佐久間家は象山が後ろから切られてということでv、お家断絶となる、当然息子は浪人となる。
〇象山の一人息子(三浦敬之助)
幕末を代表する思想学者の弟子には坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰等がいたが、一部の尊王攘夷派からは「西洋かぶれ」といわれ、命を狙われていた。1864年京都の木屋町で肥後の川上彦斎らに暗殺されてしまう。
その数日後、新撰組に会津藩士山本覚馬が連れてきたのが象山の一人息子(三浦敬之助)17歳であった。ところがこの息子が新撰組史上最悪の不良隊士であった。母親から多大の仕送りを得て遊郭で遊びほうけ、自分からぶっかった物売りの女性を切り殺し、隊士同士のいさかいでは相手を後ろから切りつけるなど、普通の隊士なら切腹ものであったが、勝海舟の甥で客人扱いであった為、大目に見られていた。
結局、三浦は勝手に姿をくらまし、西郷隆盛を頼り、官軍として戊辰戦争に参加、維新後は慶応義塾を経て、司法省に出仕したが、ご乱交は変わらず、うなぎの蒲焼中毒で29歳で死亡している。
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