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アメノチハレ

都志見隆の果てしない日々の日常

The Mary Tyler Moore Show 

2017-01-27 | 音楽♪
作曲の後輩が音楽武者修行先のL.Aからメールをくれた。
アメリカ在住のアーティストとのコラボセッションの様子や
大きなハンバーガーの写真。

アメリカでのコラボは初めてのようで
帰国後の飲みの席ではその体験談に花が咲くことだろう。

幸運なことに僕自身もこれまでに何度かの渡米のチャンスに恵まれ
その中でも20歳の時にニューヨークに約4年
その後30歳の時には丸2ヶ月ほどL.Aで曲を作り続けた経験は
その後のキャリアに大きく影響した。

どんな目的であれ、日本を離れ向こうの生活の中で
その国の文化や食そして空気に触れることは
日本にいて想像する世界とは似て非なるもの。
それまでの自分の価値観も変えかねない。
できれば若い頃の方が何でも刺激的に吸収できる事も多い。

誰が聴いて決めているかもよくわからない楽曲プレゼンに疲れたら
少しの間でもむこうに行って来るといいよと
後輩達には薦めている。


Mary Tyler Moore Dies at 80 | ABC News
今朝、Yahooニュースを見ていたらある女優さんの死が報じられていた。
メアリータイラームーアさん。

ニューヨーク留学時代のある時期
僕は彼女主演のこのコメディードラマで
英語を覚えたと言っても大袈裟ではない。
実際には渡米時の前年にドラマは終了しており
TVで流れていたのはリバイバルの放送だった。

一人一人のキャラクターの喋り方や言葉使いにも慣れてくると
より内容が理解出来てくるようになる。
言葉というのはその人の喋り方で覚えるのだ。
単語は会話の中で覚えないといつまでたっても生きた使い方が出来ない。
聞き覚えのない単語が減ってくるごとに面白さは増して
毎日のオンエアーが待ち遠しかった。
特に彼女の英語は滑舌もよく
発音が綺麗でわかりやすくとても参考になった。

訃報に触れて、一種の愛おしさにも似たなつかしさで
もしやと思ってYou Tubeを見たら
たくさんアップロードしてあるのに驚く。
昔は放映時間に間に合わずに見逃した番組も
いまではどんな形であれ大抵見る事が出来る。
つくづく便利な時代になったとおもう。

一国の大統領が思いついた事をツイートするだけで
世界が右往左往してしまう時代だが
それもただ嘆くわけにはいかない。
コンビニエントな時代の恩恵の裏側には
結果的にその副作用も同居するのだ。

起きたばかりの寝床の中で
番組のオープニングテーマから本編まで少しの間みてみた。
一瞬僕は まるで幽体離脱して
今から約40年弱前の当時のN.Yの街並や自分の日常に
舞い降りたようだった。

またひとつ 
僕のまわりにあった かつての良い時代が
その担い手と共に消えて終わってゆくようで寂しい。

メアリーさん 僕の母と同い年

安らかに。

優しい言葉

2017-01-17 | 音楽♪

その昔 実家の前はまだ畑でね。

雪といえば、ともだち達とその畑に積もった雪を集め
互いに陣地をつくって雪合戦をやっていたら
母がパートの仕事から帰って来たという光景を今でも時々思い出す

わが故郷 広島でも何十年振りの大雪
畑だった土地も今は綺麗な公園となって
おそらくドカ雪など見た事のない近所の子供達も
ここぞとばかり大雪と戯れながらきっと時間を忘れてるに違いない。



さて、気がつけば昨年の冬至を過ぎてから少しずつ日が長くなっている。
寒さはまだ少し続きそうだが、日が長くなるのは何とも嬉しい。
光の間口が少しずつ開いてゆくような
新しい人との縁に出会えるような
そんな心地よさがある。

正月に甥っ子たちが集まった際に、
その中の一人が溜まりに溜まった心の鬱憤を
ここぞとばかり吐き出していた。
別々に暮らしている父親のことで周りも承知していることなので
たまにはガス抜きも必要だとみんなも静かに訊いていたが
結局は酒の力も借りて集まりのほとんどの時間はその話。

彼はなんにも悪くないのだけれど
時間が長引くにつれて
その怒りの気持ちや言葉で
こちらも結構疲れてくる。

先日会った友人が言っていたことを思い出した。

人の悩みなど聞くときは時間を決めてあげたほうが
話す方も聞いてあげる方もお互の為にいいらしい。

例えば、「話聞くけど、30分ね」って時間を区切ると
話す方もその中で完結しようとするらしく、
時間が来たら話題を変えればいい。

人に向けた念というものは
そのぶん自分のエネルギーも取られる。

なるべく、優しい言葉を使って過ごせるように
自分の気持ちを穏やかにコントロールできたらいいね。

言うは行うより易しだけど
今度彼に会ったら
自分の事はひとまず棚の上の方に上げておいて
ちょっとそんなアドバイスもしてやるか。

京都へ その壱

2016-09-15 | 音楽♪
京都といえば、何年か前に訪れたきりで 
過去にも数回しか駅に降りた事がない。
人の喉の骨が仏様に似ている事からそれを喉仏というが
母方の祖母の喉仏が京都の西本願寺に納骨してあるということで
はじめてお参りしてからもう10数年は経つ。
ちなみに僕は分骨や散骨に関しては反対論者である。

さて 
これまでそんなに多くはないが色んな歌を書いてきて、
もちろんまだその途上ではあるが
そんな作品達が繋いでくれたご縁が少なからずある。

自分の知らないところで知らない人が
その歌をとても愛していてくれているんだとイメージする事ができれば
次の作品へのすごい力になる。

先日、ある方からお手紙いただいて 
その後何度かメールでもやりとりするうちに
その方に実際に会いたくなった。

そうこうしているうちに、大阪に出向く用が舞い込んで来た。
ならば京都のその方にも会ってこよう。

ついでで悪いが広島にも足を伸ばして
両親に不意打ちを食らわすか。
びっくりして心臓が止まらぬように
やはり京都から一本電話を入れて
今からちょこっと帰ると言ってからにするか。

何ごともイメージする事がとても大切。

書きたい曲 食べたいもの 釣りたい魚  なんでもかんでも。
ありたい自分 そして 会いたい人

イメージすれば叶うと錯覚し妄想する事。

それも大事。            

                 

歌は世につれ世は歌につれ

2016-08-31 | 音楽♪
先日、三波豊和さんのライブにお邪魔してきた。

豊和さんといえば三波春夫さんの息子さん。
そして三波春夫さんといえば
忘れもしない1970年 僕が小学校六年生の時の大阪万国博覧会
そのテーマ曲「世界の国からこんにちは(1967)」を唄われた。

余談であるが1970年の万博会場で食べたカレーが500円。

豊和さんとは約2年前であるが
参加したあるゴルフコンペではじめてお会いした。
遠くから駆け寄って来こられて
「いやあ、都志見さんの書いた曲好きでいつも唄ってますよ!」と
声をかけて頂いたのが最初だった。



それ以来ゴルフやお芝居の案内など何度か頂いたのだが
あいにく都合がつかずあれ以来お目にかかれずにいた。
今回のライブ それから御自身がパーソナリティーをやられている
ラジオ番組へのゲスト出演の件も含めて
ありがたいことに今年もご連絡を頂いた。
特に今回はライブの中で
中西保志の「最後の雨」という曲を唄いますからとあったので
こちらとしても少々緊張しながら聴いた。

ライブで唄われた豊和さん自身のデビュー曲「青春よ翔べ(1975)」や
特に御父上の代表曲でもある歌謡浪曲『俵星玄蕃(たわらぼしげんば)』
この作品は多くの歌手に唄われている作品だが
あの糸をピンと張った様な声質を遺伝子としても引き継いだ
豊和さんのその歌声と表現力に圧倒されてしまった。
その「俵星玄蕃」を聴きながら
たとえば歌手がこれを唄える事って
それだけで一芸に価すると思えたほど。

そんな歌たちが求められ楽しまれた時代を
僕は本当にいい時代だったと心から思う。

歌は世につれ そしてまさに世は歌につれ

Rioの五輪も終わり、さて4年後の東京五輪2020
少なくともこれから4年はこの新しい東京オリンピックに向かって
あらゆることが渦をまくように加速してゆくのだろう。

豊和さんがライブの終盤で唄った東京五輪音頭(1963)。

「オリンピックの顔と顔 ソレ トトント トトント 顔と顔〜♫」
まるで御父上の歌を聴いているようではじめてフルコーラスを聴いた。

四年後 なんだかまたこういう歌が響く日本であればいいなと思った。

秋日傘 -2016-

2016-08-15 | 音楽♪
昨年の暮れの時期にNHKラジオ深夜便のうたで3ヶ月間オンエアされたこの歌。
以前にもこのブログ内で紹介した事がある。「秋日傘」

とにかく作り始めてから最終的に歌い手として中西保志にたどり着くまで
そして、この歌が世に出てから現在に至るまで
いろんな時間が過ぎた。



中西保志がずっと継続してライブで唄ってくれているおかげで
本当に少しずつではあるが、この曲を理解していただける人が増えて来た。
歌い続けてくれる事ってどんな事より嬉しい。

今年の初頭 ある友人に聴かせたら、
彼の想いなりにそれをまた人から人へと聴かせてくれていた。

NHK合唱コンクールの東北ブロック宮城県コンクール(8月20日(土)多賀城市民会館)において
石巻市立荻浜中学校の生徒さん16名がこの「秋日傘」を唄ってくれると言うのだ。

いきさつを話せば長くなるのだが、ともかくも私の友人が
震災以降この学校の生徒さん達と音楽を通じての交流を持ち
直接この作品をみんなに聴かせてくれたことがキッカケで
生徒さん達も心からこの歌を大勢の人の前で披露したい
という気持ちになってくれたと訊いている。

本当に嬉しい。

1年経ってまたこの作品の出番がある事
生徒さん達が自発的にこの作品に心を寄せてくれた事
もしその合唱を聴いて誰かがいい歌だなあなんて思ってくれたら
いつかどこかでまたこの歌の出番が与えられるかも知れない。

この歌の舞台となった東北の地元の皆さんに知ってもらい
そして唄ってほしいというのが
作詞家の康珍化氏と共にこの歌に執着し続けた理由でもあり
中学生の生徒さん達が唄ってくれるって報告を耳にしたとたん
「嬉し〜い!」って
ボクら作家の気持ちは、いとも簡単に舞い上がった。


まだまだ猛暑の夏 とはいえ 夕暮れに吹く風は気のせいか
少しずつ次の季節を連れて来ているようです。





花火

2016-08-14 | 音楽♪
2016年 広島の夏は自分の歴史始まって以来の酷暑であった。

37℃?嘘だろ?自分の体温より高いじゃないか。
広島駅に降りた途端、汗が噴き出す。


-同窓生が撮影して送ってくれた宮島花火大会 2016.8.11-

息苦しい程の暑さの中、今年も両親と無事に墓参りを終えた。
毎度の事ながら車で一日をかけて、ご先祖様に手を合わせる。
今年も母が「いつまでお墓参りができるかねえ」という。

母だが、春先から少し体調を崩していたせいか、
猛暑のせいもあって普段よりも少し痩せ気味で心配した。
食欲も少し戻ったというので取りあえずは安堵したが。

いつも墓参りの途中に島根県の介護施設にいる父の叔母に会いに行く。
今年で94歳になる。
3月の彼岸には体調も悪そうで夏には会えるかなあなんて話していた。
父の事はたまに思い出すが、僕には「はじめましてどうも」なんて言ったかと思えば
「大きくなったねえ」とか言う。

ホームの受付で名前を書いて少ししたら付き添われて歩いて出てきた。
「一度は死にかけたが、また生き返った」と第一声。 
「早う死ぬりゃあええんじゃが、まだ生きとる」春先より顔色もいい。
「ここは年寄りばっかりで話が合わんで困るわ」
人はいつまでも自分を客観視できない。

人間ってのは不思議だ。

どんなにボロボロになっても、生かされる理由があるのか。
人としてまだ終えていない役割があるというのだろうか。
ただ単に内臓が達者で心臓が強いからなのか。

ゆっくり立って杖をつきながら「さよなら」と手を振ってくれた。
次は母の両親が眠る墓へとまた一時間半かけて移動する。
今回はじめて20才の甥っ子に片道だけ運転を任せてみた。
時の経つのは早いものだ。この間生まれた彼がもう車を運転している。

そうやって少しずつ次の世代へ舞台を譲りながら
現役は裏方へと交代してゆく。

あの日、心配そうな父と母を乗せ、
はじめて僕が運転して親戚の家まで往復したように。


Share & Collaboration

2016-07-19 | 音楽♪

2014年に公開されたジョン・カーニー監督の映画「はじまりのうた」は
そのストーリー、そして映像を含め 
後日サントラを買う程に、いい音楽が溢れてた。

コンピューターグラッフィックを駆使した派手さがメインのハリウッド系もいいが
こういった静かに心が揺さぶられてゆく映画のほうが
どちらかというと好みかもしれない。

同監督の最新作「シングストリート」を先日観てきた。


シングストリート〜未来へのうた〜

それぞれ家庭に問題を抱えた学生達がバンドを組んで
自分たちでプロモーションビデオを作り と
音楽に救われた若者が希望をもって未来を目指す内容には
気がつけば映画の始まりから終わるまで、
かつての自分を重ね合わせながら観ていた。

自分の昔 広島時代のバンド
楽器屋のYAMAHAの掲示板で
メンバー募集の張り紙を見つけて
連絡した事がきっかけで参加した。

当時は自宅の二階でドラムを叩ける環境にいた友人がいて
他のメンバーと一緒に狭い部屋で結構大きな音出しながら
練習してた。
防音どころか、薄い壁の日本家屋で
近所にもさぞ迷惑をかけていたんだろうなあと
今の都会では絶対に考えられない環境があった。

今も活躍している友人のドラマーは
少年マガジンを2冊をガムテープでくくって
それを叩いて練習してた。

リーダーの家に泊まってアンプを通さずに
ビンビンシャカシャカ練習した。

同じ音楽をシェアするという感覚は、やはりバンドならではのもの。

最近の音楽は作家同士やアーティスト間のコラボ作品も大変多い。

前回書いたような作品のカバーの事にも繫がるが
ひとつの作品が多くの人にシェアされたり
バンドとかユニットなどの枠組みなしで
色んな才能とタッグを組んで
新しいものをどんどん生んでゆく
これからはそういう時代なのかもしれない。


「シングストリート」 お薦めです。

オキナワのともだち

2016-07-13 | 音楽♪
以前、あるアーティストに書いた作品を
今後のライブやCDでカバーしたいので
是非許諾を頂きたいという連絡を頂いた。

具体的になるまでは、まだ詳しい事は書けないが、
とっても嬉しい。

歌い繋いでもらえる道筋ができた。
枚数だけでは計れない、その歌たちのエネルギー。

作っている時からそんな可能性を信じて
作詞家の方と本当に綿密なやり取りをして完成した作品たち。



カバーの件を報告したら
「あの曲たち、そんなに気に入ってくれる人がいてうれしいです。
お互いがんばった日々を思いだすね〜。」
という返信をいただいた。

「自分の好きだった場所で
その歌が流れて気持ち良いかを判断基準としてつくってみます」
って、カバーしていただくアーティストからもメールをもらった。
素敵な言葉だなあって思った。

歌って誰のもんだろうねえ って
亡くなった作詞家の阿久悠さんがよく仰っていた。

いつも髪を切ってもらっている美容師さんが
毎週一回の休みに三線教室に通い始めてもう三年になる。
本場の唄三線や地元の伝統的なお祭りなどに触れるため
毎年二回 沖縄に行っている。

ゆくゆくはいい男(ひと)みつけて
沖縄のどこかの島で美容師をやりながら暮らしたいという夢がある。
その腕があれば、どこ行ったって暮らしてゆけるよ って
僕はいつも彼女にそう言う。
僕の髪の切り手がいなくなるのは実際大きな痛手ではあるが。

美容室から目と鼻の先にある沖縄居酒屋に
泡盛のボトル置いてありますから
よかったら飲んでくださいね なんて言ってくれたりする。

髪を切りに行くたびに、音楽や文化や生活や
オキナワの島全体が浮上する。

都志見さん、釣りやられるなら
是非オキナワのともだち紹介しますよ なんて
美容師さん、もう気持ちは向こうで暮らしてる。

       

2016-07-08 | 音楽♪
普段はあまり言われる事もないが、たまに

いい声してるね って言われると妙に嬉しい。

歌うまいですね〜って言われるよりも嬉しい。

歌を唄う事をメインにする活動をやめた理由として、
やはり自分には裏方作業が向いてるという事を
留学中に再確認出来たこともそうだが、
自分の声に対して将来性を感じなくなったというのが
大きな理由かもしれない。
唄い方と声質のバランスそして 究極の声の艶 などが
作品を導いてくるとすれば 
周りには自分より優れてると感じる人ばかりだった。
実際にこの世界に入ってみるとVoice & Vocalに関しては
雲泥の差を突きつけられた。



当時の声質といえば今より細くトーンも高く
押さえの効かないものだった。
特徴的には声を潰してガナる唄い方だったので
喉も響くわけがなかった。
そんな声では聴き手も数曲でお腹いっぱいになる。

最近はというと、
自分の声に対して少し違う感覚を持つようになった。

以前にもこのブログで書いたように、
自分がずっと唄っていきたいと思う作品に出会えたら
唄ってみようかなと近年思うようになった。
その作品に心当たりがないわけでもない。

声に艶がない歌手は一発はあるかも知れないが、
その後が続かないんだよ。
遠い昔の10代に、そう言われた覚えがある。

さて、その「一発」であるが幸運にもまだ出した覚えがない。

そういう意味ではまだ 可能性 ある かも 。

飯支度

2016-07-05 | 音楽♪
広島に住む両親と話していると
会話の節々にだいぶ老いを感じてしまう事も増えた。
母親がこのところ腰痛が酷く熱もあるという事で
午後から新幹線に飛び乗る準備をしていた。

地方都市にも大変立派な医者もおられる事は間違いないが、
しかしその数以上に適当に薬を出すだけのヤブ医者も多く存在する。
母が問診を受けた医者の応対等を訊いていると、
実名で公表したい程に憤慨してしまう。

高度医療に限らず、日常レベルの疾患においても
高い技術、そしてこころざし高く
気持ちの温かい医者に出会う事は
本当に難しい。
悲しいながら現実である。

母親の様子によっては帰広も考え待機していたが
どうやら、息子が帰ると飯支度などせにゃならんからと
少し元気が戻ってからにしてくれと言う。

弱った母親に飯支度などやらせるわけもないのに
いつまでたっても母と子の関係は変わらない。

「親父も出来合いの惣菜など嫌がるから、
一度帰って美味い飯でも食わせて、
色々と作り置きして帰ろうと思っていたが」と話すと

「あら、あんた 飯支度なんか出来るんね?」という。

そういえば親父も料理と言えば
豆腐に醤油をかけて食べるくらいの事しか出来ないし
いつも帰省の際には僕や女房は手伝う程度で
殆どの料理を母親がやってしまう。
またそれを皆が楽しみにしている事もあり
なかなか母の前で料理をするなんて機会もない。



友人が時化の中 39匹の鰺を釣って来た。
少しお裾分けしていただけるというから自宅に待機してた。
         
「吐きながら釣りました」とまだ身体が揺れているようである。
「都志見さんが今日の東京湾出てたら死んでますよ」
というくらいの大揺れだったらしい。
頂いた8匹をすぐに処理して丁寧に冷蔵庫に入れた。

刺身にしたり開きにしたり
僕のそんな包丁さばきを見たら
母親はきっと驚くに違いない。

お袋が寝込んだらどうするんだ?
親父も飯の世話くらい少しは自分で出来なきゃダメだぞなんて
少し発破をかけようと電話口で言いかけてやめる。

何はなくても母親のする飯支度が一番好きなのは
親父なんだからな。


私の履歴書

2016-07-04 | 音楽♪
しかし近年、まわりの甥っ子達もいつの間にか大きくなって
ついに今年来年は就活だ卒業だと嘘のような話だ。
一方、正月のお年玉を渡す人数が毎年減ってくれるのも嬉しい限りだ。

義妹の息子が、すでにサプライズ内定をもらったらしく
今まで苦労しながら母子で頑張ってきたのを知っているだけに
我が事のように嬉しく思った。
桁違いの数の会社の面接を受けている同級生も多い中
数社しか受けていない事に驚かれもしたらしいが、
本人曰く熱意が通じたのだと思うと喜んでいた。

数打つより溜めて打て!とはよく言ったもんだ。




東京に来るきかっけになったデモテープと写真と手紙。
40年前に「これで最後だ」と、
ある事務所に送った事が幸運にも僕の音楽生活を現在にまで導いてくれた。
そして実は履歴書もそれに同封してあったという記憶はとうの昔に忘れていた。
時間をかけて録ったデモテープと
便せん11枚分の手紙に託した音楽への想い。
それだけが「これで最後」の切り札だったからだろう。

履歴書を書いたのは後にも先にもその一通だけだ。
単なるあこがれや興味本位の好奇心からだけではなく
誰に何と言われようが音楽という職業へ就活するという
まさに履歴書はその毅然とした意志の証明書みたいなものだった。

当時送ったそれらの書類一式が何十年もずっと保管されており
数年前その事務所が自社ビルに移転する際の引っ越しで見つかり
その一部は僕の手元に帰ってきた。
そしてたまたまその中身を知る当時の事務所スタッフと先日会った。

「都志見さん、ところで当時手紙の他に履歴書も書いたの覚えてます?」

「何笑ってんだ?」

「そこのスポーツという欄に、なんて書いたか覚えてます?」

「覚えてはいないが、なんて書いてあった?」 「ボート?」

「いえ」

「柔道か?」......「なんだよ!?」


「万能!」 (大爆笑)

「スポーツという欄に{万能}って書いてありました!」

          

やはり、履歴書としては、さほど役に立ってはいなかったようである。

才能

2016-06-29 | 音楽♪

今年の西日本に降る雨の量は尋常ではない。
特に九州地方は先の地震の傷跡に上塗るような豪雨。
毎日のように天気図を見ながら雨雲の行方を追いかけて
我がふるさと広島にかかる雲の動きもチェックする。



               
さて、先日はラジオに呼んで頂いたり、またJASRACの番組に出演させて頂いたりで、
これまで書いてきた作品の事やこれからのあり方など
改めて自身が色々と確認することも出来て大変有意義な時間を過ごした。

そういえば過去に提出してきたデモテープなど、もちろん殆ど残っていない。
カセットの時代を経て DAT そしてMDになり 現在は音楽ファイルをメールで送る。
デモを録音した大もとの音源も殆ど手元にない。
ストックできる近年のものだけがコンピューターの中にあるだけだ。

番組側のリクエストで数曲のデモテープを求められた。
一応探してみるという事でお返事した。

中西保志に書いた『最後の雨」は1992年の作品 手元にはなかったのだが
当時のディレクターに話したら、幸運にも私が提出したカセットテープを
なんと現在まで保存していてくれていた。
自分の周りには自分以上にはるかに几帳面な人たちばかりである。

反町隆史に書いた「Forever」(フジテレビ『ビーチボーイズ」の主題歌)は1997年
これはたまたま保存してあった数枚のMDの中に見つける事が出来た。

当時のデモから20年もしくはそれ以上の時間が過ぎる中で
手持ちの機材や音源は何周も変化し進化してるにも関わらず
今から比べたらとても不器用な機材を駆使して作ったそのデモには
あくまで主観ではあるが
20年の時を跨いでも今に劣らず寸分も色褪せてないチカラがあった。

経験に頼らず優劣をつけず一曲一曲をその時の精一杯の思考とアイデアで
今後も形にしてゆくだけである。
              
            ※

さて 釣りを始めてもう五回ほど海に出た。
仕掛けを落として待っていれば、お魚さんが寄ってきてくれるわけではなかった。
毎回と言っていい程、船ではB.B King(ブービーキング)つまり
その日の釣果は、ほぼビリである。
人が20や30釣るのに、自分は7〜8匹しか釣れない。
毎回友人がそんな私を哀れんでお裾分してくれる始末だ。

幸運にも音楽はいままでやって来れたが、
釣りの才能はなし。

それでも
何故かまた明け方の金沢八景で出船に備え釣り糸を張る自分がいる。

             


いざ!

2016-04-14 | 音楽♪
今年の花見のシーズンは天気が安定せずに雨も多かった。
毎年恒例の友人との桜ゴルフは、かろうじて花をつけた桜の木に見守られながら
相変わらずボールが右や左に乱れ曲る度
その上達しない腕を憂うように
最後の桜が名残惜しく風に舞った。

高速道路を降りて目的地のゴルフ場(越生ゴルフクラブ)に向かう途中の里山がたいそう美しく、
もし海が近くにあったら、こんな土地に住んで色んな恵みを頂きながら
晩年を送るのもいいかも知れないと思った。
東京近郊にはそう思わせるほどの美しい土地が数多くある。

そんな山や里に合う音楽は和物とは限らない。日本語の言葉が景色を邪魔する事のほうが多い。
いい曲がラジオから流れてきた。
友人がスマホをスピーカーにかざすと、すぐにアーティストと曲名がわかった。


Natalie Marchant"Wonder"

便利な世の中である。

           
さて 数年前からその年の年頭に、仕事以外に何かひとつテーマを決めて
それを自分なりに深く掘り下げて勉強してみようと企て実行している。

たとえば「植木」「栄養学」「FX」「料理」など興味を持ったものすべてに対してだが、
そのひとつひとつは端で見ていた時とは大違いで突き詰めると奥深くなかなか面白い。
そして昔から機会があれば是非一度チャレンジしてみたかった事があった。

「釣り」 である。

今年はそれに決めた。

昔から三半規管が弱く、自動車やバスに乗る度に車酔いしていた子供だった。
30歳過ぎてから一時自律神経を悪くしていた時期があり、
その後は何をするにしても もし急に気分が悪くなり
人に迷惑をかけてしまったら悪いので遠慮しておこうなどと、
自分の行動を考える時 まずはその事が前提になり 
どうしても消極的になりがちだった。
今現在でもライブハウスやコンサートホールは苦手で実はあまり行きたくない。

たまたま同じ業界にいて顔は知っていた人物と改めて接する機会があったのだが
話が進んで行くうちに驚く事に彼はなんと広島の母校の後輩だった。

どこ出身?
広島です  
ほう~、高校はどこ出たん? 
廿日市高校です!
え~~~~!嘘じゃろ!?ほんまにかいや!?
ほいじゃあわしの後輩か!
 
不思議なもので同郷という話になると一気に親近感が沸き上がる。

そんな彼が相当な釣りの経験者という事もあり
年が明けて春が来たら一度海釣りに行こうと昨年約束をした。

昔の自分なら、船酔いを気にしてご迷惑をかけるからと
ほぼご辞退申し上げていただろうが
今年は違うぞ。

その後輩が、東京湾でアジ釣りから始めましょうということで
あれよあれよと月日は過ぎて、あと一週間後についに決行となる。

自分で釣った魚を自分でさばいて食べたい

料理にハマっていた時にそう思った事があった。

先輩、大丈夫っすよ! 僕だって船酔いしますから。
酒控えめでしっかり睡眠とって来てください!

なんでもやってみよう という気持ち。

 

R

2016-02-15 | 音楽♪
とてもひさしぶりの後輩と飲んだ。
2006年にmihimaruGTの「気分上々↑↑」という楽曲で
レコード大賞金賞を受賞した作曲のshifo。

彼女自身は、かねてから携わっている「クーペ&shifo」というユニットで現在も活動中だが
7~8年前の国際フォーラムでのコンサートで
「がんばろう」という曲の後に唄った次曲が
「がんばらないで」だったのが非常に印象的で面白かった事を
今でもよく思い出す。

そういえばクーペ&shifoに関してはかつてもこのブログに書き留めた事があった。
「25年ぶりの手紙」

また、少しずつ曲を書き重ね始めたというメッセージをくれて
先日渋谷で会った。

お互いに顔をつき合わせての飲みの席は
かれこれもう15年振りというから恐ろしい。
人の笑顔には何年もの月日を一瞬で取り戻せる魔法があるんだな。


帰りに持たせてくれた最近のデモテープはどれも素敵で
特に飲みの日の二日前に決まったというメジャーグループの楽曲は、
この楽曲ですと言われなくても
誰が聴いても、これだろとわかる曲。

結局はそういうことなんだと思う。

才能のないディレクターに、
「こっちの曲のがいいんでね~かい?」などといった
余計な選択技を与えないで済みそうだ。

そして言葉やメロディーに対してハッキリとイメージを持ったディレクターや
プロデューサーの手にかからないと、60点70点のまま埋もれてしまうか、
そのまま世に出しても売れない結果となる。

どこにどう手を加えても世の中に出てゆく可能性の無いもの、
どこかを少しだけ変えたらそれが120点150点にもなる可能性のあるものを
ちゃんと見分ける事が出来る人間と出会える事は
作品を書くのと同じくらい価値のある事。

何を持ってして、クオリティーと言うのだろうか。
誰が作ろうが何処で録音しようが、
クオリティーはその才能そのものだ。
若い後輩などにもよく質問を受けるが、
機材や録音状態の善し悪しは殆どその楽曲の印象を引き上げる加担もしないし
曲の聞き応えにマイナスなダメージもない。

つまり、いい作品はそのままちゃんと伝わる。

グッドクオリティーなデモテープを聴かされるたび、
一度は崖から突き落とされる気分だ。
俺は俺だよバカヤロ~と思ってはいても
とりあえず彷徨いながら、ゆっくり立ち直る。
デモの出来などを競ってるつもりは無いが
自分では出したくても出し得ない雰囲気を持っていたりすると
その旨味成分は何なんだろうなんてね。

かつて自分のデモを聴かせた事のある後輩が
「いや~、やっぱり唄がいいと違いますね!参りました!」
と言ってくれた事がある。
確かに間違ってはいないだろう。
どんなデモでもその印象は、まずはほとんどがVocalに支配されるが、
しかし不思議なもので、
いくら唄に雰囲気があっても
大した事のないメロはそのまんま
大した事なく響いているはずなのである。

生きる事は日々葛藤の連続であ~る。

超人

2015-10-17 | 音楽♪
さあて
今年も恒例のトシのコンサートでありました。
年々パワーアップするダンスと唄だが
踊りはもちろん、昨夜は歌がすごくよく響いた。



何より一曲一曲がとても丁寧に仕上がって、
僕らが聴いてきたあん時の歌を
何年経っても同じ感じで聴ける心地よさは、
コンサートに来る人達にとっていちばん大事なことなんだと思う。

歌はそれぞれの人の時代やその思い出に寄り添って
一緒に心の中で生きているもの。
彼と共に年月を歩んできたファンの方々それぞれが
その時々の歌に思いをはせながら聴いているのが
会場での周りの会話からもよくわかる。

だからヒット曲って、
歌手のものというよりはむしろ聴く人たちの持ちもの。
メロディーも譜割も出来るだけオリジナルに忠実に表現する事は
歌い手のプロ意識の高さであると思っている。

そんな彼の歌を聴きながら
今年僕は何度か胸がジーンとした。

昔より肺活量が上がり、それが歌の呼吸にもいい影響してるのだろう。
声も今まで以上に良く伸びハイトーンにも艶があった。
来年2月で55才になる男とは思えない超人的なパフォーマンスに
誰一人、老いや物足りなさを感じた奴などいないだろう。

2時間半 ほぼ踊りっ放し

あっぱれ!