前日に続き、今回は現役引退選手編として振り返ってみようと思います。
他チームと比較しても、ベテラン選手の割合が多かったカターレ。世代交代の波は遠からず来るものだろうとは思っていましたが・・・それがよもや、津波レベルで押し寄せるとは予想外でした。
カターレ富山にあって、それぞれが唯一無二の存在として、チームを引っ張ってきた選手たち。誰ひとり欠いても、現在のカターレはありませんでした。
監督は「伝説の選手たち」という表現を使いましたが、言い得て妙というほかありません。
現役を引退する選手の皆さん、お疲れ様でした。
カターレ富山草創期を駆け抜けた選手たちの活躍、忘れません。
#1 中川 雄二
カターレ富山の正ゴールキーパーとして、幾多の激戦をくぐり抜けてきた守護神。
身長178センチと、ゴールキーパーとしてはそれほど恵まれた体格ではなかったものの、それを補ってあまりある俊敏性、豊富な経験に裏打ちされた判断力を武器に、ゴールを守り続けました。
特に、J昇格初年度となった2009年は、まさに獅子奮迅の活躍ぶりで、神がかったセーブを連発。堅守・富山の代名詞的存在となり、誰もが納得のチームMVPを獲得しました。
ネットの掲示板などで、他チームサポーターの「富山ってよく知らなかったけど、中川ってすげぇな」「無名なところからこんな選手が出てくるんだから、J2は面白いんだよ」といったコメントを見て、誇らしく思った者でした。
当然のように2年目となる今年も期待されたのですが・・・。具体的に、何が悪かったのかはよく分かりません。しかし、現実として積み上がった、失点の山。もちろん雄二ひとりの責任ではありません。実際、シーズン中2度もPKのピンチで神セーブを見せていたし。そればかりではないにせよ、いうなれば「運が悪かった」という面も多分にあったかと。「なにかきっかけさえあれば、いつかきっと守護神として復活する」---そう信じてきましたが、ついに、その「いつか」は来ませんでした。
選手寿命の短いサッカー選手にあって、GKならば32歳などまだまだこれからというもの。それでも、たとえ運が悪かったにせよ、プロ選手は結果によってのみ評価されるという現実。これまで積み上げてきたサッカー人生というものに誇りを持つからこそ、引退を決意したということなのかもしれません。
初めて作ってみたゲーフラ。もう掲げる機会がないとおもうと、寂しいです。それでも、これを見るたび思い出すでしょう。カターレ富山の黎明期、守護神と呼ぶに足る、すばらしいGKがいたことを。
#5 長山 一也
彼ほど「いぶし銀」という言葉がしっくり来る選手というのも、なかなかいないと思います。的確に相手の攻撃の芽をつぶし、堅実なパス回しで味方の攻撃に張りを与える。派手ではないけれど安定したプレーぶりでチームを支える、縁の下の力持ち。まさに、ボランチ職人でした。
けが人が多発して苦しいチーム事情が続いた2009年シーズンにあって、累積出場停止を除く全試合に出場し、1年目の躍進における最大の功労者となりました。そんなシーズンの最終戦、有終の美を飾るプロ初ゴールを決めた姿が忘れられません。
165センチという小柄な彼ですが、身長があだとなって悔しい思いをすることもあったのではないかと思います。しかし、それを言い訳にするのでなく、ひたむきに努力を重ねることこそが重要であると、そのプレーぶりが何より雄弁に語っていたように思います。今後は指導者を目指すそうですが、培った経験を、ぜひ後進へ伝えていってほしいです。
#6 濵野 勇気
カターレ富山・初代キャプテン。なんというか・・・うまく言葉に出来ないのですが、滲み出るオーラのようなものがある選手でした。あるいは、いわゆるキャプテンシーというものの発露だったのかもしれません。
紳士的で穏やかな立ち居振る舞い、その内に熱き炎が静かに燃える薩摩隼人。佇まいのなかに、なにかサムライめいたものを感じていたのは、おそらく気のせいではなかったと個人的には思っています。
やはり、濵野という選手を語るうえで外せないのは、J昇格を決めたMioびわこ草津戦でしょう。勝てば昇格という大一番で、渾身のヘッドが炸裂。勝利を呼び込むゴールを決め、これ以上ないかたちで期待に応えてくれたのでした。
試合後、感極まって涙を流していた姿が、忘れ得ぬ大切な思い出です。“男泣き”という言葉は、こういうときに使うためにあるんだな、と、心の底から納得したものでした。
JFL時代の鳥取戦で、試合終了間際に値千金のゴールを挙げたり、一番近いところで、北九州戦で11試合ぶりの勝利をもたらす逆転弾を決めたり。DFということで数は多くないにせよ、どれもが劇的なゴールという。
記憶に刻みつけられたプレーの数々、この先も忘れませんとも。
#8 渡辺 誠
冷静沈着、クレバーなプレーぶりが光りました。JFL時代はボランチの一角として多大に貢献。昇格後、ホーム開幕戦において記念すべきクラブJ初ゴールをを決めました。
しかし、5月に大けがをし、シーズンの大半を回復・リハビリに当てることを余儀なくされてしまいました。そんな中にあって、草島の練習場でも復帰に向けて黙々とトレーニングを積む姿に、胸が熱くなりました。
復帰してからはなかなか出場機会に恵まれなかったものの、それでも常に意識は高く持ち続けていた。だからこその、最終戦での同点ゴールでしょう。セレモニーでの「サッカーにさまざまなことを教えられた。喜び、苦しみ、感謝…。きょうも厳しさを教えてくれた」というコメントも、ストイックにサッカーの道に精進してきたマコならではの説得力というものがありました。
チームを去るのは寂しいですが、マコの真摯にサッカーに取り組む姿勢というものを、残るメンバーは受け継いでいかねばならないところです。
#10 上園 和明
今季、J2通算100試合出場を果たした、カターレが誇る10番。
設立時のメンバーとしては最もJリーグ経験が豊富で、その実績をかわれて昇格初年度に2代目キャプテンに就任しました。Jの舞台に返り咲き、飛躍を遂げるはずでしたが・・・怪我に見舞われ、長期離脱を強いられることに。100試合出場ももっと早くに達成できるだけの力が、チームを引っ張っていく実力があっただけに、活躍機会の減少は、やるせないものがありました。
中盤を支配し、ゲームを組み立てるピッチ上の司令塔。機を見極める目に長け、鋭いパスで好機を演出しました。なかでも印象深いのが、2009年の最終戦。途中出場でピッチに立つなり、絶妙なタイミング、絶妙なコースのパスを出し、先制点に結びつけました。その精度たるや、身震いするほど。まさにキラーパスと呼べる、珠玉のプレーであったと思います。
見る者を魅了するプレーぶり、忘れません。
#13 長谷川 満
JFL通算103ゴールを誇る、カターレ富山J昇格の立役者。ハセの活躍なくして昇格はなかったと言っても、決して過言ではありません。
「利き足は頭」と語るように、恐れず果敢に飛び込んでいく泥臭いプレースタイルが持ち味。それが120%発揮されたのが、ホーム横河武蔵野戦でした。昇格戦線を勝ち抜いていくために、どうしても負けられない1戦でした。先制を許してしまいながらも同点に追いつき、さあ後半、というなかで。3点すべて頭から突っ込んでの、圧巻のハットトリック。長谷川満ダイビング祭りに、もはや、驚きを通り越して笑ってしまいました。
Jリーグでの活躍も期待されたものの、怪我で長期離脱。それでも、10月のホーム仙台戦では2得点。持ち味のヘッドでも得点し、J1昇格を狙っていた仙台を戦慄させたのでした。
しかし、度重なる故障に復帰の道は険しく・・・。誰もが望んだ復帰戦が引退のゲームとなってしまったのが残念でなりませんでしたが、そこでも輝きのかけらをみせてくれたあたり・・・言葉になりません。
これからも歴史が続いていくカターレ富山ですが、そのなかで初代エースストライカーとして、ファン・サポーターは、長谷川満の名を記憶し続けることでしょう。
#25 野嶋 良
地元・富山出身の選手としてかかる期待を、そのプレーで返してくれました。
昨年のホーム熊本戦でJ初出場。途中交代からわずか1分、ファーストタッチでJ初ゴールを決めるという、鮮烈なデビューを果たしました。
その初年度、チームにけが人が続出する中、ボランチで活躍してきたマコまでもが離脱。正直、マコが抜けて大丈夫なのか?と思っていました。しかし、その不安は良い意味で裏切られ、杞憂に終わることに。なぜなら、野嶋がその穴を埋めるに充分な、あるいは期待以上の活躍をしてくれたから。長山とコンビを組んだ中盤に安定感をもたらし、堅守富山を支える功労者となったのでした。
オフに膝の手術に踏み切ったものの、その後、思うように活躍できず。引退を決意するに至りました。
富山県民に夢を与えてくれた野嶋。選手としては引退であっても、違うかたちで今後も富山県サッカーを見守ってほしいです。
#26 中田 洋平
MFからDFへのコンバートが功を奏し、カターレ初年度の左SBの定位置を獲得、J昇格に大いに貢献しました。
洋平を語る上で欠かせないのは、やはり、SAGAWA SHIGA戦でのゴールでしょう。昇格をかけた戦いのクライマックス、負けるわけにはいかない試合でした。雨中の決戦は、0-0で折り返したものの、後半開始早々に隙を突かれて失点。スタジアムにイヤな空気が流れました。しかし、洋平の30メートルはあろうかというシュートが炸裂し、それを振り払いました。そして値千金の同点ゴールで勝ち点1を積み上げ、次節、昇格を果たしたのでした。
「イケメンなのに三枚目キャラ」として、チームメイトに、そしてファン・サポーターに愛された選手でした。27歳という年齢は、まだまだやれるはず、とも思えるのですが・・・それでも、他ならぬ本人が決断したこと。次なる道でも、その明るい人柄で、良き人生を歩まれることを願います。
他チームと比較しても、ベテラン選手の割合が多かったカターレ。世代交代の波は遠からず来るものだろうとは思っていましたが・・・それがよもや、津波レベルで押し寄せるとは予想外でした。
カターレ富山にあって、それぞれが唯一無二の存在として、チームを引っ張ってきた選手たち。誰ひとり欠いても、現在のカターレはありませんでした。
監督は「伝説の選手たち」という表現を使いましたが、言い得て妙というほかありません。
現役を引退する選手の皆さん、お疲れ様でした。
カターレ富山草創期を駆け抜けた選手たちの活躍、忘れません。
#1 中川 雄二
カターレ富山の正ゴールキーパーとして、幾多の激戦をくぐり抜けてきた守護神。
身長178センチと、ゴールキーパーとしてはそれほど恵まれた体格ではなかったものの、それを補ってあまりある俊敏性、豊富な経験に裏打ちされた判断力を武器に、ゴールを守り続けました。
特に、J昇格初年度となった2009年は、まさに獅子奮迅の活躍ぶりで、神がかったセーブを連発。堅守・富山の代名詞的存在となり、誰もが納得のチームMVPを獲得しました。
ネットの掲示板などで、他チームサポーターの「富山ってよく知らなかったけど、中川ってすげぇな」「無名なところからこんな選手が出てくるんだから、J2は面白いんだよ」といったコメントを見て、誇らしく思った者でした。
当然のように2年目となる今年も期待されたのですが・・・。具体的に、何が悪かったのかはよく分かりません。しかし、現実として積み上がった、失点の山。もちろん雄二ひとりの責任ではありません。実際、シーズン中2度もPKのピンチで神セーブを見せていたし。そればかりではないにせよ、いうなれば「運が悪かった」という面も多分にあったかと。「なにかきっかけさえあれば、いつかきっと守護神として復活する」---そう信じてきましたが、ついに、その「いつか」は来ませんでした。
選手寿命の短いサッカー選手にあって、GKならば32歳などまだまだこれからというもの。それでも、たとえ運が悪かったにせよ、プロ選手は結果によってのみ評価されるという現実。これまで積み上げてきたサッカー人生というものに誇りを持つからこそ、引退を決意したということなのかもしれません。
初めて作ってみたゲーフラ。もう掲げる機会がないとおもうと、寂しいです。それでも、これを見るたび思い出すでしょう。カターレ富山の黎明期、守護神と呼ぶに足る、すばらしいGKがいたことを。
#5 長山 一也
彼ほど「いぶし銀」という言葉がしっくり来る選手というのも、なかなかいないと思います。的確に相手の攻撃の芽をつぶし、堅実なパス回しで味方の攻撃に張りを与える。派手ではないけれど安定したプレーぶりでチームを支える、縁の下の力持ち。まさに、ボランチ職人でした。
けが人が多発して苦しいチーム事情が続いた2009年シーズンにあって、累積出場停止を除く全試合に出場し、1年目の躍進における最大の功労者となりました。そんなシーズンの最終戦、有終の美を飾るプロ初ゴールを決めた姿が忘れられません。
165センチという小柄な彼ですが、身長があだとなって悔しい思いをすることもあったのではないかと思います。しかし、それを言い訳にするのでなく、ひたむきに努力を重ねることこそが重要であると、そのプレーぶりが何より雄弁に語っていたように思います。今後は指導者を目指すそうですが、培った経験を、ぜひ後進へ伝えていってほしいです。
#6 濵野 勇気
カターレ富山・初代キャプテン。なんというか・・・うまく言葉に出来ないのですが、滲み出るオーラのようなものがある選手でした。あるいは、いわゆるキャプテンシーというものの発露だったのかもしれません。
紳士的で穏やかな立ち居振る舞い、その内に熱き炎が静かに燃える薩摩隼人。佇まいのなかに、なにかサムライめいたものを感じていたのは、おそらく気のせいではなかったと個人的には思っています。
やはり、濵野という選手を語るうえで外せないのは、J昇格を決めたMioびわこ草津戦でしょう。勝てば昇格という大一番で、渾身のヘッドが炸裂。勝利を呼び込むゴールを決め、これ以上ないかたちで期待に応えてくれたのでした。
試合後、感極まって涙を流していた姿が、忘れ得ぬ大切な思い出です。“男泣き”という言葉は、こういうときに使うためにあるんだな、と、心の底から納得したものでした。
JFL時代の鳥取戦で、試合終了間際に値千金のゴールを挙げたり、一番近いところで、北九州戦で11試合ぶりの勝利をもたらす逆転弾を決めたり。DFということで数は多くないにせよ、どれもが劇的なゴールという。
記憶に刻みつけられたプレーの数々、この先も忘れませんとも。
#8 渡辺 誠
冷静沈着、クレバーなプレーぶりが光りました。JFL時代はボランチの一角として多大に貢献。昇格後、ホーム開幕戦において記念すべきクラブJ初ゴールをを決めました。
しかし、5月に大けがをし、シーズンの大半を回復・リハビリに当てることを余儀なくされてしまいました。そんな中にあって、草島の練習場でも復帰に向けて黙々とトレーニングを積む姿に、胸が熱くなりました。
復帰してからはなかなか出場機会に恵まれなかったものの、それでも常に意識は高く持ち続けていた。だからこその、最終戦での同点ゴールでしょう。セレモニーでの「サッカーにさまざまなことを教えられた。喜び、苦しみ、感謝…。きょうも厳しさを教えてくれた」というコメントも、ストイックにサッカーの道に精進してきたマコならではの説得力というものがありました。
チームを去るのは寂しいですが、マコの真摯にサッカーに取り組む姿勢というものを、残るメンバーは受け継いでいかねばならないところです。
#10 上園 和明
今季、J2通算100試合出場を果たした、カターレが誇る10番。
設立時のメンバーとしては最もJリーグ経験が豊富で、その実績をかわれて昇格初年度に2代目キャプテンに就任しました。Jの舞台に返り咲き、飛躍を遂げるはずでしたが・・・怪我に見舞われ、長期離脱を強いられることに。100試合出場ももっと早くに達成できるだけの力が、チームを引っ張っていく実力があっただけに、活躍機会の減少は、やるせないものがありました。
中盤を支配し、ゲームを組み立てるピッチ上の司令塔。機を見極める目に長け、鋭いパスで好機を演出しました。なかでも印象深いのが、2009年の最終戦。途中出場でピッチに立つなり、絶妙なタイミング、絶妙なコースのパスを出し、先制点に結びつけました。その精度たるや、身震いするほど。まさにキラーパスと呼べる、珠玉のプレーであったと思います。
見る者を魅了するプレーぶり、忘れません。
#13 長谷川 満
JFL通算103ゴールを誇る、カターレ富山J昇格の立役者。ハセの活躍なくして昇格はなかったと言っても、決して過言ではありません。
「利き足は頭」と語るように、恐れず果敢に飛び込んでいく泥臭いプレースタイルが持ち味。それが120%発揮されたのが、ホーム横河武蔵野戦でした。昇格戦線を勝ち抜いていくために、どうしても負けられない1戦でした。先制を許してしまいながらも同点に追いつき、さあ後半、というなかで。3点すべて頭から突っ込んでの、圧巻のハットトリック。長谷川満ダイビング祭りに、もはや、驚きを通り越して笑ってしまいました。
Jリーグでの活躍も期待されたものの、怪我で長期離脱。それでも、10月のホーム仙台戦では2得点。持ち味のヘッドでも得点し、J1昇格を狙っていた仙台を戦慄させたのでした。
しかし、度重なる故障に復帰の道は険しく・・・。誰もが望んだ復帰戦が引退のゲームとなってしまったのが残念でなりませんでしたが、そこでも輝きのかけらをみせてくれたあたり・・・言葉になりません。
これからも歴史が続いていくカターレ富山ですが、そのなかで初代エースストライカーとして、ファン・サポーターは、長谷川満の名を記憶し続けることでしょう。
#25 野嶋 良
地元・富山出身の選手としてかかる期待を、そのプレーで返してくれました。
昨年のホーム熊本戦でJ初出場。途中交代からわずか1分、ファーストタッチでJ初ゴールを決めるという、鮮烈なデビューを果たしました。
その初年度、チームにけが人が続出する中、ボランチで活躍してきたマコまでもが離脱。正直、マコが抜けて大丈夫なのか?と思っていました。しかし、その不安は良い意味で裏切られ、杞憂に終わることに。なぜなら、野嶋がその穴を埋めるに充分な、あるいは期待以上の活躍をしてくれたから。長山とコンビを組んだ中盤に安定感をもたらし、堅守富山を支える功労者となったのでした。
オフに膝の手術に踏み切ったものの、その後、思うように活躍できず。引退を決意するに至りました。
富山県民に夢を与えてくれた野嶋。選手としては引退であっても、違うかたちで今後も富山県サッカーを見守ってほしいです。
#26 中田 洋平
MFからDFへのコンバートが功を奏し、カターレ初年度の左SBの定位置を獲得、J昇格に大いに貢献しました。
洋平を語る上で欠かせないのは、やはり、SAGAWA SHIGA戦でのゴールでしょう。昇格をかけた戦いのクライマックス、負けるわけにはいかない試合でした。雨中の決戦は、0-0で折り返したものの、後半開始早々に隙を突かれて失点。スタジアムにイヤな空気が流れました。しかし、洋平の30メートルはあろうかというシュートが炸裂し、それを振り払いました。そして値千金の同点ゴールで勝ち点1を積み上げ、次節、昇格を果たしたのでした。
「イケメンなのに三枚目キャラ」として、チームメイトに、そしてファン・サポーターに愛された選手でした。27歳という年齢は、まだまだやれるはず、とも思えるのですが・・・それでも、他ならぬ本人が決断したこと。次なる道でも、その明るい人柄で、良き人生を歩まれることを願います。