしく考えですから、その考えをつくるのをやめることができます。
その選択は、私たち個々の選択に常に委ねられています。


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「考え」とは私の呼び名の一つです

2013年10月23日 09時43分25秒 | 私の成り立ち
◇考えとは私の呼び名の一つです◇

この世は、考えできています。
現実化したものから、現実化してないものまで含めて、この世は無限の考えの集合と言えます。
あなたも、私も考えです。

私たちは、この考えの海の中から自分が望む部分にフォーカスしてその部分だけを観ています。
そして、そのフォーカスした部分に私という考えを置き、それを自分だと思い込んで生きています。
社会の中で生きる自分、家族と生きる自分、友達と触れ合う自分、孤独が好きな自分などなど、フォーカスされる部分は人それぞれであり、しかも刻々と変化します。
みんなそれぞれ、自分の好きな部分にフォーカスして考えの世界を経験しています。
この考えの海のどの部分にフォーカスして経験を楽しんでもいいのです。

しかし、この考えの海には盲点のように一ヶ所だけ特別な場所があります。
それは、ちょっと意外なところにあるので気づきにくいのです。

その特別な場所は、私自身の内面にあります。

私の内面にあるのですから、何処かに出かけて誰かに会う必要もないし、お金を使って何かを買う必要もないし、誰かに教えてもらう必要もありません。

ただ静かに私の内面を見つめればいいのです。

内面を見つめるときには、ちょっとしたコツがあります。
それが自覚なのです。


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